ペンギンと過ごすおうち時間

乙島紅

ペンギンと過ごすおうち時間



 わたしは朝、目覚まし時計を鳴らさない。

 かといってカーテンから差し込むわずかな日差しで目覚めるほど敏感でもない。

 朝の訪れは、いつだってわたしより早起きな同居人の目覚めから始まる。


 もぞ。もぞもぞもぞもぞ。


 同居人がわたしの腕の中で動き始めた。規則正しい生活を好む彼はさっさと起きて朝の漁に行きたがっているのである。


 でも、逃がすもんかっ。


 とばかりに、まどろみながら同居人をぎゅっと抱き締める。もふもふの羽毛布団の中で、さらに羽毛に覆われた同居人を抱きしめながら眠るなんて至高の幸せ、そう簡単に手放すわけにはいかないのだ。


「グェーッ、グェーッ」


 見た目に反してあまり可愛くない鳴き声で抗議してくる。両腕――もとい両翼をばさばさされてはこちらの眠気も覚めるというものである。


「ギン太ぁ、あと五分〜……」

「グェッ!」


 許しまペン! とでも言わんばかりに、ギン太はわたしの腕からすり抜けて布団を床に落としてしまった。


 さっきまでぬくぬく天国だったのに、急に容赦ない冷気が肌に触れてぶるりと身震いする。


「いじわるぅ」


 わたしは床の上で「どうだ」と胸を張る同居人をじとっと睨んだ。目を縁取る白いアイリングが特徴の、小柄なアデリーペンギン。彼がわたしの同居人のギン太だ。


 あまりの寒さに凍えて身動きできない私の代わりに、ギン太は慣れた様子でストーブのスイッチを入れる。それから電気をつけて、手狭な六畳間を照らす。よちよちとキッチンまで歩いて行くと、ギン太用に設置してある足台を器用に上ってケトルのスイッチを入れた。こぽこぽとお湯が沸き始める音が気だるいわたしの身体にもスイッチを入れる。


「はー、起きるかぁ」


 てきぱきと朝食の準備をこなすギン太を横目に見ながら、わたしは着替えと同時に仕事の準備をする。枕元のスイッチを押せばベッドの足元のクローゼットの引き出しが勢い良く飛び出して、もう一つ別のスイッチを押せばベッドが変形して仕事用のデスクになる。どう、機能的でしょう? その気になればおはようからおやすみまで、一日中一歩も動かずに過ごせちゃうベッド。


 ま、同居人と一緒に食卓を囲むには向いてないけど。


 着替えを終えて、わたしはベッド脇に置いてある椅子に座った。これまたスイッチを押せばスイーと食卓まで運んでくれる優れものだ。


 食卓の上には湯気の立つココアと焼きたてのトーストがすでに準備されていた。本当によくできた同居人だ。ちなみに、当の本人は自分で採ってきた魚をもしゃもしゃ食べている。


「ギン太、今日はどのあたりの漁に行くの?」

「グェッ。ググググェッ」

「えー、旧荒川の方まで行くの? あっちは最近マンモスの目撃情報があったって聞いたよ。うちもそう遠くないしあんまり近づかないほうがいいんじゃないの」

「グェッ、グェッ」

「うーん、まぁ確かにこの辺はもう魚も減ってきちゃってるけど……。とにかく、無茶だけはしないでよね」

「グェッ!」


 ギン太は早々に朝ごはんを食べ終えると、丁寧に両手を合わせ、それから自分の皿を流し台に運んで行った。


「グェッ、グェグェグェッ」

「あはは、わかってるって。ちゃんと仕事はするよ。さぼってなんかいないから」


 どうだか、と言わんばかりに肩をすくめ、ギン太は玄関の扉に向かっていく。その時、わたしははっと気づいた。そういえば昨日、二重扉が壊れて外側が開いたままに――


 ビュオッ!!


 たった一瞬、扉が開いただけで室内の空気は一気に氷点下に下がった。さっきまで湯気を立てていたココアもすっかり凍ってしまっている。寒さに強張る皮膚。ギン太の姿は真っ白な景色にかき消えてもう見えない。


 あーあ。扉、早く直さないと……。


 わたしはよろよろと椅子に座ってベッドに戻り、パソコンを立ち上げた。インターネットで近隣の修理屋を探しながら、一方で頭の中では引っ越しの文字がよぎる。


 人類が外に出られなくなって、もう数千年。


 突然訪れた氷河期。朝も昼も夜も白い靄に覆われた銀世界。それまで悠々と暮らしていた生き物たちのほとんどが地上から姿を消し、極地にだけ暮らしていたシロクマやペンギンたちが覇者になった時代。


 肉体的には絶滅してもおかしくなかった脆弱な人間を救ったのは機械とインターネットだった。わたしたちの祖先は家にこもって細々と生命活動を続け、ついには地熱エネルギーを核としたコロニー形成を成し遂げた。


 わたしが住んでいるのは旧東京第三コロニーだ。正直言って、施設のほとんどにガタが来ているさびれたコロニー。周りに住んでいた人たちは次々に富士山の麓にある新東京に引っ越してしまった。


 ウェブデザインの仕事でお金も貯まってきたし、そろそろ潮時かな。ギン太は海から離れるのを嫌がるかもしれないけど、地熱が弱ってきている旧東京よりはいくぶんか安全だ。なぜなら――


 ズシィィィィィィン。


 地響きがした。ぐらぐらと家中が揺れ、電灯が怪しげに点滅する。


 なにこれ、地震?


 ズシィィィィン。


 今度はもっと近い。ベッドの背後にある分厚いカーテンを開く。曇った窓から見えるのは、毛むくじゃらの茶色い木の幹のような、足。


 マンモスだ。


 ズシィィン!


 六畳間の半分が屋根の上から突き破られたらしい。ずんぐりとした足が大黒柱のように我が家に生える。


 衝撃でわたしは床に投げ出されていた。


 あの温かい布団も今は身体にまとわりつく足かせでしかない。


 外から冷気が一気に侵食してきて、思考の動きを鈍らせようとしてくる。だめだ、逃げなきゃ。このままじゃ踏み潰される!


 白い靄の立ち込める中、わたしは必死で探した。あの椅子は、あの椅子はどこ!? あれがなきゃわたしは逃げられない。


 だってわたしの足は……退化してペンギンのように短いから。


 ズシィィン!


 マンモスがもう一度足踏みして、わたしの希望を践み砕いた。椅子は跡形もなく粉々になっている。


「ああ……ああ……」


 悲鳴にもならないか細い声をあげ、わたしは後ずさった。マンモスが我が家を破壊しながらゆるりとこちらを振り返る。分厚い毛皮に埋没した何を考えているかわからない瞳がわたしのことをじっと捉えていた。


 どうしてこうなったのだろう。


 わたしが、ギン太が何をしたというのだろう。


 ああ、神様仏様。


 もしも一つ願いが叶うなら、ご先祖様にこう伝えてください。



 

 おうち時間でもちゃんと運動しろよ、って……。




 寒さと恐怖で意識が遠のいていく。


 死を覚悟したその瞬間、見慣れた白黒のシルエットが視界の端に入り込んだ――






〈おわり〉

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ペンギンと過ごすおうち時間 乙島紅 @himawa_ri_e

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