聖火リレーを用いた火葬について

春海水亭

火走行列


うごめく一つの塊のように、歩道は人で埋まっていた。

彼らの目は全て、トーチを掲げた聖火ランナーに向けられている。

今日ばかりはその道は車のためにはない、自分の脚で走る者のためにある。


その日は聖火リレーという儀式の日であった。

某国から輸送された聖なる火をトーチに収め、

複数の走者がバトンを受け渡すように、その火を目的地まで運んでいくのである。

何故、そのような奇妙な儀式が行われるのか、

そのことは大した問題ではない、

ただこれまでの長い間続いてきたものが、今日という日も行われただけのことだ。

祝祭とはそのようなものである。


聖火ランナーに併走するセキュリティランナーは

祭りの雰囲気に気を緩めることはない。

日本国内どころか世界中で注目される儀式である、

なにか問題が起これば、その注目の分が失望や批判に転化される。


歩道から車道に人が雪崩込まぬように、厳重な警備が敷かれている。

それだって、事故を防ぐためのものであり、

事件を防ごうと思えば、歩道いっぱいの人に紛れた悪意に対しては後手に回る。

最悪の事態に備えては、

やはりセキュリティランナーが常に気を張らなければならないのだ。


どれほど走っただろう。

セキュリティランナーの視線の先には、次の聖火ランナーが見える。

これで仕事が終わるわけではない、

今日という日の儀式が終わるまでに何人ものランナーに聖火を受け渡していく。

それでも、次の相手に聖火が渡ることに、ほんの少しだけ安心を覚えた瞬間――

後先を考えぬ全力のスピードでトーチを受け取った聖火ランナーが走り出した。

それこそセキュリティランナーが追いつけぬ速さで。


(やってしまった……!)


肉体的な疲労ではない、精神的な緊張が彼の鼓動を叩いていた。

ひじり ほむらという。

聖火ランナーに選ばれ、そして今セキュリティランナーを置き去りに全力で走っている。

戸惑う者もいれば、何かの余興を見るかのように歓声を上げる者もいる。

気温や運動量以上の熱が焔の体に溢れた。


「焔ぁっ!」

「ああ!」


歩道からの叫び声に、焔は応じる。

警備の視線は車道側ではなく、歩道側に向けられている。

故に、警備の警察官は背後から来る者に対して反応を遅らせてしまった。

焔の空いた手が警察官の背を押す。

そこに生まれた人の壁の隙間に焔はトーチの火を差し出した。


その先には、やはり人の壁の中から突き出された細長い棒がある。

その先端部には油を染み込ませた布が巻きつけてある。

全く原始的な松明であった。


焔は聖火を分け与えると、再び車道を走り始めた。

果たしてこの時点で聖火リレーは中断されるのか、あるいは続くのか、

そればかりは走ってみなければわからない。


歩道は身動き一つ取れぬ一つの蠢く人の塊のようであったし、

その松明の先に聖火を受け取った結城ゆうき 紡久つむぐもそうであった。

そして、警察官もまたそうだ。

何故か生まれてしまった二つ目の聖火、

その主を取り押さえるためには人の波をかき分けなければならない。

だが、聖火であろうが火は火――危険物であることに違いはない。

警察官には慎重な動きが求められていたし、

しかし、紡久は違った。


「うぉっしゃぁー!かける!」

腕しか動かせぬ状況下で紡久は躊躇なく松明を放り投げた。

その先は民家の屋根である。

果たして、腕だけの動きでこれほどの飛距離を稼げるものであるのか、

しかし、実際もう一つの聖火はくるくると弧を描きながら、

屋根で待ち受ける手望てもちかけるの元まで飛んでいったのである。

紡久が元甲子園投手で趣味がファイアージャグリングであることは言うまでもない。


「……うん」

くるくると屋根まで飛んできた聖火の持ち手を駆は器用に掴んだ。

そのまま屋根の上をひょいひょいと伝って、次の家へ、次の家へ、と進んでいく。

(皆……上手くやってくれた……僕もせいぜい頑張ろう……)


