薄明を彩る

入ヶ岳愁

薄明を彩る

 私がほんの小さな子どもだった頃から、実家の急な階段を上がってすぐの小さな一室はわたし専用の部屋ということになっていた。明かりといえば東向きに付いたはめ殺しの窓だけで、蛍光灯を点けないと昼でも薄暗い部屋だ。祖父の代では物置に使ったと聞いている。なぜそんな部屋がわたしの個室になったのかといえば、他でもない幼い頃のわたしがせがんだからだった。薄暗さと埃と、染み付いた旧い匂いはわたしの考える「秘密基地」のイメージと相性がよかった。

 夜になって寝るのは普段は両親と同じ寝室で、秘密基地へ行くのは専ら日中、たとえば小学校から帰った後に宿題からの逃げ先として、あるいは休日の早朝、家族の誰よりも早く起きてしまった時に暇を潰す遊び場として重宝していた。それでも家にいる時間のうち、眠る以外の半分を過ごしたのがその部屋だったのだ。

 だからだろうか、昔のわたしにとって、空とはあの明かり取りの窓から見た東の空だった。隣家の瓦屋根の上にぽっかりと浮かぶ空。もちろん他の空を知らないわけではないが、往来を歩く中でわざわざ空を見上げることもない。一方あの秘密基地から見る空というのは、風の通らないまどろんだ空気がそう見せるのか、甲冑のような隣家の黒い瓦が良かったのか、子どものわたしがいくら眺めても飽きない魅力があった。

 東の空ばかり見ていると、必然印象に残るのは夜明けの空だ。日の出は建物の陰に入ってしまうが、かえってそれが朝焼けの色をくっきりとわたしに見せてくれた。朝焼けといえば太陽に近い辺りの燃えるような朱色や眩い黄色の印象が強いが、そこからもう少し視線を上げると未明の気配を残す群青色の空が見渡せる。わたしはその見るからに清々しいような感じも好きだったし、その群青色と朝焼けとの間にある空の色も好きだった。昇る太陽よりも少し上の、そのまたもう少し上の空だ。

 そもそも空の色というものは、朱色や黄色からいきなり青に切り替わるわけではない。さりとて虹のように鮮やかな緑が挟まるわけでもない。一度図工の時間に夜明けの空を描こうとして、その種の失敗をしたことがある。水彩絵の具を考えなしに塗ったせいで、黄と青の境界で不自然な黄緑色の線ができてしまったのだ。間に白を挟むべきだった。

 そう、白だ。太陽の赤と夜の青の間には、薄っすらと白い空が覗く。空が白むという言い回しがあるのだから、これは何らの不思議もない。わたしがもっとも好きな家での過ごし方とは、刻々と移り変わっていく空の色を日曜の朝にでもじっと眺めていることだった。

 大学の近くに下宿を探そうという時になって、しかしわたしは別にこだわって東向きの部屋を取ろうとは思っていなかった。むしろ、自分の秘密基地がどちら向きにあったものかも意識していなかったに違いない。ただ、何軒目かに内見したそのアパートは部屋に入ってみるなりなんとなく懐かしさ、居心地のよさを感じた。その時は夕方近かったから気付かなかったが、一度その部屋で朝を迎えてみると、なるほどここは東向きかと、同じく東に取り付いた掃き出し窓を見てよくよく納得したものだ。

 越してから一ヶ月経った夜のことだった。新歓という名目でただ飯を食べ、酒は丁重に断って帰ってきた時のことだ。アパートの錆びた外階段を上って突き当たりがわたしの部屋だった。鍵を開けて中に入ると、まず人の気配を感じた。物音もないのに気配を感じるなど嘘くさいと常々思っていたが、誰もいないと決め込んでいた部屋に誰かがいるというのは、直感あるいはわずかな匂いの変化などで気付けるものなのだろう。

 すうっと肝が冷えて、食べたばかりの飯が胃に重くのしかかるように感じた。だが同時に、気のせいだろうという強気な心もあった。ここは二階だし、鍵は掛かっていた。初めての一人暮らしが暗がりに鬼を見せているのだと、自分を宥めてやっと部屋の電気を点けた。誰もいない。深く息をつく。荷物を下ろして上着を掛け、部屋の面積の三割は占めるベッドへどさりと身を横たえると、入り口から死角になっていたベッドの陰に小さな女の子が座っていた。

