旅人は碧を望む

黒羽こう

旅人は碧を望む

—PM5:20


次は—。

乾いたアナウンスが響く。

規則的な音に合わせて体が揺れる。視界が傾いていく。


目の前に広がるのは青。真っ青な瀬戸内海。

世界地図で見たら、それが指し示す範囲なんて微々たるもので。

僕の想像する「海」に比べたら、酷くちっぽけな存在に思えた。


それでも不思議と僕は落ち着いていた。

自分がちっぽけな存在だと思うことは珍しいことじゃない。

むしろ自分に自信を持って生きている方が少数だと思う。

それでもその「海」は、自分が堂々たる存在であることを疑わずに、

じっとそこに佇んでいるんだ。恥ずかしげもなく。


複雑な列車の音の中には、様々なものが混じり合って。

たくさんの人間を絶えず運ぶはずの列車の中に、今日は人が一人もいない。

いや、僕だけが乗っていた。それでも列車は変わらずに、僕を乗せて進んでいく。


あえて言うとするなら、車掌がもう一人。けれどその姿は見えない所にいる。

まさしくその電車には僕一人が乗っていた。


「どこにいくの?」


呟いた。


独り言なんて馬鹿馬鹿しいと、寂しいやつだと嗤われるだろうか。

それは言い訳や弁解に聞こえるかもしれないが、僕は折角独り占め出来たこの空間で、

何か感じたかったのだと思う。記念に、とは少し違うような気もするけれど。


だって、誰か一人でも乗っていれば、そんな痛々しい独り言なんて発せない。

普段百人も千人も乗せて走る列車で、その一人さえも乗せずに、僕だけの専用列車。

けれども次の駅で誰かが乗ってくるかもしれない。あと数分で、次の駅に着く。


「さぁ、どこだろうね。」


僕は呟き返す。なんて、何度も言うけれどそこには僕しかいない。

車窓は揺れて、窓枠から見える絵画のような景色は海を映したまま動かない。

面白いようで、少し薄気味悪いような。

そして、まるで僕を見透かしたような、そんな青だ。


「君はどこにいくのさ。こんなところでずっと。この先どうしたいの。」


車窓に向かって呟いた。半分嘲笑気味に。


僕が海なら、太平洋を目指す。いいや、日本海でもいいかもしれない。

大西洋だってカリブ海だって、瀬戸内海よりは名前が知れてる。


なら、有名になればそれでいいの?


