鳥籠
染井雪乃
鳥籠
雲一つなく、晴れた空が広がっている。僕は、サングラスとマスクをして、図書館へと向かっていた。
僕を見送る母の、困惑した声がまだ耳にこびりついている。
「おうち時間ってテレビでもネットでも言っているのに、何で出かけるの? 勉強なら家でしたらいいじゃない」
ウェーブのかかった髪を触りながら、母は心配そうに言葉を連ねた。そこには子どもを心配する、どこまでも正しい母の姿があった。
それはたしかに正論だ。だが、僕は家にいられない理由があった。
「そもそも、玲は外に出るのだって、準備がいる体質なんだから、気になる本は電子で買うなり、配達頼むなりして、家にいればいいのに。今までだって、そうだったでしょう?」
「……市場には出回っていないけれど、図書館にはある本というのもあるんだ」
「それは、わからないでもないけど、こんな時期に図書館に長居することはないじゃない」
言い負かされて、それでも僕はスニーカーを履く手を止めなかった。この家に居続けることは、僕を殺していくとわかっていたからだ。
「なるべく早く帰るよ」
見え透いた嘘をつき、財布と勉強道具の入ったバッグを持って、僕は外に出た。
日差しが、僕の目を刺してくる。
図書館に向かいながら、僕は考えた。何でこうなってしまったのだろう。
本来なら体質からしても、生来の気質からしても、外に出るのを好まない僕であるが、おうち時間と言われるようになってからは、図書館やカフェを中心に、彷徨っていた。おうち時間、とテレビが言う度に僕の心は死んでいった。
僕は、高校生だけれど、高校に通ってはいなかった。不登校というのではない。現実逃避しているやつらと一緒にされたくはない。僕が在籍しているのは基本的にオンライン完結の通信制高校だ。だから、おうち時間なんて言われる前は、僕はほぼひきこもり状態だったのだ。それが、おうち時間がどうのこうの、感染拡大がどうのこうのとテレビが騒ぎ出し、緊急事態宣言なんてものが出てから、僕は深夜に家を抜け出して夜の町内を歩いてみたり、今みたいに昼間に図書館へと出歩いたりするようになった。
父も、母も、弟も、家にいるようになった途端、僕は息苦しくて、家にいるのも落ち着かず、日焼けに弱い肌にあれほど嫌っていた日焼け止めクリームを塗って、図書館に向かっているのだ。
断っておくけど、うちは問題のある家庭ではない。親に叩かれたのなんて、小さい頃にお湯がたっぷり入ったやかんを触ろうとして、手をぴしゃりと反射的にやられたくらいだ。体質上、いろいろと配慮が必要な僕のためにあれこれと手を回してくれている。いい両親だと思うし、他人からもそう言われる。
では残りの一人、弟はどうかと言えば、それも問題はない。容姿が目立つ上に苦労せずともそれなりの成績を取れてしまう僕に対して、弟は人一倍努力して成果を出すタイプで、その違いで恨まれていてもおかしくないのだけど、そんな様子はない。僕が逆なら、そんな兄貴は妬ましいだけだと思うんだけど、弟は優しい。
僕と連れ立って歩くことも嫌がらないどころか、むしろ自分から一緒に行動したがる。
「玲は危なっかしいから、オレと歩けばいいんだよ」
そう優しく笑んで気遣ってくれる弟は、たしかに得難い存在だ。
でも、何で家族とずっといるのが、こんなにも僕を息苦しくさせるのだろう。
その答えは、まだわからない。
そんなことを考えているうちに、図書館に着いた。
「玲、何してんの」
図書館の入口で、先ほど思い浮かべた弟が待っていた。顔立ちの整った美少年で、サラサラ揺れる黒髪と、意志の強さを示す瞳が、異性にモテそうだ。実際、モテるとかモテないとか母から聞いた。
壁に寄りかかったまま、弟は、僕のことを見て、泣きそうな顔をした。
「家にいるの、そんなに嫌?」
ここで、本音を言える兄だったら、幾分かよかったかしれない。でも、僕は今にも泣きそうな弟を前に本音を言えるほどではないのだ。弟の前では、いい兄であろうとしてしまう。いつも、弟に気遣われている分、兄らしくありたいのだ。
「嫌……ではない」
「ならどうして、家を出てくんだよ。皆、心配してるよ」
心配。それは正当なものだとわかっている。
だけど、僕は視界がぐにゃりと歪むような不快感を感じた。僕を、閉じこめておこうというのだろうか。オンライン完結型の通信制高校は自分で選んだことだからいい。でも、今のこれは、何だろう。僕は、今、家に閉じこめられようとしているのではないか。
心配していたら、他人の行動を制限していいのか。
僕は、出かけた言葉を飲みこんで、弟に笑う。
「図書館で、やりたいことがあったんだ。心配かけてごめん」
「それならそうって言ってよ……」
弟が、はーっと息を吐き、安心して笑みを浮かべた。僕は声が出なくなるほどの息苦しさを感じたけれど、気づかないふりをした。
鳥籠 染井雪乃 @yukino_somei
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