模様違いの箸

宮嶋ひな

一緒のおうち時間

「バカにしないでよ!」


 パァン。


 2LDKのリビングに、頬を打つ乾いた音が響いた。


 がんがんとしびれ、揺れる脳内。俺は、あまりの衝撃に持っていた箸をコロリと落とした。かららん、といっそ呑気なほどに、箸は机の下に転がっていく。


「……バカになんか、してないよ」


 我ながら、呆れるほど弱々しい声と言葉。


 俺をひっぱたいた張本人――妻のリコは、叩いた手をぎゅっと握りしめながら、真っ赤になってうつむいていた。


「なんで……、こんなことになっちゃったの……?」


 リコの声は震えていた。いや、肩も、手もガクガクと震えている。俺は思わず立ち上がり、リコの肩に触れようとして――


 ……思わず、そこで手が止まってしまった。


 もう五年も夫婦をしているから、分かる。分かってしまう。


 リコの顔色が、さっと青ざめた。明らかにショックを受けている顔だ。それも、心底怒って、いらだっている時の顔。


「あ……ごめん、俺……」


「――バカッ!」


 もう一発ぶたれる!


 予期した自己防衛反応は、俺に目をつぶらせた。腕で顔をかばわなかったのは、せめてもの懺悔の意思を示すためだったが、いつまで経っても頬に衝撃は来なかった。


 バタン。


 その代わり、リビングの扉が荒々しく閉じられる。俺はバカみたいに目を閉じていたまぶたを持ち上げて、一人取り残されたリビングで、机の上の料理に目をやった。


 トンカツ。ほうれん草のごま和え。豆腐の味噌汁。新米の炊きたてご飯。


 全部――俺の好きなメニュー。この日のために、リコが用意してくれた夕飯。


 リコはどんな思いで、このご飯を作ってくれたのだろう。それを考えると、胸が締め付けられたように苦しい。偽善かもしれないけど、謝罪したいとも思う。


 でも……


「俺のバカ……」


 リコの肩に触れられなかった手を、じっと見つめる。


 いつからだろう。リコに、女性としての魅力を感じなくなったのは。


 俺はいたたまれなくなって、机から視線を外した。そんな俺の目に、リビングの棚に飾られている結婚式の写真が存在を主張してくる。


「三年目、か……」


 結婚して、今年で――いや、今日で三年目か。


 リコは大学のサークルで知り合って、俺が一目惚れして猛アタックの末に付き合えた彼女だった。可愛くて、大切で、そのままの流れで結婚することに、きっとお互い何の疑問も抱いていなかった。


 ただ――俺も予想していなかったんだ。


 結婚したことに安堵して、初めての同居でリコのいろいろズボラなところが目について。いつからかはもう忘れた。けど、確実に夜の生活がなくなっていたことに、気付いて……見て見ぬ振りをした。


 “なんでこんなことになった”?


「そんなの、俺が聞きてぇよ……」


 箸を付けられることのなかった俺の好物のトンカツは、すっかり冷めてしまっていた。


「リコ……」


 左手の薬指に輝くシンプルなデザインの指輪が、寂しげに光る。


 ――なあ。夫婦って、ただ一緒にいるだけじゃだめなのかよ。


 一緒に飯食って、風呂入って、一緒の布団で寝て。ケンカもしてない、浮気もしてない、休日は一緒に出かけてる。それなのに、なんでしてないだけでこうもキレられなきゃなんないわけ?


「はーあ……」


 俺は気持ちがぐったり重くなって、食べる気分でもなくソファに座ろうと足を――


 パキリ。


「あっ」


 しまった。足下に箸が転がってたの、忘れてた。


 俺が取り落とした黒い箸のうちの一本が、きれいに真っ二つに折れていた。俺はため息をつきながら箸を拾う。そして、今さらのように思い出していた。


 そうだ……この、箸。新婚の時に買ったやつだったっけ。


 俺が鳥、リコがウサギ。おそろいの黒塗り、模様違いの箸。


 二つで一つの箸は、どちらかがなくなっては成立しない。


「まるで俺たちみたいだな……」


 模様のそろってない、形ばっかり同じ箸みたいだ。使いにくくて、表面だけつくろってて、不ぞろいで。


 そんなことを考えていると、リビングの扉がゆっくりと開いた。びっくりして振り返ると、泣きはらした顔のリコが所在なげに立っていた。


「……さっきは、ごめんなさい」


 ああ。やっぱりいつものリコだ。些細なことですぐにキレて、激昂する割には熱が冷めるのも早くて、こうやってすぐ謝ってくる。


「リコ……お前、今日おかしいよ。どうしたの?」


「だって……! 今日で、私たち、レス三年目なんだよ!?」


 リコの絶叫に、俺は目を丸くした。


 なんだって? レス……三年目?