片手は聖火のために埋まり、その上炎という危険物を持ちながらも、

屋根の上を飛び回る駆は汗一つかかない。


だが、その恐るべき曲芸を見る観客はいない。

大通りは聖火リレーのために人で埋まっているが、

その分他にいるはずの人が減って、今この住宅街に住民は誰もいないのだ。


「待ちなさい!君!積極的に正当防衛していくぞ!」

だからこそ、警察官にとっても状況は有利に働いていた。

全ての警察官が聖火リレーのために駆り出されているわけではない、

聖火が運ばれていようと犯罪は起こるし、道にも迷う。

そのために、待機していた警察官が人通りの少ない道をスイスイと移動し、

屋根も容赦なく上り、とうとう駆のもとにたどり着いたのである。


「……待てない」

「そこを待ってもらうのが国家権力というものだ。

 本官はもう、正当防衛という言葉を自由に使える暴力の同義語と解釈している。

 本官が積極的に正当防衛する前に逃走行為を辞めなさい。

 本官の警察学校での記憶に過剰防衛の言葉は無いぞ!」

國尾くにおまもるという警察官が、

事件を起こす側に回っていないことは日本国における奇跡の一つと言えるだろう。


「……怖」

如何なるアクロバティックなアクションにも汗一つ流すことが無かった駆が、

顔を歪め、ダラダラと汗を流しながら、再び屋根を飛び回り始める。

聖火を運ぶ使命感はあったが、

それ以上に狂気が警察官の制服を纏っている事実が恐ろしすぎた。


「待て!拳銃は使わないが、本官は警棒の使用に容赦はない!」

ジリ、と音が鳴ったのが違法改造された警棒から発された電撃の音であると

知っているのは、恐らく守だけであろう。

駆に後ろを振り向く勇気は無かったし、

警棒が違法改造されているという想像力を働かせる気も無かった。


「……はぁ、はぁ」

息を荒げ、運動量に反してむしろ体温を下げていきながら、

それでも、駆は飛び回り続けた。

「正当防衛!正当防衛!正当防衛!」

背後からの声は消えることなく、その上常に一定の距離を保っている。

恐るべきことに、

屋根の上を移動できることはこの警察官に対して何一つ優位に働いていない。

駆は視線を下にやり、飛び降りた。

それと同時に、守もまた飛び降りる。


道路を走り始める二人、その視線の先には一人の男がいる。

「市民さん!本官の先を走る男は危険です!

 ですがご安心を!やられたらきっちりとやり返しておきます!市民に代わって!」

走志そうし!」

「駆……その警察官なんだ!?」

「いいから、走って!燃やすんだろ!?」


駆はとうとう、聖火を最后さいご走志そうしに渡した。

トーチを片手に走志は走り出す。

「市民さん!アナタも聖火を……盗んではいないが、

 聖火リレーに乱入……というには、そもそも聖火ランナーがアレで……

 だが、間違いなく何かしらの罪状に引っかかること間違いなしの一味でしたか!

 正当防衛させてもらいましょう!」

「なんなん!?なんなん!?なんなん!?」


走志は自分の走る理由を知っている。

そもそも聖火を手に入れたいと願ったのは、自分だ。

それに3人の親友が力を貸してくれた。

そして、聖火を運ぶ最後の走者として自分は走っている。

警察官に追われることも想定はしていた。

だが、ヤバイタイプに追われるとは思っていなかった。

恐らく過剰防衛寄りというか、

業務上過失致死傷罪を通り越して殺人罪寄りの正当防衛をされかねない。


許されるかわからないが、

少なくとも素直に謝罪して他の警察官を待ったほうがいいだろう。

走志の理性はそう考えているが、走志の身体はやはり走っている。


――聖火ランナー、無理そうだな


走志は父親の最期の言葉を思い出す。

かつて蔓延していた新型ウイルスによって聖火リレーは延期となり、

聖火ランナーに選ばれた父親は結局走ることは出来なかった。


――何言ってんだよ親父、こんな病気治しちまえよ

――俺の身体のことだからなぁ、まあ……心残りだが、しょうがない


走志は荒い息遣いを背後で聞いた。

常に一定の距離を保ち、警察官は未だに追ってくる。


――せめて聖火で俺の死体焼いてくれねぇかなぁ

走志の記憶の中で父親はそう言って笑った。

すべてを諦めた笑いだった。

その言葉が父親の最期の言葉になった。

冗談だったのだろう、子どもだってそう思う。


「正当防衛!正当防衛!」

身体が融解しているかのような、どろりとした汗が流れた。

身体は熱を帯びていたが、

背後の警察官やこれからの人生を考えると、心はどこまでも震えた。


――俺なぁ、聖火持って走るんだ。いいだろ?

あまり笑わない父親だった。

特に母親が死んでからは、そうだ。

その父親の笑顔を思い出そうとすると、

聖火ランナーに選ばれたことと最期の冗談、それぐらいしか思い浮かばなかった。


「待ちなさい!君!わかった!今なら手加減した正当防衛にしよう!」

「待たねぇよ!」

息が荒くなり、心臓は早鐘を打つ。

脇腹は痛みだし、警察官は相変わらず叫び続ける。


――あのさぁ、俺……聖火で親父を燃やしたいんだよね

ウイルスが収束し、久々に集まった時、親父とは違って、俺は全くの真顔で言った。

世界一豪華な火葬だな、と誰かが笑った。

やるか、と誰かが続けた。


「やってやる!やってやるよ!!」

上着を脱ぎ捨てたかった、下着すらも重かった。

ゴール地点は最初から決まっている。

自分の家の庭に、落ち葉と一緒に親父の骨壷を用意してある。


「遅くなったけど、きっちり聖火で燃やしてやる!」

「待て!放火犯!」

「もう十分待たせてんだよ!!」

叫び、走った。

身体の底の方から嘔吐感がこみ上げてきた。

額から流れた汗が目の中に入り込み、視界を覆った。

身体中の全ての力を使って、それこそ髪の毛から爪にまで力を貸せと走志は命じた。

ひたすらに走った。気づくと、警察官の声が少し遠ざかっている。


鏡があれば、白髪が増えていることに気づくだろう。

それほど全力で走り、そして走志はゴールに辿り着き、聖火を灯した。


煙は天国にも届くだろう。

「ハァ……ハァ……正当防衛……」

息を荒げながら、少しずつ近づく警察官の声を聞きながら走志は思った。

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聖火リレーを用いた火葬について 春海水亭 @teasugar3g

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