桜の季節とウチの猫
宵埜白猫
白い小さな同居人
月明りに照らされて、青白い桜の花びらが俺の前を横切った。
昼に見たら季節の移ろいだの風情だのを感じるのだろうが、街灯もない夜道では切ない気持ちになる。
……それは桜のせいってだけでもないか。
二週間前から新社会人として会社員をやっているが、これがなんともままならない。上司や同僚との人間関係に慣れない書類仕事、まだ二週間と言ってしまえばそれまでだが、正直心が折れそうだ。
住み慣れたマンションのドアの前に立って深呼吸を一つ。
気持ちをリセットしようとはしてみたが、彼女にはきっと気づかれるんだろうな……。
そんな思いとは裏腹に、口の端は小さく上がった。
「ただいま」
ミャ~オ
俺の声に、小さな同居人は気だるげな返事を返す。どうやら彼女は寝起きらしい。
俺は荷物を椅子の上に放って、部屋の隅に置いたソファの上で丸まっている彼女を抱き上げた。
ミャッ
彼女は一瞬だけ驚いた顔で目を見開いたが、すぐに目を細めてふわふわの尻尾で俺の顔を撫で始めた。
「ありがとぉー。白雪のおかげで毎日頑張れるよ」
ミャ~
俺もソファに寝転んで彼女の頭を撫でながら言うと、彼女はご機嫌そうに答える。
ちなみに彼女の名前の由来は、一年と少し前に彼女を拾ったのが寒い雪の日だったことと、彼女の持つ真っ白な毛だ。
綺麗に手入れした彼女の長毛をそっと撫でると、彼女はごろごろと喉を鳴らしながら頭を俺の顎に擦りつけた。
こういう仕草の一つ一つに癒される。慣れない人達の中で疲れ切った心がすっと解きほぐされていくような、温かい気持ちになれるのだ。
ミャ?
ずっと同じペースで撫でているのを不思議に思ったのか、彼女がのっそりと顔を上げる。
「なんでもないよ。……白雪がこうしてくれてるだけで、ほんとに全部大丈夫になる気がする」
じっと彼女の目を見つめながら言って、ふとある事を思い出した。
大学時代、拾ったばかりの彼女をこの部屋の大家さんに初めて預けた日の事だ。
🐾🐾🐾
白雪を拾った次の日、俺は大学に行くために大家さんに彼女を預けに行った。
拾ってすぐ電話で伝えていたのと、大家さんが猫好きなのもあって話はスムーズに進んだ。
「――じゃあ、お願いします。それと、おやつをあげるときはこれを」
「了解~、任せてよ」
俺から白雪とおやつを受け取った大家さんは明るい声で返事を返す。
親からマンションを継いだと聞いた時はどんな人かと思ったが、話してみると意外と気の良い人だ。歳も近いから気負わずに話せる。
「講義の後はそのままバイトなので、帰るのは八時頃になると思います」
「は~い。女の子同士楽しんどくから、心配せずにいってらっしゃい」
ミャオ
大家さんが白雪に頬ずりしながら言うと、白雪も心地よさそうに目を細めて鳴いた。この調子なら大丈夫そうだ。
「いってきます」
大家さんの部屋を後にして、一歩、二歩。三歩目を踏み出そうとして、肩がなんだか寂しいことに気付く。
通学用の鞄まで大家さんの部屋に置いて来てしまったらしい。
振り返って軽くノックをする。
「すいません、鞄を忘れたみたいで――」
部屋の中の、数十秒前には予想もできなかった光景に思わず動きが止まる。
ソファの上に寝転ぶ大家さん。そしてくつろいだ顔をする白雪。
何もおかしなところなんてない。……白雪が大家さんの顔の上に乗っているのと、その白雪のお腹を大家さんがしっかりとホールドしていること以外は。
「……あの、何してるんですか?」
「……猫吸い。猫飼いならみんなやってるよ~」
大家さんは白雪を顔に乗せたまま答える。
少なくとも俺はそんなことしないと思う……。
「あ、鞄あったんで、俺もう行きますね」
「気を付けてね~」
相も変わらず白雪に顔をうずめたまま、大家さんは手をひらひらと振って俺を送り出した。
🐾🐾🐾
今思い出しても強烈な光景だ……。
でも、疲れた今の俺にはこのふわふわのお腹に顔をうずめる行為がとても魅力的なものに思えてしまう。
そう思うともう止められなかった。俺は胸の上でくつろいでいる白雪を優しく抱き上げて、彼女のお腹を顔の上に乗せる。
瞬間、柔らかな長毛が顔全体を優しく包み込み、じんわりとした温かさが伝わってくる。
……幸せだ。
ミャ~オ~
大家さん、今ならあなたの気持ちが分かります。
確かにこれは癖になる。というか、なんで今までしてこなかったんだ!
これからは毎日しよう。酒やたばこ何かよりよっぽど健康的なストレス解消法だと思う。
俺がとめどなくあふれる幸せの中でそんな事を考えていると、軽快なノックの音が部屋に響く。
そしてこんな時間に俺の部屋に訪れる相手は一人しかいない。
「
「……お疲れ様です、
見なくても誰だか分かる明るい声で部屋に入ってきたのは、このマンションの大家さんこと冬香さん。
一度白雪を預けてから頻繁にこの部屋に入り浸るようになった。
あの時の彼女と同じ体勢を見られた上に、当時それを見て内心引いていたせいで、結構恥ずかしい。
「お、ついに君も猫吸いの魅力に気づいたか~。猫吸いのコツは――」
耳心地の良い彼女の声と顔から伝わるほのかな温かさに身を任せて寝てしまいたいが、彼女達はきっとそれを許してはくれないだろう。
穏やかで、けれど少し賑やかな夜は、こうして更けていくのだ。
桜の季節とウチの猫 宵埜白猫 @shironeko98
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