春が来た

星来 香文子

春が来た


「やっとよ、やっと来たのよ!」

「何が?」



 昼近くに起きて来た姉は、いつも突拍子もないことを言う。

 弟の俺ですら、理解に苦しむことがあるのに、この調子じゃぁ家族以外の人間には何も理解できないだろう。


 まず、主語がないのだ。


 今日もそうだ。

 土日の2日しか存在しない一週間の休みをのんびり、まったり過ごしたい俺と違って、姉は慌ただしく階段を降りて来たかと思うと、リビングにいた俺を見て発した第一声がそれだった。


「春よ!!!」


 だからなんだと言うんだ。

 春なんて、冬が終われば勝手にやってくるだろう。


「やっと走れるのよ!!」

「は?」

「買いに行かなきゃ……!!」

「何を?」

「スニーカーに決まってるでしょ?」


 わかんねーよ。


 本当に、この姉と会話が普通にできる人間なんて、この世に存在しないんじゃないかと思う。

 社会人何年目だよ、よくそれでやっていけるな……と、まだ学生の自分を棚に上げため息をつく。


「去年買ったやつは? ダイエットするって言って買ったくせに、3日も持たなかったじゃないか。それでいいだろう? 俺は忙しいんだよ」

「何言ってるの、おねぇちゃんは、今年こそ本気なのよ? 本気でダイエットして、彼氏を作るのよ!! ついて来なさい!!」

「いや、どこに?」

「買い物に決まってるでしょうが!!」

「はぁ!?」


 俺は家でのんびり、まったり休日を満喫したいのに、また始まった。

 この姉は本当に、社会人何年目なんだよ。

 一人で買い物に行けばいいのに、なぜ弟の俺がついて行かなきゃならないんだ。

 それにあれだろう?

 スニーカーだけじゃなくて、余計なものも買って、どうせ後から後悔するんだろう?

 わかりきっていることなのに、どうしてこうも……


「ねぇ、ねぇ早く! 一緒に行こうよーぉ」


 もうこれじゃぁどっちが上かわからない。

 俺が弟だったはずなのに、なぜ甘えられなきゃならんのか……


「……わかったって。その猫なで声やめろ。気持ち悪りぃから」

「失礼な、ロリ声と言え」


 そうして、結局この姉に振り回されて、俺の土曜日はないものとなった。

 翌日、新品の赤いスニーカーを履いて、新品のトレーニングウェアで朝から家をでて、本当に走りに行った姉の姿を見送った俺は、どうせまた3日で飽きるのだろうと、なくなった土曜日を取り戻すかのように、日曜日をまったり、ゆったりと過ごした。




 ところが、俺の予想を、あの姉が裏切った。


 普段なら、出勤時間ギリギリまで起きてこない姉が、1ヶ月経っても、早朝のランニングをまだ続けている。

 去年も、春頃に同じようなことがあった時は、早起き自体が続かずに終わったというのに、どうやら姉は本気のようだ。


 ついに社会人らしく、まともになったのかと思えば、朝走り出してさらに2ヶ月が過ぎたある日の土曜日。


「やっとよ、やっと来たのよ!」

「何が?」


 のんびり、まったり残りの夏休みを過ごしたいと思っていた俺に、また主語のない姉がそう言った。


「春よ!!!」


 何言ってるんだ……今何月だと思ってるんだ、この姉は。


「……夏の次は春じゃなくて、秋だろ」

「違うわよ! そっちの春じゃないの!!」

「じゃぁ、何?」


 姉はダラシのない顔でにへらっと笑うと、咳払いを1つして、言った。



「結婚します」



「はぁあああ!?」



 け……結婚!?

 いや、その前に、彼氏は!?


 って、待てよ。

 また主語がない。

 姉のことじゃないかもしれない……


「……誰が?」

「私に決まってるでしょ?」


 こうして、また、この姉のせいで俺ののんびり、まったりな土曜日がなくなった。


「買いに行くわよ!」

「何を?」

「ゼクシ◯」

「一人でいけよ!!」


 早朝のランニングで出会った男と、そういうことになったらしい。

 結婚に向けて、走り出した姉を、誰も止めることはできない。


 来年、また春が来たら、俺はこの突拍子もない姉から解放される。

 本当に良かった。

 少し、ほんの少しだけ、さみしい気もするけど。


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