言葉として発する前に、それは聞き返してきた。結局は自問自答だ。


そういうことじゃない。でもそんな反論は、有名になってからするものだ。

実際、海はその海として存在するだけで、他の海になることなんて出来ない。

残酷にも、海の名前は単にその場所に対しての名前だから。


将来はヒーローになるとか、宇宙飛行士やプロサッカー選手になるんだって。

そんなことを豪語していた自分と重ね合わせていた。


ふと気づけば、窓が開いていた。

風が差し込む。合わせて潮の匂いが鼻腔をくすぐる。

髪が乱れて鬱陶しいと思いながら、知らん振りをした。

この風が、まるで意地悪を言ったことに報復するみたいな、健気な海の抵抗に思えて。

暫くは好きにさせてやることにした。


アナウンスから5分くらいして、ようやく景色が変わる。

けれど海は見え続ける。と、また不意に、雨が降ってきた。

夕暮れ時の景色は、青く染まっていく。けれど、思い返せば夕暮れの景色が目に入らなかった。

こんな雨が降るくらいだからきっと、元々曇っていたのかもしれない。

僕の目にはずっと、車窓を額縁にした景色が青だった。


「雨が降ってきたね。」


当たり前のように呟く。


「そうだね。」


その声ははっきりと耳の奥に響いて、思わず振り返って見る。

そこには確かな姿を感じた。


「……誰だ。」


僕ら人間は恐ろしいほどに敏感で。

指先で触っただけで、それが何か分かる。

カバンの中に入れたと記憶しているものなら、財布もハンカチも携帯も、見なくとも判別できる。

匂いを嗅いだだけで食べ物が分かる。それと同時に、耳で聞いただけで人物を判定出来る。

全て自分自身の記憶と経験に紐付けて、僕たちは認識出来るのだけれど。


そういう”機能”が正常に働いているとしたら。

間違いなくそこには、僕以外の誰かが居た。


そうしているとまた、笑い声。同時に強く風が吹き込んでくる。


「誰だ!!」


たまらず大声で、もう一度振り返る。姿は見えない。

いいや、見逃しているだけだ。幻聴なんかじゃない。本当にそこにいるはずだ。

脳内に響く声じゃない。その場にいて、まるで執拗に僕の死角から話しかけているみたいに気配を感じる。


「ね、君さ。乗る電車間違えてるよ。」


その声の主から聞こえ続ける声。僕は終始眉を顰める。

「間違えてる……? そんなわけない。もうどれだけ乗ってると思ってるんだ。間違えてたらとっくの昔に気付いてる。」


「へぇ、そうなんだ。」


その声は笑い続けながら、僕の様子をじっと眺めるような。

そして、ようやく笑うのをやめ、問いかけてきたかと思えば脈絡のない話。

それに憮然と答えれば、またその声は笑いだす。僕は堪らず不快になった。


「さっきからなんなんだ一体。勝手に僕の時間を邪魔して。」


「そんなつもりはないよ。本当のことを言っただけ。でもどうせ、そろそろ気づくよ。」


「意味がわからない……いい加減に……!」


そう言って僕は堪らず腕を振り回した。

絶対に背後にいる。まるで取り憑いたみたいに、肩の後ろにへばりついているんだと。

けれど虚しく、その腕は空を切った。苛立ちは収まらない。


けれどもう、次の駅に着くみたいだった。

変わらず列車の中は、僕一人。そう、僕一人だったはずなのに。


この青さえ独占できたはずなのに。どうして。

捨て切れていない”僕”が—


ガクン。


途轍もない衝撃。何だ、一体。

思わず体がバランスを崩す。まさか、列車が脱線したのか。

それを確かめようとする前に、もう一度同じ衝撃が。


ゴウ。


低い地鳴りのような音。同時に、風が吹き込んでくる。僕は堪らず目を瞑る。

まるで足を引っ張られるような。やがて痛みが訪れる。


いいや、それは脱線なんかじゃなかった。電車は走り続けていたのだから。

今も変わらず吹き続けている海風は、僕の顔面を容赦無く攻撃しながら。

それは直感的に、そうだと理解する他なかった。

僕の足が、足首が、ズタズタに切り裂かれていた。何故かとも思ったけれど。


鎌鼬。

どう言う理屈か知らないけれど、きっとその風が、強すぎる風が。

何らかの角度で、条件が整って、まるで刃物のように僕の足を切り裂いた。

それは比喩なんかじゃなく、今も確かに僕の足の痛ましい切り傷から、血が流れ落ちて。

気付いた瞬間、また笑い声が聞こえた気がした。


ズキン。


と、痛みを堪えながら必死に立ち上がる。癪に障る笑い声に抗うため。

駅が近く。まだ降りるわけじゃないけれど、僕の旅は続く。

ただ、僕一人の時間がなくなるかもしれない、その瞬間だ。

少しでもそれを謳歌するために、立ち上がったままいたい。けれど、鈍痛は激しさを増して。


このまま歩けなくなるんじゃないか、立てなくなるんじゃないかって。

今すぐに処置しなければ、取り返しがつかなくなるかもなんて、弱音が巡って。

それでも、そんなこと知るものかと強がった。

痛みに脂汗が滲む。膝はもう笑っていて、痛みに堪えて握った拳も、もう爪が食い込んで。

そうして扉が開いた音に、僕は。

—PM5:28


電車到着のアナウンス。

僕は数分前のことを思い出していた。

逆に言えば、その幾らかの時間の記憶が、今この瞬間に消えたのだ。ド忘れってやつか。

けれどそれは、水が浸透していくみたいにすぐに取り戻される。


視界には、黄色い点字ブロック。

そうして今自分は、地面に手をついて倒れ込んでいる。


条件反射的に立ち上がれば、足首が痛い。けれど、そこには傷もなにもない。

ただただ、ズキズキと痛む。まるで鋭い何かで切り裂かれたみたいに。


それを悠長に確認する暇もなく、扉が開けば押し寄せる波。人だ。

そうか、この時間は帰宅ラッシュか。少し早いけれど、十分な人が下りてくる。


僕は間抜けにも呆けた顔で降り口ど真ん中に突っ立っていたものだから、

降りる人降りる人、皆から白い目で見られて、遂には肩をぶつけられ、そのまま波に流される。

まだ僕は、まるで目が覚めたばかりの子供みたいに頭も体も働かず、

人混みと人波にされるがまま、もみくちゃにされて、ホームを逆走する。


「ほら、言った通り。」


あはは、と笑う声に、頭がズキリと痛む。

その声の主は確かに、確かにこの人波のどこかにいる。声の主……?

一体誰のことを思って言っているのだろう。


その人並みはまるで、改札に向かって流れていくライン工場みたいに。

それか、パチンコ台のパチンコ玉みたいに。

晏然と、疑問ももたずに流れていたのだけれど。

僕だけはその流れに抗う非常識な存在として。

まさしく”不良品”として、そのルールの外にいた。


「君には。——-ない、ね。」


その声の存在に気がつけば、人並みとは真逆を向いていた僕の体を反転させて、波に沿うように進んでいく。目には見えない。けれど確かに彼処にいる。確信を持った僕は、段々と人並みをかき分けていく。


