絶対に走ってはいけない生き物

結葉 天樹

絶対に走ってはいけない

 唐突だが、俺はピンチに陥っていた。そうだな、どれくらいピンチかと言うと選択肢を間違えたら即死亡のデスゲームくらいだろうか。いや、本気で死と隣り合わせの状態なんだが。


「頼むぞ……動かないでくれよ」


 俺の目の前にはクマがいた。ベアー、クマ、熊。クマ科クマ属ツキノワグマに分類される存在だ。

 ちょっと外出するつもりだった。夜にレポートに取り組んでいた俺は眠気を感じてコンビニに向かった。そこで飲み物と軽食を購入して家に歩いて戻ろうとしていた。そこで遭遇した。

 町中にクマが出るなんて誰が想像する。しかも夜だ。普段昼間に出没するなら夜は寝ていろよくそったれ。


「グオー!」

「ひいっ、ごめんなさいごめんなさい!」


 お願いだ、何でもするから食べないで!

 ん、今の和歌っぽかったな……って言ってる場合じゃねえ!

 どうやら恐怖でパニックに陥っているらしい。

 さあどうする。背を向けて逃げるのだけは絶対にアウトだ。奴らは背を向けた動物を獲物と思う習性を持つとか聞いたことがある。

 そもそもクマの速度は時速四十キロ以上。五輪の金メダリスト以上の速度で力士が走ってくるようなものだ。うん、死ぬ。


 だが、幸いにもばったり遭遇してしまった拍子に目が合ったからいきなり襲い掛かられることはないはずだ。クマと遭遇した時はゆっくり後ずさるのが最良の対処と聞いたことがある。

 ただし、じっと目を見続けるのはダメだ。それはそれでストレスになるらしい。様子を伺いつつ、大胆にかつ繊細に動かなくてはならない。


「ま、まずは一歩後ろへ」


 俺が一歩下がった。

 クマが一歩進む。


「……」

「……」


 一歩下がる。

 一歩進む。


「……」

「……」


 下がる。

 進む。


「ダメじゃねえか!」

「グオー」

「ひいっ!?」


 どんだけ後ずさり続けろっていうんだ。というか向こうが前進したら意味ねえよ。


「そ、そうだ。何か食べ物を」


 持ち物を放り出して食べ物に気を取られてる隙に離れるって対処もあったはず。幸い買って来たばかりの――。


「……なんで激辛スナック買ってるんだ俺は」


 自分の趣味嗜好を呪いたくなる。こんなのクマが好んで食べるのだろうか。一か八かだ。大きな音を立てないようにゆっくり袋を開封してそっと地面に置く。


「グオー?」


 意識が向いた。匂いを嗅いでる。だがこれでお気に召さなかったら打つ手がない。


「ガフッ……ガフ」


 食べたああああ!

 今のうちにクマの視界の外へ。ああでも目立つ動きをして興味がこっちに向いたらいけない。ゆっくりと、それでいて迅速に動かなくちゃ。


 クマがスナックを食べる。

 俺が一歩足を踏み出す。

 スナックを噛み砕く。

 後ろへと一歩進む。

 動きが止まった。

 動きを止める。

 食べ始める。

 一歩後退。

 止まる。

 停止。


「……」

「……」


 沈黙。

 冷や汗。

 食事再開。

 逃走を再開。

 動きが止まる。

 俺は彫像になる。


 走

 り

 て

 ええええええ!


 なんなんだよこの「だるまさんが転んだ」は!

 そもそも時々止まるの何?

 辛いの感じてるの?

 気に入ってるの?

 耐えてるの?

 教えてよ!

 ホワイ!


「グオー……」

「……あ」


 クマが道をそれて行った。あっちは川がある。もしかして辛さで水が欲しくなったとかか?

 どちらにしても今しかない。俺はさっき買い物をしたコンビニに全速力で逃げ込んだ。


「あれ、何か買い忘れですか?」


 深夜にお客さんが来ることは珍しい。俺の顔を見て首を傾げる店員に俺は頷いて言った。


「あのー、クマよけの鈴って売ってますか?」

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絶対に走ってはいけない生き物 結葉 天樹 @fujimiyaitsuki

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