 とっさに何も反応を返さなかったのは、驚かなかったからではない。むしろ驚きすぎて、腰の代わりに舌が抜けた。呼吸の仕方も束の間思い出せなかったほどだ。

少女は春の夜には寒そうな絹色のワンピースを着て、ベッドの背と掃き出し窓との隙間に体育座りですっぽり収まっていた。まだ中学に上がらないくらいの齢だろう。肩まで伸びた髪はいっそ平面的なまでに黒く艶々としていて、カーテン越しに月明かりを受けたところだけが濃い藍色に見えた。少女は大きな目でもってわたしをじっと見つめていた。顔に驚きの色はない。

 二秒ほどが過ぎて、一度落ち着いて、それでも私は声を上げなかった。ふっと少女から目を逸らし、起き上がって冷蔵庫から缶ビールを取り出した。先日友人が飲み残していったものだ。プルタブを開けてからグラスに注ぐべきか迷って、そのまま口をつけた。初めて酒を飲んだのがその時で苦味しか感じなかったが、いい気付けにはなった。

 幽霊だと思った。この部屋が安かったのにはそういう理由があったのだと、怒り交じりの納得すら覚えた。幽霊の中でも子どもの幽霊ほど恐ろしいものはない。目が合ったとして、うかつに声を掛ければたちまちに取り殺されてしまうだろう。全て映画の知識だった。

 わたしは無理に鼻歌なんか唄って、握った缶の中身を美味そうに音を立てて啜ってみた。何気なく窓辺を見る。少女と目が合った。また一口ビールを啜る。苦味だけが現実だ。缶の残りが無くなるのを恐れて、わたしはしばらく泡ばかりを少しずつ吸った。

 ベッドに腰掛けてしばらく極度の緊張を味わっていたところへ、ふわりと風が頬を撫でるのを感じた。すわ少女の幽霊が耳元にまで近寄ってきたかと思ったが、実際には単なる風だ。ただ部屋の中でどうして風が吹くのか。

 掃き出し窓の先は狭いベランダに通じていて、洗濯物を干してある。それがわずかに開いていた。朝は確かに閉めたような気がするが、しかし今は開いている。錠は壊れていない。わたしはカーテン越しにゆっくりと窓を閉めて、鍵を掛けた。

 わたしの中で再び苦味以外の現実が息を吹き返し始めた。つまり、この少女はどうにかしてアパートの二階へよじ登り、ここまで侵入してきたのだ。家出か何かだろう。となればすぐにも出ていかせるべきだが、今日は春にしてはよく晴れて、冷える夜だった。

 朝まで待って、それから警察に言うと決めた。わたしは残ったビールを流しに捨て、寝間着に着替えて床に入った。一人暮らしの部屋の中に知らない少女が座っているという、物語めいた非日常感に酔ってもいたのだろう。

 静かになってみると、これまで聞こえてこなかった少女の息遣いや、身じろぎする時の音などが耳に入るようになった。わたしは寝首を掻かれるだろうか。掻かれるかもしれない。そうでなくとも財布は盗られるだろう。だがそれでもいいじゃないか。もちろんわたしは慣れない酒に酔ってもいた。

 時折とろとろしているうちに、気付けば午前五時を過ぎた。窓から光を感じ、ついに太陽が昇ったのを悟った。

 わたしが身を起こして窓を見やると、少女はいつの間にか立ち上がってわたしに背を向けていた。ワンピースと、その下に覗く素足と、長い髪だけが見える。その髪、夜は真っ黒であったはずのそれは、今見るとまさに燃えるような赤色に変わっていた。

 わたしは息を呑む。ゆっくりと振り返った少女は、薄く笑みを浮かべている。その間にも髪は頭の先からだんだんと黄色に、次いで淡い雪のように白く変わっていく。わたしが絵の具で描けなかった白だ。じき空色になるのだろう。

 その髪色の、少女の顔のなんと見慣れたものか。紛れもなく十余年を共に過ごした相手だった。夜の彼女の姿をこれまでよく知らなかったというだけで、その実ずっとわたしの傍にいたのだ。嬉しかった。懐かしい時代の結晶が今わたしの目の前にいるのだと分かると、震えるほどだった。

 光が部屋を満たしていく。少女はもう一度笑顔をわたしに見せた後、後ろ手にカーテンを開いた。その瞬間彼女の髪は、華奢なからだは外の眩しい世界とすっかり溶け合ってしまって、すぐにわたしからは見えなくなった。

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