ナナハン

上月くるを

ナナハン




 何年か前、家電量販店の店員から「大丈夫、お客さんなら出来ますって」根拠のない太鼓判を押され、半信半疑で取り付けたオーディオは、いっときレンタル店のCDで昭和歌謡を聴く具として重宝していたが、とうに飽きた現在はラジオ、それも馴染みの薄い洋楽の多いFMより、昭和の匂いを残すAMの視聴専用になっている。


 東日本大震災からちょうど10年という日の前日、安楽椅子をリクライニングにして、オトコマエで鷹揚な人柄が気に入っている『武内陶子のごごカフェ』を聴くともなく聴いていたおれは、うとうとしていた目を、かっとばかりに見開いた。


 穏やかなトーンが持ち味の番組には珍しく、極めてシビアな話題が流れている。

 電話の向こうで訥々とつとつと語っている硬骨漢は、家族のように可愛がっていた馬や牛を残したまま、着の身着のままで原発事故直近の村から避難し、それ以来、複数県の都合6か所を転々とし、ようやく落ち着き先を得たという老獣医師らしい。


 はっと息を呑むキャスターをよそに、硬骨漢は経験した事実のみ淡々と語った。


 

 ――避難先のみなさんにはよくしていただきましたが、ときに苛烈な言葉を投げられた記憶もわたしの中に残っています。とりあえず車で避難しましたが、その車を停める場所がない。仕方なく道端に停めていると、通りかかった土地の老婆に「こんなところに車を停めるなんて、警察に通報してやるぞ」と言われたのです。


 ――少し時間が経過したころ、被災者を勇気づけようとバスを借りきってサクランボ狩りを計画したところ、現地の農園主に「おまえらは国から金をもらっているんだろう」という冷たい言葉を浴びせられました。郷里を失ったわれわれに……。

 わたしは老い先短いが、このふたつの言葉は生涯忘れずに墓へ持って行きます。


 

 どんな雄弁なシュプレヒコールにも勝る質朴な訴えを聴いているうちに、おれは胸が苦しくなった。キャスターの声も潤んでいる。おれは自分だけ楽をしているのが申し訳なくなって身を起こし、東の窓から見える庭に目を泳がせた。冬のあいだモノトーンだった枯庭には、さみどりが奔り、沈丁花の蕾が紅色に膨らんでいる。


 何事もなかったように平穏な景色をうしろめたい気持ちで眺めるおれの脳裡に、とうに忘れ去ったと思っていた東京の夜景が、まばゆくフラッシュバックした。


 

                🍃

 

 

 1979(昭和54)年、神田川畔の桜も咲き初めようかという午後7時半。

 新聞社のボーイをしながら近くの私立大学文学部の夜間部に通っていたおれは、親父が倒れ危篤だという知らせを受け、夜行の高速バスで帰郷するところだった。


「耕して天に至る」と言われるほど急峻な限界集落の生家に金の余裕はなかった。

 あと1年で卒業できたのに、卒業すればそれなりの就職先も見込めたのに、幼いころからの夢が急速に遠のいて行く。新宿の街もこれで見納めかと捨て鉢な気分に駆られたおれは、西口の小路で紅ショウガを山盛りにした牛丼をかっこんでいた。


 カウンターだけの店内に流れていたのは、行き場のない若者たちの憂鬱を気怠く歌う流行歌。そのタイムリーな皮肉に泣きそうになりながら「あいにくおれが乗るのは格好のいいナナハンではなくて、田舎行きの高速バスだけどな」と思った。


 

                🌠


 

 だれも想像すらしていなかった東日本大震災の発生はそれから30余年後のことになる。あのとき西口に輝いていた無数のイルミネーションも、原発事故の村から送られた電気でまかなわれていたことを、テレビの前のおれは痛いように知った。


 話せば長くなるが、おれ個人もあれからいろいろあって、いまはフリーランスとして細々食いつないでいる身だが、この国が築いて来た過去に、また、つぎの世代に渡すべき未来に、微力は微力なりに何か果たせただろうか。


「元気ですよ~、声だけはね」キャスターの問いかけに朗らかに応じた老獣医師の、殿しんがりを務めた古武士のように誇り高い声が、おれの胸に殷々いんいん木霊こだましている。

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