へちまが枯れたら走ることになってしまった。
加瀬優妃
夏休みの思い出
あれは、小学4年の夏休み。始まって一週間ぐらい経った頃だったかな。
朝早く、眠い目をこすりながらじょうろを持って庭へ行ったんだけど……そこで、愕然としてしまった。
へちまが枯れてしまったのだ。
このへちまは、学校の理科の授業で一人一つずつ育てることになった、「私のへちま」だ。
春に種まきをして、本葉が出たら植え替えをして、巻きひげが出てきたら支柱を立てて。先生に言われた通りに、せっせせっせと世話をした。
1学期の終業式の日、学校からうんしょ、うんしょと重い鉢を抱えて帰ってきて。
夏休みの自由研究はこの「へちまの観察」か「自由工作」か「オリジナルの自由研究」の三択だった。
不器用だから図画工作なんて大嫌いだし、新たに自分で研究テーマを見つけるのは面倒くさいし、たいていの子はこの「へちまの観察」をチョイスすることになるんだけど。
そのへちまが枯れてしまった……つまり、私は自由研究ができなくなってしまったのだ!
これまで学校では優等生で通してきた。夏休みの宿題が提出できないなんてこと、あってはならない!
「お母さーん、どうしよう!」
「どうしよう、じゃないでしょ。去年まではお母さんが水やりしてたけど、ユキの宿題なんだからいい加減自分でやりなさいって言ったじゃない!」
「だって……」
言い訳しようとしても、言葉なんて続く訳がない。水やりを忘れていた自分が完全に悪いんだから。
うるるるる、と目に涙がいっぱい溜まっていく。
「自由研究、どうしよう?」
「知らないわよ」
「お母さーん、助けてよー!」
「うるさいわね!」
ダン、とお母さんがイライラしたようにテーブルを叩く。ビクン、として涙が止まった。
文字通り目を三角にしたお母さんは、すごく怖かった。基本的に子供の甘えというものは一切許してくれないのだ、この母は。
「何もないなら、自分の体を張るしかないでしょう」
「へ?」
「あんたこれから毎朝、ラジオ体操の前にマラソンしなさい」
「……え?」
お母さんの提案は、こういうものだった。
あらかじめ家からラジオ体操の公園までのマラソンコースを決める。
毎朝早起きしてそのコースを走り、タイムを計る。
夏休みの一カ月でどれぐらい早く走れるようになるか挑戦する。また、走っていたときの体の状態や、気づいたことなどをメモする。
「それで立派な自由研究でしょ」
そう言い捨てて、お母さんがフンとそっぽを向く。
「嫌だよ! 早起き苦手だし、走るのも苦手なのに!」
「じゃあ自分で工作なり研究なり見つけて頑張りなさい」
「そんなの無理だよぉ!」
「ワガママばっかり言わないの! 走るのと宿題できなくて先生に怒られるの、どっちがいい!?」
恐ろしい剣幕でそう言われてしまっては、もう選択の余地はなかった。
私は仕方なく毎朝早起きしてマラソンをすることにした。
* * *
私は走るのが遅い。夏休み後に行われる運動会の徒競走は、いつもビリだ。
一生懸命走っている、でも無理なものは無理だから仕方がない。もう諦めてた。
なのに、マラソン……。
お父さんが家の周りから遠くのスーパーをぐるっと回り、公園までのコースを車で走り、距離を測ってくれた。約1キロ。
これから毎朝これを走るのかぁ、うええ、と思いながら初日は走った。
よく知っている近所の道だし、目新しい事なんて何もないしなあ。
愚痴りながら、二日目も走った。
近くに住んでる友達に見つかると恥ずかしいな、家の近くはさっさと走り抜けてしまおう。
大きく手を振って、三日目も走った。
そうして一週間ぐらい経つと、体が慣れてきたのか「しんどい」という感覚が薄くなってきた。
