さまよえるシビラ
舶来おむすび
さまよえるシビラ
昔、よく読み聞かせてもらった本だ。
懐かしいものを見つけて、思わず取り上げた。革の背表紙を撫でると、白いものが指につく。黴だろうか──と一瞬ざわついた心は、しかし指同士をこすりあわせた途端に平静を取り戻す。
「掃除、サボってたのね……兄さん」
細く繊維質な塊の示すところは、日常生活が何よりも不得手だった彼らしい。いい歳であれじゃあねえ、と困り顔だった母の姿も、昨日のことのように思い出される。
淡い紅色の唇をすぼめ、指に向けて息を吹く。鼻の頭が冷えきって赤くなるほどの室内で、肌をなぜる空気はむしろ暖かさすら感じさせた。
「さて、今日もやりますか」
外していた手袋をはめ直し、景気づけに手を叩く。
ぼふ。
気の抜けたような音だったが、構いやしなかった。どうせ彼女一人だけの空間なのだ。この屋根が半分吹き飛んだ家だけではなく、今足をつけている地面の果ての果てまで、ずっと。
「せっかくなら話し相手くらい残してくれたってよかったと思うのよね、最近」
誰に向けるでもなく、虚空へ呟きながら床に散らばったものを拾う。表も裏もびっしり書き込まれた黒い紙束は、溶けた雪でインクがにじんで、まだら模様のようにも見えた。ダルメシアンみたい、とくすくす笑いに合わせて白い吐息が洩れる。
「できたでしょ、兄さんなら。壊すだけじゃなくて、もっと有意義なこと」
──既に起きてしまって、時間を戻さない限り解決しないことを口にするのは、ただの自己満足だよ。
あの淡々とした口調が、耳許で囁いたような気がした。飽き果てるほどに聞き慣れた台詞、ゆえに間違えることはない。
「あら久しぶりね、『幻聴の兄さん』」
──毎日来ているだろう? 久しぶり、もあるものか。
「仕方ないじゃない、会ってないんだもの」
──僕は会っているよ。
「『二点以上の視点から観測されない事象は事実とは呼べない』……違う?」
──いいや、まさしくその通りだとも。
理屈っぽさが真に迫っていて、そのくせ変なところで自分の思い通りになるから、つい笑ってしまう。
幻聴の兄さん、だなんてまったくひどい冒涜だ。当の青年だって、さすがに死者を甦らせることはしなかったというのに。
否──できなかった、と言うべきか。あと一年……もとい、半年。それだけ時間があったなら、兄は必ずやりとげた。
可哀想な兄さん。
死んでしまえば、何にもならないのに。
報われない晩年だった。
たった一つの成功が、無限の妬みと嫉みを生んだ。
数式の中にしか居場所のなかった男が、学界を追われ、日々の糧にも困窮した果てに、どうなるかなどわかりきっていただろうに。
妹は今でも覚えている。
彼女と、両親と、神父しかいなかった葬式を覚えている。
恩師も、学友も、同僚も……誰一人、花を手向けには来なかった。彼らと相対したとき、合理性の鬼と呼ばれた男の顔がほんのわずかにほころぶのを、誰もがよく知っていたというのに。
「お願いがあるんだ」
『そう』なることを、明晰な頭脳は死ぬ前に悟っていた。
「君にしか頼めないんだ」
大量の薬を胃から洗い流された後、掠れた声で兄は囁いた。
「僕の部屋の、地下室に。小さなスイッチがひとつある」
赤くて、かわいい、おもちゃのような──歌うように紡ぐ唇は、血の色をとうに失って。
「そこの鍵をきちんと締めて、スイッチを押してほしいんだ」
『きちんと』なんて曖昧な言葉を、彼の口から聞いたのは後にも先にもその時だけだった。
「やってくれるよね、かわいい僕の────」
らしくない言葉をひとつ吐いて、稀代の天才はそれっきり。
夜が明けるのとほぼ同時、永遠の安息に溶けていった。
「ねえ、兄さん」
誰もいなくなった世界に、暦はない。
みずみずしい肌が少し乾いて、くすむほどの年月が流れたとしても、彼女は永遠に年をとらない。とれないのだ。この星の上で、彼女以外の誰かが彼女を観測しない限りは。
「あの時、なんて言おうとしていたの?」
妹の知らないことを、『兄』が答えられるはずもない。
ぬぐっても、ぬぐっても、まとわりついた思い出はどこからともなく潜り込んで、そうして再び革張りの本を覆うのだ。
死の灰は今日も降り積む。
さまよえるシビラ 舶来おむすび @Smierch
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