たった一つの冴えた医学~コロナから社会病理から何でも効く

水原麻以

マッドサイエンティストの逆襲

「感染拡大に歯止めがかかりません」

「本日の陽性者は全国で三千人を超えました」

「不要不急の受診は控えて。市販薬が効く間はしっかりと静養を」

「バランスの取れた食事と充分な睡眠そしてストレスを溜めない」


まるでインパール作戦のようだと口の悪い識者は比喩した。その年、パンデミックが猛威を振るい世界は経済を犠牲にする大胆な自爆攻撃で第一波を葬り去った。

しかしV字回復を焦りすぎて人々の交流を解禁したためウイルスの拡散を許した。根絶に成功した筈の病毒は虚弱高齢者の体内で我が世の春を謳歌した。

季節は巡って夏。景気浮揚を狙った大胆な財政出動が観光地を賑わした。そして気温が下がる乾燥した空気に乗じて北半球を雪が死化粧した。


R率、すなわち一人当たりの感染再生産率が再び2を超えた。免疫抗体の効かない亜種が潜伏していたのだ。

先進国は慌てて門戸を閉ざした。航空産業は死に体にとどめをさされサービス業界は空疎なオンラインに偽りの旅情を映し出す。

そして勝負の三週間が惨敗に終わり特攻の一か月が始まろうとしていた。


「みかんはビタミンCが豊富です」

「痩せ我慢は感染予防対策に逆効果。たまにはお取り寄せでチョイ贅沢」


もはやヤケクソ気味な民間療法を政府やマスメディアが喧伝している。

手洗いアルコール消毒マスクにうがい。スタンダードプリコーションはやり尽くした。それでも世界は美しい死に向かって疾走している。

もう手の施しようがない、とは口が裂けても言えぬ。政府は薬事法すれすれの処方を民間に協力を求めている。


効果があろうがなかろうがじっとしていられない。民主主義の要請に拠って成り立つ政治は悲惨だ。君主制のように責任の所在が明確でない。

絞首台に吊して大衆の怒りを鎮める、いわば生贄の山羊が多頭飼いされている。


そこで無意味な空転と先送りで問題を希釈しようとあがく。解決ではない。回遊魚のように群れて逃げ惑っていれば時間が解決してくれる。


政府は必死になって「私たち一人ひとりの努力で」出来る対策法を模索した。

部屋を暖色系で調度する。モーツァルトを流す。風水開運まで繰り出して祭政一致国家の域に踏み込もうとしていた。


そんなある日。一台の電気バスが静かに走り去った。宅配ピザ店員らしき男たちが夕闇に紛れる。中央のリーダー格を中心に十重二重に人垣を築く。

並々ならぬ物々しさと緊張感が漂う。一人がインターホンを鳴らし小声で到着を告げる。

「ご注文のイカ墨りんご納豆とシュールストレミングぜいたく盛りをお届けにあがりました」


パッパッとスポットライトが訪問者を照らす。

『うむ…ごくろう』

しわがれた声と阿鼻叫喚が巻き起こり従業員たちは光の柱に吸い上げてられていった。


◇ ◇ ◇


【松戸才媛研究所】


デデーンと朱書きされた大看板そしてピンクの電飾がなまめかしく歓迎する。

ここは都心を離れる事うんマイル。JR常磐線松戸駅から飛んでも八分、あるいて十分、車で行けば一分半の距離にある私有地。

狂科学者の松戸サイエンが率いる一大研究拠点なのだ。白亜の研究棟をバックにX47無人往還機が颯爽と離陸していく。

奇っ怪な風体で数々の特許をものにして幾つかは暮らしに欠かせない定番アイテムとしてなじみはしないものの地味に売れている。

ファーストネームに当てる文字はその時の気分で変わるらしく一定しない。今日は才媛の文字が採用されている。


「どういう意味ですか」

強引な牽引ビームで拉致同然に連れて来れれた宅配サービス員は困惑している。当の博士は地球儀サイズの柑橘類にかじりついている。

「わからんかね? 見えんかね? この天才松戸が開発した愛媛ミカンを」

「そっちですか!」


来訪者一同がずっこけた。


才媛一號、農水省および消費者庁推薦特定健康疾病予防食品。瓦斯瓜総理大臣の肝煎りで生産委託されたゲノム編集食品である。ビタミンは1個につき才媛一號3個分が含まれている。