マラソンのゴールはラジオ体操をする公園。ちょうど始まる時間ぐらいに着くように決めたはずだけど、始まるまでにだいぶん時間が空くようになった。
「同じコースは飽きてきたから、変えてもいいかな?」
お母さんにそう言うと、お父さんに頼んで新しい少し遠回りのコースの距離を測ってくれた。今度は1.5キロ。
道が変わると、何だか新鮮だな。それに朝早いと、見慣れた景色も全然違う風に見えるし。
あそこの家の大きなワンちゃん、いつもこの時間に散歩してたんだ。知らなかった。ワンちゃんを連れているおじさんと、何となく挨拶を交わす。
あ、何かいい匂いがする! パン屋さんだ! お店は開いてないけど、もう準備してるんだなあ。
おっとと、ここの踏切に捕まると長いなあ。足踏みしているの辛いから、もうちょっと早く辿り着いて捕まらないようにしよう。
タイムだけじゃなくて、その日感じたことも一緒にメモをする。
そして夏休みが終わるころには、それはノートまるまる一冊の、立派な自由研究になっていた。
心なしか体も軽くなって、朝に走ることが私の当たり前になった。
夏休みが終われば、ラジオ体操はもうない。ゴールは無くなったし、それ以上何の目標もなかったけど、毎朝のマラソンは続けることにした。
マラソンを続けるならお小遣い少しアップしてあげるわよ、って言われたから、それに釣られちゃった。
前ほど走るのも嫌じゃなくなったし、もう距離とか測らなくていいから、自分が行きたい道を走ってもいいんだし。
それなら続けられるかなって思ったんだ。
* * *
「……そして今がある、と」
「そうそう」
額の汗をタオルで拭きながら答える。
目の前の彼は、テーブルに置かれたコップにオレンジジュースを注ぎながら、少し首を傾げた。
「で? 実際、足は速くなったの?」
「なったよ! ずっとビリだったのに、2学期始まってすぐにあった運動会で4位になったもん!」
「よんっ……そこは1位とかじゃないんだ」
「リアルでそんな上手い話にはならないよ」
アハハ、と笑いながらダイニングの椅子に腰かける。
目の前にはさきほどのオレンジジュースの他、熱々の蜂蜜トースト、輪切りの茹で卵が乗ったサラダが並んでいた。
日課となっている朝のジョギングをして帰ってくると、ダンナがいつも用意してくれる、私の朝食。
「でもさ、ほら、ヨウくんと出会ったのも朝じゃない」
「ああ……うん」
大学生のとき、早朝の公園で酔いつぶれて寝ているヨウくんをベシベシとビンタして叩き起こした、というのが、私たちが付き合うきっかけ。
さすがに見知らぬ他人ではなかったよ。大学で同じ講義取ってる人だな、とは思ってたんだけどさ。
「朝のジョギングしてなかったから、ヨウくんにも会えてなかったしねー」
「俺からしたら出会いは最悪だわ。一番みっともないとこ見られた」
私の向かいに座ったヨウくんが、律義に「いただきます」をしながら溜息をつく。
ヨウくんからしたらそうかもしれないけど、そんなことでもなければきっと私達は付き合ってないし、結婚なんてしてない。
「いいじゃん、いま幸せでしょ? 違う?」
「んー、まぁ」
「返事がおざなりすぎる!」
二人で馬鹿な話をしながらとる朝食は、いつも同じトーストとサラダだけど、毎日美味しいし、毎日幸せ。
走ることは、苦手だった。今だって、そう得意な訳じゃない。
だけど走ることは、私に早起きと宿題と辛抱強さと逞しさと――そして、素敵なダンナ様も与えてくれた、大切な日課だ。
さぁ、また新しい何かと繋げてくれるかも。
いつもと変わらないけどいつもとは違う何かを期待して、私は明日も明後日も走り続ける。
へちまが枯れたら走ることになってしまった。 加瀬優妃 @kaseyou
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