シーサイドスーサイド

@suzumi_seaside

シーサイドスーサイド

 梅雨入り前、暑いでも寒いでもない気候、過ごし易い日々が平穏そのものだった。まだ夏が来る高揚感は薄かったかも知れない。薄暗い一人暮らしのアパートで携帯電話に目を落とす。そしてこれが運命というやつなのか、偶然なのか、とにかく突然、私は彼女に出会う。正確にはまだ出会ってはいない。いつかは文字を介することなく直接会って話すこともあるのだろうか。少しの期待を抱きながら親指を踊らせるのが日課になっていた。いつしか降り続いていた長い雨も全く気にならない。不規則に生温い言葉をラリーする生活、未知なる文献を読み進める様に、見知らぬ彼女の一ページを捲っていくのがたまらなく刺激的だった。雨粒と言葉が支配する世界を横目に彼女を読み進めると、そこには至る所に私が散りばめられていて、ついこの前まで見ず知らずの人間だったとはまるで思えなかった。価値観や正義、破滅願望、好みの音楽やキャラクターまでもが私という人間と合致していた。ただ一つを除いて。


「死にたい。」


とある日、文章にも満たない携帯電話の通知。

これが彼女の口癖だった。刺す針の様な口癖。綺麗な口癖。好きな口癖。


「〇〇は死にたいですか。」

私に向けた彼女の問いかけだった。

同意する事に慣れた私の脳は一瞬フリーズした。


「音楽ができるうちは死にたくないです。それ以外はないかな。」


きっとこの動揺は気付かれていない。だから文章は良い。


「お好きなんですね。」


突き放されたように感じて少し焦った。彼女の言葉はいつも淡白で人の温みを感じたことはなかったが、特に冷ややかで寂しげな返答だった。もしいつもの様に彼女の言葉に頷いていたのなら、彼女と共に地面を目掛けて笑い合う終幕が待っていただろうか。互いの心を埋める様に共通点を探っていく中で、こうして私たちは決定的な”違い”を知り合う事になった。同時に彼女の引力は、より強く頑なに私を絡めとった。この関係の名前を付けるならそれは何だろう。解のない問いが脳に滲んでいくのが分かった。

 いつの頃からか私は普通を嫌う様になった。流行り物を嫌厭し街を流れる音楽に耳を塞ぐような、普通を疎ましがる普通の人間だ。そして彼女は理解に易しく私の普通から外れていた。日を追うごとに、彼女と話をしている自分を瞼に浮かべた。しかし自分のコミュニケーション能力を信じたことはないし、初めて会う人とどんな話をすればいいのか、重苦しい沈黙がこの関係を溶かし崩してしまわないだろうか、巡る不安が季節を押し進めようとしていた。降り止むことのない雨、世界に彼女と会うのはやめなさい、と宥められているようにすら感じていた。

 時折彼女は自分のことを“身売り人間”と形容していた。深くは訊かなかったが、恐らく彼女の生業を指す言葉だったと思う。彼女は言動の一つ一つで自分自身を魅せてくる。飼い犬の悲しげな鳴き声と彼女のショパン、その二重奏を真っ黒な画面とともに動画で送ってきたり、若者の街で一人クレープを食べている写真を送ってきたり、「さよなら。」とメッセージを送りつけ数日間音信不通になったり、突然エレクトリックギターを買ったと写真を送ってきたりと、それはもう突然だった。その桜色のギターで練習している曲はあの夏の曲らしい。Dmaj7と透き通る歌声で始まるあの曲、二人の手で思い出を彩るあの曲。彼女にギターを教える未来など来るはずもない。分かっているはずなのに、気付くと一曲通してその曲を弾いていた。幾らギターが弾けたところで、彼女があの言葉で自分自身を呼ぶとき、かける言葉を持たないことがなんとも無力で情けなかった。なんとかこの無力を下せないできないだろうかと何度頭を抱えたことか。雨が降り止んだのなら、いつものメッセージに一つ、会いたいと足してみよう。これが前に進む勇気というものなのだろう。長い間使わずにとっておいたのだ、それぐらいできるだろう。

 いつの間にか雨は止んでいて、遠くで蝉が鳴いていた。洗濯物が昼のうちに乾き風薫る。そして私は夏季休暇を利用して彼女と会う約束をした。彼女は少し離れた大きな街に住んでいるので、列車に乗って会いに行くことにした。“身売り人間”はきっと想像もつかない生活をしているのだろう。いよいよ来週末、自らの意思で、この関係を壊すかも知れない。それでも何か変わるかも知れない。今のうちに何を話すか考えておこう。共通項は多いはずだ、きっと大丈夫。一体何度同じことを反芻すれば気が済むのか。私も一端の人間に違いなかった。部屋の片隅、深い呼吸をした。吐き切る前に立ち上がり、薄手のコートをクローゼットの奥に仕舞っていると携帯電話が鳴った。彼女からのメッセージだ。

 

「さよなら。」


いつものやつだ、そう思った。


「おめでとうございます。」


いつもの返事をした。

彼女との会話はそれきりだった。


 曇天が鬱陶しい。冬の足音が間近に聞こえる。冷たく乾いた空気が身体を通り過ぎていく。寒くはないがやけに胸の辺りの風通しが良い。彼女が予てからの願いを叶えてどれぐらいの月日が経っただろうか。調べてみると、会話に使っていたアプリケーションは、未使用の期間が一年間続くと自動でアカウントが削除されるらしいが、まだアイコンがある。体を床に放り投げ、喉が渇いていた事を思い出したが、立ち上がって台所に行く気力など持ち合わせているはずもない。フローリングに転げた右の掌にのしかかる携帯電話が、小刻みに震えるのを感じた。どうせいつ入れたかも覚えていないアプリケーションの訳の分からない通知だ。それでも画面をこちらに向けてしまう。そして目を瞑り、意識的な深い呼吸をした。息を吐き切るとき少し喉の奥が少し揺れた。何をしようとも思い出してしまうな。この夏、彼女は私に多くを教えてくれた。突然と無力を嫌というほど教えてくれた。そして人は去るということ、去った人に会う術はないこと。

 私は海辺に来ている。人々と入れ替わり、星々が波立つ水面に浮かんでいる。前髪に重なる月も揺れている気がした。コンクリートのブロックに腰掛け、手に取るギターからは春の匂いがした。あのコードに載せてぼそぼそと歌詞を溢す。もっと爽やかな曲なのにな。弦の張りにいなされ、ピックが右手から滑り落ちる。ピックが砂浜に吸い込まれていく様がスローモーションで見えた。拾い上げる気にもならず、空になった右手で携帯電話を取り出した。彼女のアイコンはまだあった。

 

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