「いい加減にそのふざけた扮装を解いたらどうかね。SP諸君。私は忙しいんだ」

博士が苛立つと配達員たちは背中のジッパーを下ろした。長湯してふやけた皮膚のように外装がただれ屈強な男たちが姿を現した。みな重火器を背負っている。

その背後から内閣総理大臣瓦斯瓜令和ガスリー・レイワーが歩み出た。

「私もそうしたいところだがこのご時世リムジンで表玄関に乗り付けるわけにもいかんのでね」

釘を刺すと松戸才媛もやり返す。「羽目野マスクをお忘れなく」

「おっと失敬」

総理は瓦斯瓜のロゴ入り不織布で口元を覆った。

二人はソーシャルディスタンスを保ったまま会談をはじめた。

内容を要約すると手詰まりになった感染予防対策の打開である。行き詰まってとうとう博士にお鉢が回ってきたという次第だ。



ここでマットサイエンティストなら世捨て人らしく無関心を貫くか上から目線で説教するか露骨に法外な報酬を要求するところであるが彼はどのステロタイプからも外れていた。

にっこりとほほ笑み「お安い御用だ」と快諾した。そして瓦斯瓜令和が涙を流してよろこぶほど素敵で的確なアドバイスを授けた。


「総理、これで支持率爆あがりですね」

「解散総選挙、いっきになだれ込みましょう」

「岸波派も石田派も目じゃないっす」

地下室幹事長に報告するとZOOMアプリから派閥の歓声が漏れた。



「いいんですか、

あまりの太っ腹ぶりに助手が心配する。しかし松戸才媛は本気だ。研究所としては政府から1円たりとも報酬を受け取っていない。瓦斯瓜は必要な予算確保や補助金の交付を提案したが固辞された。


「かまうものか。これから我々が手に入れる莫大な恩恵に比べれば賽の河原の砂粒にも満たん」

マッドサイエンティストらしからぬ晴れやかな表情をする。


日本国政府が得たアドバイスは特に奇をてらったものでも特別な創意工夫を要する内容でもなくごくごく単純明快なしろものだった。


今まで以上に自粛を徹底し不要不急の消費活動を避けじっと家に籠って精神面を充実したり家族の団欒を大切にせよ。そして五穀を断ち十穀を絶つように質素簡便を係数的に心掛けよ。


