掴め、功名。虎よ、羽ばたけ。
佐倉伸哉
本編
憎い。加藤清正は目の前をごうごうと荒れ狂う濁流を、親の
天正十一年四月二十日、未の初刻(午後一時)。羽柴秀吉は再挙兵した岐阜の織田信孝を攻めるべく兵を進めたが、揖斐川の氾濫により足止めを食らっていた。小姓の加藤清正も岐阜へ向かう途上にあった。
天正元年から秀吉に仕えて十一年、清正は二十二歳になっていた。織田家重臣として各地を転戦する中、六尺三寸(約一九〇センチメートル)の恵まれた体格を活かして数々の武功を挙げてきたが、満足はしていない。尾張中村の水呑み百姓の身から一国一城の主にのし上がった秀吉には家付きの郎党がおらず、武功を重ねていけば
「虎、そんなに睨んでも水は引かねぇぞ」
清正に声をかける森本一久。幼名は力士。摂津国の国人の子で、元々は同じ秀吉の小姓だったが、剣の試合で勝った者が主君で負けた者が家来になるという約束をして、清正が勝利したので清正の家臣となった経緯がある。
一応主従の関係ではあるが長らく友人関係だったこともあり清正を“虎之助”と幼名で呼んでいた。
「左様。気長に待つしかあるまい」
一久に同意を示す飯田直景。幼名は才八。山城国の山崎の生まれで、こちらも一久と同じ経緯で清正の家臣となった。
この両名は清正に仕える家臣だが、清正の身分が低いので禄は貰っていない。手弁当で仕えてくれる両名に報いたい思いも清正を功名を欲する要因の一つだった。
それに加えて、清正には既に妻が居た。近江の名門である山崎片家の娘で、気立てがよく扶持が少なくても文句一つこぼさない、清正には過ぎた嫁だった。苦労ばかりかけているから一日でも早く楽な生活が出来るようにしてやりたい気持ちが強かった。
そこへ、肉付きのいいキツネ目の男が清正を見つけると急いで駆け寄ってきた。
「おぉ……虎之助。ここに居たか。探したぞ」
「市松。いかがした? そんなに慌てて」
福島正則。元は桶屋の
「木ノ本から報せが入った。昨日、佐久間盛政勢一万が大岩山砦を攻めた」
「何……だと!?」
越前から北近江に進軍してきた柴田勝家率いる一軍は柳ヶ瀬に布陣した後、積極的に攻めようとしなかった。こちらも木ノ本に本陣を構え、秀吉の弟・秀長を大将に押さえの兵を置いて岐阜へ向かっていたが……思い切った策に清正も驚きを隠せなかった。
「殿は急いで木ノ本へ向かう事を即断された。――虎之助、いよいよだな」
正則はニヤリを不敵な笑みを浮かべながら言った。
「長らく待ちぼうけを喰らったが、やっと我等の働き場が巡ってきたぞ」
同日、未の正刻(午後二時)。秀吉率いる軍勢は反転して一路木ノ本を目指した。
先頭を走る秀吉の馬を追いかけるように、清正達小姓も懸命に走る。
「力士! 才八! 遅いぞ!!」
自慢の十文字三日月槍を肩に担ぎ、重たい鎧を身に着けながらも、清正は先頭集団から遅れずに疾駆していた。
「虎、速い……」
清正から少し遅れて一久と直景が必死の形相で食らいついているが、返事を返すのが精一杯という表情だった。決して手を抜いている訳ではなく、清正の人並外れた身体能力に追い縋るだけでやっとという感じだ。
「先に行くぞ!」
清正は一言告げると、さらに速度を上げた。二人の姿がどんどん小さくなるが、清正は振り返ることなく真っ直ぐ前だけを見据えていた。
秀吉軍は去年、備中高松から播磨姫路まで二日で走破した“中国大返し”の経験があった。当時は鎧や武器などは船で輸送して兵達は軽装で走っていたが、今回は武装解除しない代わりに距離が短かった。清正も当時従軍しており、若さも相まって持久力に自信はあった。
道中の村々では炊き出しが行われ、握り飯や味噌が山のように盛られ、水を満たした樽や替えの草鞋まで用意されていた。将兵達は何の
さらに、日が暮れてくると木ノ本までの街道沿いに松明が等間隔に灯され、明かりを確保すると共に道しるべの役割も果たしていた。
(誰の差配か知らぬが、至れり尽くせりだな……)
清正は走りながら感心していた。兵達にとって不安なのは腹を満たすことや道中の安全、道を間違えない事だが、どれも兵達が心配する前にちゃんと準備されている。恐らく同じ秀吉の小姓の誰かが予め手配したのだろうが、ほぼ完璧な準備に清正も唸らざるを得なかった。