「新婚夫婦でレスなんて、みじめで、恥ずかしくて、情けなくて、誰にも相談できなかったのに……!」


 そう言ってリコは、わあっ、と手で顔を覆ってまた泣き始めた。


「相談……できなかった?」


「……会社の同僚の、ミチカに相談したの……この前の飲み会で……」


 ああ、確かに一週間前、プロジェクトの打ち上げってんで飲み会があったな。


 リコの同僚の、やたら声のデカいショートカットの女性を思い出す。


「そこでミチカに言われたのよ……! 三年を超えたレスの夫婦は、もうずっと、その先何十年もレスから抜け出せないって!」


「はぁあ?」


 いきなり何を言い出してんだ。ミチカさんも、余計なことを言う。


「そんなの、夫婦それぞれだろ」


「だって! ミチカのところなんか、もう三年どころか、五年目なのよ!? いろんなサイトにもそう書いてあったって……!」


 女性同士の驚くべきあけすけな会話に気まずくなりながら、俺はガリガリと頭をかいた。


 ミチカさんが言ってた? サイトに書いてあった? そんなあやふやな情報で、俺はレスを責められてぶっ叩かれたのか?


「もうずっと、これからずっと、あなたに女として見られないって……もう抱きしめてもくれないんだって思ったら、私、怖くて……怖くても、がんばったのに……!」


「それは……その……」


「残業続きで忙しかったあなたが、テレワークで家にいてくれる日が多くなって……夫婦の時間は増えたけど、それでも夫婦の会話が増えたわけじゃない」


 リコの指摘に、俺は言葉を失った。正論には何も反論する余地はない。


「おうちに一緒にいる時間が、私、ずっとずっと寂しかった……!」


 二人でいるのに、まるで俺たちは他人みたいで。


 俺が仕事を理由にして、なんとなくリコを避けているのは自覚していた。リコは今年で33歳だし、子どもが欲しいってずっと言ってた。


 だからこそのプレッシャー。正直、テレワークなんかやめてくれって思っていた。リコの視線が苦しかった。逃げ場がなくて、避けるようにしていた。


 それは――俺が責められても、仕方ないけど。でも……


「……ごめん。俺、リコのことは大事な家族だよ。一生大事にしたいと思ってる」


「大事にしてるって言う口で、『欲求不満かよ』って笑うの……?」


 リコはうつむきながら、うめくように言った。


 先ほどのシーンがリフレインしてくる。俺は何も言えずに、言葉に詰まった。つい先ほどの食卓で、リコが口にしたのだ。今日、したい、と……


 それでも、俺は正直最後までする自信がなかった。


 笑って、逃げようとしたんだ。


 途中でできなくなるなんて、男としてのプライドが許せなかった。だからチャレンジもしなかった。ムードの作り方なんて、もう忘れちまった。


 それが、何よりリコを傷つけていたなんて……俺は、今の今まで気付こうともしなかった。いや……本当は分かっていたのかも知れない。けれど、それに正面から向き合う勇気が、俺にはなかったんだろう。


「……ごめん」


「謝んないでよ、そんな上っ面だけの謝罪なんて……」


 鋭く言われる。リコの顔はもう、涙でぐしゃぐしゃだった。


「……ねえ。カナトは、どうしたいの?」


 夫婦として、どうするか。


 俺は、手の中の箸を見た。二つに折れてしまった、おそろいの箸。


「……箸、買いに行こうか」


「えっ」


「箸ってやっぱり、模様そろってないと……箸じゃないだろ」


 俺は折れた箸を机に置いた。鳥の模様部分がコロンと転がって、ウサギ模様の箸にこつんとぶつかる。


「……なに、それ」


 涙顔ながら、リコが笑った。久しぶりの笑顔のような気がした。


 そう思った瞬間、俺はリコを抱きしめていた。自分でも衝動的なほど、自然に。


「リコ、ごめん。本当に。俺の態度がお前を傷つけてるって分かってたのに、逃げてたよ」


 逃げて、見ない方が楽だったから。


 夫婦なのに、独りよがりで勝手に振る舞って、リコの気持ちも考えず――


「バカでごめん」


「……知ってる」


 腕の中のリコは、ずいぶん長いこと見ていなかった、新婚時代のかわいらしい笑顔を浮かべてくれていた。


 おうち時間は、まだまだ長い。


 揃いの箸のように――俺たちはまた、二人で一つになろう。

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模様違いの箸 宮嶋ひな @miyajimaHINA

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