そういった類の緊縮を柱としていた。さっそく政府は関連法案を動員して国民に戒厳令さながらの我慢を要求した。

余暇や娯楽による浪費を頼りにしている業界からは猛反発が起きたが古老が息絶えるように抗議が静まっていった。



文明の灯が線香花火のように弱々しく生きながらえている。満点の星空を光害で毒していた時代があったとは信じがたい。

荒涼たる噴火口の淵で松戸才媛と数名の科学者が来るべき時を待ち構えている。

びょうびょうと吹きすさぶ寒風がサーチライトに砂塵をぶつける。

「本当に『彼ら』はここに?」

歓迎スタッフの一人が強迫神経障害のように同じ質問を繰り返す。無理もない。松戸才媛チームが準備した内容は前代未聞にして空前絶後となるからだ。


下弦の月に赤い火星が寄り添っている。そこから少し離れた南西の空に木星と土星が競い合って輝いていた。博士は青いシリウスを黙って指さした。


「福音はあっちの方向から来るはずじゃ」

「そうですか」

スタッフの手元でパラパラとサマリーシートが捲れた。やがて裏表紙が翻る。

論文のタイトルは「最後のワクチン」

アブストラクトにはこう纏められている。


感染症との戦いは人類の宿命であり命題である。古来よりありとあらゆる薬品や消毒法が投入されるも突然変異に敗北を喫した。

なぜ医学薬学免疫学がことごとく敗れ去るのか。人類の叡智とは大自然の猛威に無力なのか。

否、断じて否である。

先人たちの努力は無駄ではない。現に幾つもの疫病が制圧されてきた。しかし感染症の根絶という究極は達成できていない。

人類にとっての悲願は悲願のままでおわるのだろうか。

部分的な問題解決はできている。各論は正解で総論が間違っていると我々は推測した。すなわち方向性を見誤っているのだ。


ここに発想の転換が必要である。それも従来の理論を踏襲しながらもテーブルクロスを巻き取りひっくり返すような大胆な転換が求められる。


我々は考えた。


人類もまた大自然の一部なのではないか。ある種の生物が自身を不活性化することで過酷な環境をやり過ごすように人類も処理能力を超えた激変を乗り越えられる。


ふふふっと笑い声が漏れた。

「ようやくわかりましたよ。先生もイケずですねぇ…」

松戸の眼光が鋭くなった。

「そうじゃ。その文言は学術会議向けの詭弁じゃ。政府は松戸才媛を鵜呑みにして次から次へと厳しいファシズムを強いた。社会は沈鬱の底に沈み経済活動は風前の灯、総人口は1億人を切った。それでパンデミックが落ち着いた」

「我々のチームは別の事象を観測していますよね」

「そうだ。我々は科学と真逆の立ち位置にいる」

「まさか松戸才媛テスト研究所に入って宗教に携わるとは思いもよりませんでしたよ」

「科学と宗教は不可分だ。ビッグバン理論しかり。オッカムの剃刀いわく。宇宙は単純明快なのだよ。パンデミックに小難しい理屈は何も要らなかったのだ。答えは既に書かれていた」


二人が話し込んでいると炎を纏った戦車の隊列が荒野に降りてきた。丘の向こうでスタッフが騒いでいる。風に乗って歓喜やむせびが運ばれてくる。

「教えの通り『質素』『禁欲』『誠実』を心掛けていれば見返りがあるのですね。博士」

「そうじゃ。だが、教科書通りにいかないのがサイエンスというものでな」


博士が振り返ると角を生やした人影が口を開いた。


「約束通り世界の半分をやろう。お前たちは実によくやった。神にひれ伏す人類の末期状態を導いたのだからな。約束通り『心を入れ替えた』人間に対して創造主が恩寵を運んできた」

不気味な異形がサーチライトの明るみに出る。褐色の二足歩行生物。人面が白い牙を剥く。そいつの外見は民間伝承や娯楽小説でよく知られている。

博士が応じた。

「その通りだ。弱毒化した覇権主義文明。侵略の道具としてはちょうどいいバランスに仕立てた。あとは諸君サタンの頑張り次第だ」

異形は苦笑した。「よく言う…」

そして松戸才媛テスト研究所が最新技術の粋を凝らした最終兵器の数々を受け取った。どれも神々を名乗る異性人と互角以上に渡り合える。


◇ ◇ ◇


「さて…と」

分厚い耐爆扉を閉ざすなり柔和な表情が変貌した。白髪を逆立て悪趣味なドーランで血走った眼を隈取り乱杭歯を垣間見せる。

赤黒い闇に毒々しいLEDが煌めいている。節くれだった指がキーボードを駆け巡り葬送曲を奏でる。


「フゥーハハハ!! 引っかかったな愚かどもめえええ」


大深度地下シェルターがずしんと揺れる。

サタン星人と「神々」の戦いは白い光芒にゆっくりと呑まれていった。


そうなのだ。地球の生存競争において、弱者が強者に勝つためには、まず敵や有利な環境を模倣し、同格の力を会得し、敵を凌駕してきた。


博士は自らが諸悪の根源、すなわち弱者から見ての絶対悪に進化することで敗北に対する免疫を得たのだ。究極の特効薬とはすなわち、最強。

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