俺と彼女のおうち時間

最上へきさ

近くて遠い、俺達の恋

 世の中が呪文のようにステイホームと唱え始めて、かれこれ一年が過ぎようとしている。


 正直に言えば。

 根っからのインドア派だった俺は、初めの方こそ「ついに俺の時代が来た!」とウキウキ気分だったが、三ヶ月を過ぎた頃には少しずつ飽きはじめ、半年が過ぎた頃には外に繰り出したくて仕方なくなっていた。


(ステイ、ステイ、ステイってうるせーんだよ、こっちは犬じゃねーんだっつの)


 一つ分かったのは、自分が単なる天の邪鬼だったということだ。

 世の中が「書を捨てよ町へ出よう」といえば家に引きこもりたがり、「おうち時間を楽しもう」といえば外で焚き火の一つでもしたくなる。


 我ながら軽薄にもほどがある。


(それって結局、流行に乗っかる連中と大差ないよな)


 周りの動きを見て自分の動きを決めてるって意味では同じことだ。

 友だちもできず金にもならないだけ、かえって損をしているような気すらしてくる。


 ……そこまで考えて、俺は溜息をついた。

 こんなときに自虐したって意味がない。


 俺は椅子に座ると、こんもりと出された宿題の山に手を付ける。

 少なくなった授業時間を補うために、今年の春休みはアホみたいに宿題が多い。

 まったく嫌になるほど楽しいおうち時間だ。


 ――部屋の窓から見える景色は何も変わらない。

 世の中がステイホームをはじめた頃から、ずっと。


 だって。俺の部屋の窓からは、隣のアパートしか見えないのだ。

 東京の下町、人口密集地では当たり前のことだ。


 強いて指摘するなら、隣のアパートの窓からも俺の部屋を覗ける、ということだろうか。

 無計画な再開発の産物だとかなんとか、親父はぼやいていたけれど。


 コンコンコン。

 窓を叩く、小さな音。


 心臓が跳ねた。

 机の上の宿題を払い除けて、部屋の隅の鏡で身だしなみを確認してから。


 スマホを片手に、俺は窓の前に立った。


「――ハロー、ヨシト君。今ヒマ?」

「はい、えと、ヒマっす」


 二枚のガラスを隔てた向こう側で、彼女が手を振っていた。

 スマホの通話アプリを介して届く声は、鈴を転がしたように心地よい。


「やったぁっ。ね、おねーさん、ちょっとオヤツ取ってくるから、お話しよーよ」

「いっすよ。俺も、なんか持ってくるっす」


 やがて窓の前に飲み物とお菓子を広げたら、俺と彼女だけのおうち時間・・・・・が始まる。


 ――そもそものきっかけはくだらないことだった。

 大学が休講になり、代わりに出された大量のレポートで追い詰められていた彼女――チサトさんが上げた奇声が、二枚の窓を貫通して俺の部屋まで届いたのだ。


「――ぎぃぇえええええええぇぇぇぇいっ!!」

「……んだよ、うっせーなぁ」


 初めは窓をノックしたあと文句の一つでも言ってやるつもりだった。

 こっちだって部屋にこもりすぎてストレスが溜まってる時期だったから。


 でも、あまりに追い詰められた様子のチサトさんの顔を見たら、喉まででかかっていた文句が引っ込んだ。


「あの……なんか、大丈夫っすか」

「ダメ! もう全然まったく完璧にダメッダメのダメ次郎! 行ける! 今ならダメ五郎まで行ける!」


 どうやらマジでダメっぽかったのだ。

 とりあえず俺は、レポートがんばってください、とだけ窓越しに告げると、そっとカーテンを閉じた。


 ――俺とチサトさんが窓越しにやり取りするようになったのは、そんなしょうもないことがきっかけだった。


 でも、どんなに馬鹿馬鹿しいきっかけでも、何かが変わったことには違いなくて。

 変化に気づいたときには、俺はもう恋に落ちていた。


「……で? ヨシト君はもう進路とか決めたの?」

「とりあえず進学希望で出してるんですけど、まだどこ行くかは決めてないっす」


 ポッキーをポリポリとかじりながら、チサトさんが笑う。


「へー、そうなんだ。てか、来年の受験とかってどうなってんだろうね。リモートで出来たりすんのかなあ」

「だと楽なんすけどね」

「あたしのときはめっちゃ雪降ってさあ、ホント試験会場に行くまでがピークだったよー、今思い出してもしんどかったもん」


 チサトさんは話をする時、すごく大げさにジェスチャーする。表情もコロコロ変わって、子供みたいに無邪気に見える。


「……なに、その顔。ニヤニヤしてさ。あたし、変なこと言った?」

「いや。その……あの。すげー、カワイイなって」


 声が届いた途端。

 窓の向こうで、チサトさんは耳まで真っ赤になる。


 そういうところが、またかわいい。


「ちょ、あ、も、もーっ、お姉さんをからかわないのっ! そういうこと言ってると、あたしもなんか言うよっ」

「いいっすよ」


 俺はわざと挑戦的な顔をする。


「チサトさん、そんな気の利いたこと言えるんすか?」

「ちょ、ヨシト君、あれでしょ、おねーさんのことナメてんじゃないの?」


 答える代わりに、俺はニヤニヤと笑ってみせた。


「……ったく、調子に乗りおって、このDKめーっ」


 ひとしきり地団駄を踏んだあと。


 チサトさんは、ふと真顔になった。


(……あれ?)


 今まで見たことがないくらいに。

 静かな表情で、彼女が俺を見ている。


 白い手が、窓ガラスに触れた。


「…………」


 スマホのスピーカーが拾えないほど小さな声で。

 チサトさんは何かを囁いている。


 俺は思わず息を止めて、目を凝らした。


(……す)


薄桃色の唇が描く曲線を、どうにか読み解こうとする――


(……き)


 たった二文字の言葉。


 なのに俺は確信できず、彼女が繰り返す唇の動きを何度も追いかけた。

 スキヤキとかウニとかムギとか、そういうトラップワードなんじゃないかと、疑ったりもした。


 ……でも。

 もう見間違うことはできなくて。


「……俺もっす」


 俺が答えると。

 チサトさんは微笑んだ。


「あたしもっす」


 俺は手を伸ばす。

 あの細く白い手に、触れたくて。


 けれど指先に伝わってくるのは、窓ガラスの冷たい感触だけ。


「……いつか、さ。この窓を開けて、スマホを使わずに話せるようになるのかな」


 分からない。

 でも、いつかワクチンが行き渡って、あの厄介な病気がそのへんの風邪ぐらいに何でもないものになったら。


 そうしたら、きっと。


「俺、チサトさんの大学、受けたいっす」

「……えー? ヨシト君のレベルで受かるかなあ? こう見えておねーさん、高校時代はめっちゃ勉強してたよ?」


 すっかりいつもの調子で、チサトさんが笑う。


「大丈夫な気がするんすよ。今、モチベーションがめっちゃ上がったところなんで」

「へー。いいじゃん。じゃあおねーさん、応援しちゃおっかな」


 ……チサトさんとの楽しいおうち時間・・・・・が終わり、俺はもう一度机と向き合う。


 先のことなんか、俺には分からない。

 でも、今の俺にはやりたいことがある。


 だから、やるだけだ。


「ねえチサトさん、勉強中、通話で励ましてもらっていいっすか」

「甘えんな若人! こっちだって課題でアップアップだっつの! むしろヨシト君があたしを励ましてよねっ」


 シャーペンを何度かノックすると、俺は宿題との格闘を再開した。

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俺と彼女のおうち時間 最上へきさ @straysheep7

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