秀吉率いる本隊は戌の初刻(午後七時)に木ノ本に到着し、十三里の距離を二刻半(約五時間)で走破した。当時としては異次元の速さで、後に“美濃大返し”と呼ばれることとなる。
岐阜に居ると思っていた秀吉本隊が木ノ本に戻ってきた事に驚いた佐久間盛政率いる軍勢は直ちに大岩山砦からの撤退を開始した。秀吉は自ら率いてきた軍勢を一旦休ませると、二十一日未明から盛政勢に攻撃を開始した。しかし、“鬼玄蕃”の異名を持つ盛政をなかなか突き崩せず、決め手を欠く状況が続いていた。
その時、撤退が遅れていた盛政の弟・柴田勝政の軍勢に秀吉は攻撃目標を変更。撤退途中にある勝政の軍勢は秀吉の軍勢と抗戦する事で足が止まり、苦戦を強いられていたと見た盛政も窮地を救うべく加勢。両軍がぶつかる賤ヶ岳付近は一気に激戦の様相を呈してきた。
ここでもう一手、新たな戦力を投下すれば流れが傾く。秀吉は傍らに控えていた小姓達に向かい、叫んだ。
「お前達、待たせたな!! 名を上げる時が来たぞ!! 遠慮はいらぬ、思う存分暴れて来い!!」
秀吉は子飼いの小姓を投入する事で、この局面を打開しようと決めた。主君の言葉を受けた小姓達が各々の得意な武器を手に、斜面を駆け下りていく。
その中には、十文字三日月槍を手にした清正の姿もあった。
「うぉぉぉぉぉ!」
雑魚に興味は無い。狙いは大物、名のある武将の首。
若さと勢いのある小姓達が突撃したのに続き、秀吉が温存していた近習達も加勢してくる。強兵で知られる佐久間勢も羽柴勢の勢いに押され、徐々に押され始めた。
そこへ――。
「前田勢が引いていくぞ!」
敵味方の双方から声が上がる。佐久間勢の後方に陣を構えていた前田利家・利長の
後ろに控えている筈の味方が引いていく動きを見せた事で、辛うじて踏み止まっていた佐久間勢も明らかに戦意が衰えていくのが肌で分かった。恐怖に支配された雑兵が次々と武器をして逃げ出していく。それを何とか押し留めようとする組頭も居たが、羽柴勢の槍に貫かれて沈黙する。
その混乱は柴田方全体に広がり、最早収拾がつかない状況にまでなった。清正は名のある武将を求めて、奥へ奥へと突き進んでいく。
誰か、誰か名のある武将は居ないか。混乱の渦中にある敵中を無我夢中で走り回る清正。
すると……偶然にも見覚えのある人物を見つけた。
「そこに居わすは山路
清正が叫ぶと、相手も清正の声に気付いて振り返る。煌びやかな鎧兜は返り血に染まり、土や埃で汚れていた。
山路“将監”正国。柴田勝豊の付け家老で、病床にある主君の代理で軍を率いていた。だが、佐久間盛政の調略により羽柴方から寝返っていた。
「いかにも。
「拙者、羽柴筑前守が小姓、加藤虎之助! 一騎打ちを所望致す!」
「小癪な。返り討ちにしてくれるわ!」
直後、槍を合わせるが……相手は名のある武将。相当な手練れである事はすぐに分かった。清正の恵まれた体格から繰り出される槍を難なく
「虎!」
「虎之助!」
苦戦している清正の姿を見つけた一久と直景が近付こうとしたが、清正は「助太刀無用!」と一蹴する。一騎打ちを申し込んだ以上、味方の力を借りるのは恥と捉えていた。
「その意気や、よし」
ニヤリと笑う将監。その表情にはまだ余裕が感じられる。
(このままでは埒が明かない……次で決着をつける気持ちで、全力でぶつかる)
覚悟を決めた清正は雄叫びを上げながら、渾身の突きを繰り出す! 将監も槍を合わせたが……清正の槍の勢いに負けて、将監の槍が折れてしまった。
清正の槍は、将監の胸に突き刺さった。自らの身体に槍が刺さっているのを見た将監は口から血を吐き、地面へ仰向けに倒れた。
「見事だ……お主になら、この首を授けても悔いはない……」
息も絶え絶えに漏らした将監。清正は「御免!」と叫ぶと、一太刀で将監の首を掻いた。
激戦を終えた清正も疲労困憊だったが、最後の力を振り絞って立ち上がると、大声で叫んだ。
「山路将監、加藤虎之助が討ち取ったりー!!」
敵将山路将監を討ち取る武功を挙げた清正は、戦の後に秀吉から三千石の所領を賜った。賤ケ岳の戦いで特に戦功のあった七名を“賤ヶ岳の七本槍”と讃えられ、清正もその内の一人として賞賛された。
これ以降、清正は羽柴家随一の武将として走っていくこととなる――。
掴め、功名。虎よ、羽ばたけ。 佐倉伸哉 @fourrami
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