「ない、って何だよ。何が無いって言うんだ。」


その意味不明な言葉に、何故か反論した。

声を荒げてみれば数名がこちらを振り返った。当たり前だろう。

駅のホームで、見ながら規則正しく、秩序通りに進んでいる最中、訳も分からず大声を出す人間。


異常者だと思ってこちらを見る人。関わりたくないと見て見ぬ振りの人。

けれど、今更関係無かった。その訳も分からないものの正体を突き止めなければ。

そんなの、どっちでもいい。とにかく奴を見つけないと。

言うなれば、それはもはや本能だった。


「何度言っても同じことだよ。”ない”んだ。君には。」


その声が聞こえる度に、僕はまるで心を抜き取られたみたいに、何かが抜け落ちていく。

ちょうど、宿題を忘れた時のような。お願いされていたことを忘れたことに気がついた時のような。

誰かのものと知らずに冷蔵庫のものを食べてしまった時。自分のせいで争いになってしまった時。


僕に喪失感を与える経験と同じような何かが押し寄せて来る。そしてそれは絶望に変わる。

どうしてかは、分からない。普通に生きて、普通に時間を過ごしているのに。

けれど、理由もなく落ち込む時がある。きっとそれと同じだ。それが今何故か、根拠のない、姿も分からない声のせいで、僕は僕自身を否定されている。途轍もなく説得力のある声が。


「やめろ、やめろ!!!」


僕は成す術なく叫ぶ。ほとんど悲鳴のようなそれを上げれば、また僕の中から抜け落ちる。

ホームと改札の間で、僕は一人だけ。世界でたった一人、ヒステリックになる。


「無い。君には何も無い。」


嗤う。声は絶えず笑う。


自信。希望。勇気。


これからの将来も。


これまでの実績も。


今の安心感も。


ついさっきまで見ていた、青色も。


一人に浸る充足感も全て。


奪われていく。いや、ただただ僕が持ってはいけないものだったと言われているみたいに。

そんな高価なアクセサリー、お前がつけるには分不相応だと言わんばかりに。


その声は。僕からあらゆるものを脱がしていった。


「嘘だったのか。」


それはもう、誰か、どっちが呟いたのかわからない。


あはははは……


笑い声は、その人混みの中から聞こえている。

そうか、もしかするとその笑い声は。

単に、異常になった僕を笑う、普通の人の声だったのだろうか。

このまま動画にでも撮られて、SNSに拡散されて笑い者になるのだろうか。


僕は奪いに奪われたと実感した今。

ふと振り返ってみれば、そういう過去も未来も、今も全て捨て去って。

今何も持たない自分に、安堵していた。


”そう仕向けられたとしても”

僕を笑い続ける記憶や思い出は、無くなったわけじゃない。

現実、そんなことあり得ない。けれど。

確かに僕の持ち物は、汚されたのだ。

まるで、子供がいたずらにマジックペンでぐしゃぐしゃに落書きしたみたいに。

泥まみれに、クレヨンまみれになった自分の思い出。

それは今この瞬間に、この思いに上書きされていく。


「何も、無い。何もないよ。」


呟いてみても、変わらない。


怖かった。そうだ、僕はどうしてこんなに怖がっていたのだろう。


「何もない君は、嘘の存在だ。それを理解した今、ほんの少しだけ救ってあげる。」


まだその声がする。

もういいよ、五月蝿い。そっとしておいてくれ。

脱力した自分が顔を上げると、雨が降っていた。そうか、雨が降って。


ゆっくりと時間が巻き戻されるみたいに、記憶が充填されていく。


あぁ、そうか。


納得した僕は、少し立ち竦んだまま。

ふと見渡すと、駅にはもう誰もいない。

さっきまで狼狽えていた僕も。

その僕にかき回されていた、人並みも。


ぽっかりと開いた穴は恐怖でしかない。

自分自身に何か問いかけようとしても、まるで心に棘が生えたみたいで、触れない。

誰がこんなことをしたんだなんて、今更問いかけるのは止めよう。


「嘘だ。」


僕にはなにもないこと。


それは嘘だ。


と、その本意を知っているのは。


そう言い切れるのは。


この世に一人しかいないじゃないか。


—PM5:20


僕は黄色い線の外側に立っていた。無気力に。どうやってそこに来たかもわからずに。

そうして、追い込まれた僕は、一つの結論に至ったんだ。


それを何者かが阻止した。まるで僕の決意を踏みにじるみたいに。

傲慢にも足首を刈り取って、その選択を中断させたんだ。


そうしてしばらく蹲ったまま。


時を経て。


—今に至る。


僕は雨が上がるまでそうしていたらしい。

どこからか顔を出した夕日が、挨拶もなく沈む。


真っ青だった世界は、やがて赤に染まる。

そのまま色が変わっていくのを、僕は無力にも見届けるしか無かった。


もう一度、あの波に流されてしまえば。

僕は何か変わるかなと思っていた。だから今度はもう、現実逃避なんてしないように。

必死に立ち続けていたのだけれど。


結局それ以降誰も来ることないんだろう。


なんてことにまたトリップしているうちに、電車がやってくる。


「さぁ、次はどこに行こうか。」


声がこだまする。もはや何も感じないんだ。

目の前を電車が通り過ぎようとした瞬間。


「嘘付き。」


どこからか響いた声が。

世界をまた、別の色に染め始める。


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