リラックス・タイム

奈良ひさぎ

リラックス・タイム

 僕の彼女が最近、在宅勤務とやらを始めた。あれから一年くらい経って、ようやく彼女の会社も時代の波に乗り始めた、というところか。


「ただいま」

「おかえりぃ〜」

「今日もリラックスしてるね」

「そんなことないよ、これでも仕事してるし」

「とても仕事してるようには見えないけど」


 大学院生の僕の一歳上の彼女は、先に社会に出て働いている。僕はよく「働くなんて人間のやることじゃない」と愚痴られる側だけど、彼女より二年余分に学生をやることが確定している僕からすれば、働いてお金をもらえる立場に早くなってみたいものだと思う。もちろんそれは、働きやすい環境だとか、十分、いや十二分にお金がもらえるとか、とにかくちゃんとした会社に就職できることを前提にしたものだが。

 そんな彼女だから、くたくたになって帰ってきたところを僕が出迎えると、すごく嬉しそうにしてくれる。元から僕にはだらけたところもきりっとしたところも見せてくれる彼女だけど、付き合って同棲し始めてから、特にそれを感じるようになった。


「うるさいなあ、今日の晩ご飯担当押しつけるよー」

「それは困る、今日データ整理で忙しいんだって」

「家にまで仕事持ち帰り始めたら社畜の始まりだぞー」

「はいはい」


 僕は理系で、彼女は文系。周りのほとんどが学部卒で就職してしまう文系学部と違って、少なくとも僕のいた学部に関しては、理系の勉強はもう嫌だと文系就職する人、学部卒でも研究職を目指す人、院に進んでより専門性を磨こうとする人がそれぞれ同じくらいいた。だから進路ではそれなりに迷ったけれど、結局周りの友達に半ば流されるようにして、大学院に進学することを選んだ。どのみち学部時代から学費のいくらかは自分でバイト代から賄っていたし、大学院に行くか行かないかでそれほど生活が変わるというわけでもなかった。変わることとすれば、学生でいる年数が増えることで社会に出るのが遅くなるくらいだ。


「……やっぱり、最近元気になったね」

「そお?」

「絶対そう。会話、増えた気がするし」

「そっかな」

「僕がそう感じるだけ、ってことかもしれないけど」


 今は彼女がほとんどいつも家にいて、僕が研究室通いの毎日で朝出て行き夜に帰ってくる生活。ほんの一年前は、全く逆だった。ある程度いい成績を取るために、卒業要件の単位プラスアルファしか授業を取っていなかったから、曜日によっては二限だけだったりした。それに対して彼女は朝から晩まで働いて、くたくたになって帰ってくる。思い返せば、あの頃の彼女は何だかいつも、疲れた顔をしていた。僕がそれとなく彼女のことを誘っても断られることの方が多かったし、普通にデートをするのも渋るのが普通だった。大学生の頃の彼女を知っているだけに、随分変わってしまったな、と思ったものだった。見るものも決めずに旅行に行ったり、目的もないのに外をぶらぶらしたいと言うくらいアクティブだった彼女は、社会の荒波に揉まれ、いつしかひどく内向きになってしまった。


「家の中なのにウェブ会議しなくちゃいけないとか、結局上はちゃんとした服着ないとだとか。プライベートの中に仕事が割り込んでる感じして、あんまり好きじゃないけど」

「その割には、楽しそうにやってるように見えるよ」

「……まあ、毎日電車に揺られてってよりは、楽なのかも」


 彼女がリモートワークを始めて比較的すぐに生き生きし始めたのを見て、僕はすぐにそのせいなのだと分かった。たとえ電車でたった三十分の距離でも、それが朝ラッシュのすし詰め状態の電車なら事情は違ってくる。僕と彼女は細かいところで気が合っていて、そういうストレスを感じてまでどこかへ行くというのが大嫌いだった。だから彼女のやつれた表情を思い出して、共感するしかなかった。


「何やってるの」

「ちょっと軽めの報告書をね。でもほら、もうアフターファイブだし、やる気出なくて」

「じゃあ休憩にしてもいいんじゃない? 見た感じそんなに急ぎじゃないんでしょ」

「まあね。じゃ、ご飯作りますか」

「いいよ。今日は僕が作る」

「いいの? 疲れてるでしょ?」

「君が元気そうだし、こっちも元気もらっちゃったから」

「なにそれー」


 世間では巣ごもりにはいい加減飽きたとか、完全にリモートワークに切り替えるのはそれはそれで弊害が多いとか、いろいろマイナスイメージな話を聞くけれど、僕たちにとってはそうではないらしい。彼女が明るく生き生きと、毎日の仕事に向き合えるようになっただけで、すごくいいことだ。こっちまで元気をもらえてしまうというのは本当だ。今日やっていた実験はここ数日かけてやっていたもので、失敗したせいでなかなか気分が沈んでいたのだが、いつも通りにリラックスしている彼女を見て、そんなことはどうでもよくなってしまった。


「じゃあさ。ぎゅーしてよ」

「ぎゅー?」

「最近してなかったでしょ?」

「ああ、確かに」


 上半身の姿勢はお手本のようなのに、下半身はすっかり足を伸ばしてオフモードになっている彼女の隣に座って、僕はそっと彼女に寄りかかる。そうじゃないでしょ、と言って、結局正面からハグするように彼女に修正されてしまった。彼女からは、あの頃では考えられないくらいに落ち着いたいい匂いがした。

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リラックス・タイム 奈良ひさぎ @RyotoNara

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