女神の降臨

小原万里江

女神の降臨

女神ってなんだよ? 俺には女神っていうのがなにかよくわからん。昔、高校で美術の時間にヨーロッパの絵で裸の女が貝の中に立っているのを見たっけ……。あれが確か女神じゃなかったっけ。


大学が休みの土曜の午後、たまたまつけたバラエティ番組の中で誰かが発した言葉が「女神」だった。ものすごくキレイな女性を形容していたその言葉に、その時の俺はいまいちピンとこなかったんだけど……。


その夜、俺は渋谷のクラブで女神に出会ったんだ。


渋谷のパルコを通り過ぎ、ちょっとした小道に入ったところにあるビルの地下に、友達と毎週のように行っていたクラブ、“クローバ”はあった。


「今どこ?」


スマホで友達の洋介にテキストして、自分はとりあえずドリンクをオーダーしようとバーに群がるクラバー達の後ろについた。


赤、黄、紫、青、緑…いろんな色のライトが行き来するホールは、もはや元が何色なのか全くわからないほど。そしてDJのセレクトしたハウスミュージック。渋谷の地下のさらにもっと深いところから突き上げてくるような低音にワクワクする。


こういう時に思うが、高いヘッドホンは買う価値があるよな。こういうサウンドもいつでもしっかりその場にいるかのように感じられるから。


視覚、聴覚ともに不思議なヴェールをかけられたようなこの世界にみんな夢中になるんだと思う。あとはアルコールが来てくれれば文句ない。


あ、次かなーー。


と、その時目の前に突然誰かが半ば倒れ込むような形で、俺と俺の前にいた人の間に入り込んできた。

長い赤い髪……。シャンプーかな? 花のような香りが一瞬だけした気がした。バーに両手をつき、下を向いた顔は長いストレートヘアに隠れていて見えない。髪の間から出ている肩と腕は細いがほどよく筋肉がついていて、スポーツ誌かなんかでみるような形だ。


「Sorry!」


ネイティブの発音で英語が聞こえた。バーに置かれていた腕が俺の方に伸びてきて、ポンっと肩に置かれた。


つい、肩に置かれた手の方に気を取られ、前を見ていなかった。ハッと向きなおると、目の前に彼女はいた。


「女神」


ふいに午後に聞いたばかりの言葉が頭をよぎった。


エリカというその女の子は日本人とイタリア人のハーフで、日本語、英語、イタリア語と三か国語を話せるモデルだった。


その夜、おそらくクラブじゅうで一番目立っていたエリカと俺は意気投合し、夜中すぎには互いの友人達のことは忘れ、二人だけでクラブを抜け出した。


クラブの外は、昼間の渋谷からは想像もできないほど静かだ。人はいないけどわりと明るい。街中を肩を組んで二人で歩き回って、ときに熱いキスを交わした。


この流れだとホテルにでも行けるかな? なんて下心はもちろんあった。でもエリカの人懐こさは軽いというのとは違った。ホテルのホの字でも出そうものなら、その姿が消えてしまうんじゃないかと思えた。


結局その日は朝五時の始発で別れた。


今後始まる二人の関係を色々想像しながら過ごした次の日、ここのところ心配されていたコロナとかいうふざけた感染症を広めないようにと、緊急事態宣言が出された。当然のように自粛を強いられ、俺とエリカはリアルで会うことが叶わなくなってしまった。


ポツポツポツ……。永遠に打ち込まれるスマホの音。俺とエリカのラインのやり取り。


互いに大学が休みになった俺たちのおうち時間は永久にバーチャルの世界に閉じ込められてしまった。


なんでもっとリアルで出かけなかったんだろう。バーチャルリアリティでばかり遊んでいるんじゃなかった。でもここにいなくちゃエリカには会えなかったよな。


今俺たちの間で爆発的な人気を誇るバーチャルリアリティ、“ワールドックス”。大人はだいたい「“セカンドライフ(*1)”ね」みたいな反応をするが、俺にはそれ自体がなんだかわからない。


とにかく今はワールドックス。その完璧な世界には渋谷の街も、クラブも、ホテルだってなんだってある。リアルそのもの。ワールドックスでは登録者は本人画像を使うのが絶対ルールで、3D顔写真から作られるアバターは、ほぼほぼ本人と変わらない。


家を出なくても遊びに行けるし、友達にも会えるし、音楽も聞けるし、そして今回みたいに女神にも出会えたわけだ。


だけどーー。緊急事態宣言なんて発令されて実際に外に出られないとなると、なぜかバーチャルリアリティのリアルが急激に霞んで見えてくる。これが大人の言っていた「バーチャルとリアルは違う」っていうことだったのかな。


すぐに収束すると思われていたコロナは一年以上も続いた。「おうち時間」なんて言葉が流行りだす前から、俺はおうち時間を楽しんできたはずだったのに、ここに来て、いつもの渋谷が、いつものクローバが、フェイク極まりない単なる画像に見えるようになってしまった。


エリカ……。俺はお前に会いたいんだ。リアル以上に、現実に。エリカとは、もちろんチャットだけじゃなく、ビデオコールもしていた。


だけど……エリカ、会いたいよ……。


「え? でも会ってるじゃない」


なに言ってんの? と言うようなトーンで、不思議な顔をするエリカ。

エリカにとってはバーチャルリアリティは本物のリアルと変わらないのかもしれない。俺もかつてはそう思っていたはずだったのに、いつの間に変わってしまったんだろう。


あまりに「会いたい会いたい」と言う俺に、ある時、ウンザリしたようにエリカは言った。


「ちゃんと会ってるじゃない。昨日も家に来て泊まってったじゃん。これ以上はもう、ムリ」


いや、でもその「家」も実際はワールドックス上の家じゃないか。僕が言っているのはそういうことじゃなく……。


ブツッ。

無情にもウィンドウが消え、相手のアイコンがオフライン表示になった。


そうして、エリカはログアウトしたのだ。

バーチャルリアリティからも、リアルからも、僕の人生からも、永遠に。


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(*1)セカンドライフ……2003年にアメリカのリンデンラボ社が創ったバーチャル空間を使ったソーシャルメディア。日本でも2005年頃に一時期、大ブームとなったが衰退してしまった。

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