『おうち』時間

浅羽 信幸

『おうち』時間

「あら、今日は早いのですね」


 伴侶の言葉に、今日『は』ではなく、今日『も』と言いたいのだろう、と男は思った。

 思ったが、言ったところで機嫌を悪くするだけだとも知っている。


「貯蓄だって多くは無いのですよ」

みな、同じだ」

「一年間も何をしているのですか?」


 男は開きかけた口を、今度はしっかりと閉じた。

 みな、同じなのだ。外にいる時間も白い目で見られ、何かと陰口を叩かれ、それでも表面上は何も言ってこない。家にいる時間だって落ち着くものではなく、伴侶が居ればやれ遅いだの、貴方が居ると落ち着かないだのと一年前よりも文句をよく言われる。子供が居れば、無邪気な質問かあるいは母親から聞いた悪口によって父を敵とし、意地の悪さをもって色々聞かれる。

 多くがそうなのだ。皆、同じなのだ。


「どうせ、もうすぐ一年なだけでまだ一年も経っていない、とか屁理屈でも考えているのでしょう? その頭をもっと別の方に使って欲しいものです。前と同じ生活なんて望めないのですから、すっぱり諦めるなり、もっとあがくなり。お前様は本当に中途半端ですね」


 膝の上で、男の手の色が変わった。

 何時から、こうなったのか。

 稼ぎが悪くなった時からだろう。金があればまだ何とかなった。男の家は贅沢ができるほどの家では無かったが、それでも伴侶が鬱憤をためるたびに発散しにどこかに行くこともできた。男自身も、どこかに遊びに行くことができた。

 だが、今は遊びに行くことすらままならない。


 一年足らずで何もかも変わったのだ。


「大石様も何をしているのかしらね」


 文句を言いつつも、質素ながらも夕食を出してくれる伴侶に感謝をせねばならない、と男は言い聞かせる。言い聞かせて、怒りに石をつけて池に沈める。


「あの方は良くやっている」


 だが男の池は浅く。怒りの石は大きく。

 尊敬する上司を貶されれば、ひょいと石が水の中から顔を覗かせてしまった。


「あら、そう」


 伴侶の声もまた低くなった。


 失敗したなと思って冷や飯を口に入れる。泥水でといだような味がし、一年前なら不味いだのと怒鳴りだしたであろうが今度こそは米粒と一緒に飲み下した。


「細々と流されるように暮らして、恥ずかしいったらありゃしない」


 先程怒りを覗かせてしまったから。

 だから男は今回も我慢した。

 男にとって、女の、特に目の前の伴侶の口は軽く見えている。だから、伴侶を怒らせてうっかりと余計なことをばら撒かれたくないのだ。だから、自分が我慢するしかない。


 家の時間は苦痛だ。仲間と会っている方がいい。でも、外で仲間と会っていればそれだけでいろいろと言われ、噂も立つ。噂は瞬く間にあらゆる方向に駆け抜け、多くの人に迷惑をかけることになる。


(それだけは避けねばならない)


 だから、家の外でも家の中でも、男は我慢を心がけた。

 ぐ、と堪えて、耐え忍ぶ。

 あと何日か。何十日か。あるいは何年か。

 いや、何年は耐えられぬ。早く終わらねば耐えられぬ。せめて、次の冬が終わるまでには一段落着いてほしいと、そうでなくては人間関係も財布も、限界を迎えてしまうだろう。


 黙々と、男は一年前に比べて大きく味の落ちた夕食を腹に収めた。

 決して早食いはせず、腹持ちが良いようにゆっくりかみしめながら腹に収めた。


「うまかった」

「そう」


 乾いた雑巾を絞り出すように出した感想ですら、伴侶は取り合わない。

 何時からこうなったのか。

 一年前、正確には一年前の四月あたりからだろうな。


 それでも日常は続く。

 明日も地道に、変わった仕事に四苦八苦しながら取り組んで、人の目を気にして生きるのだ。

 そうして、時が来るのを待つしかないのだ。


 男が立ち上がる。

 時を同じくして、家の安い戸がどんどん、と叩かれた。

 伴侶がうんざりとした顔で玄関に行き、扉を開けると男とよく飲みに行っていた同僚が、頬を紅くして息を荒らしていた。


「どうかしたか」

そう言おうとして、それよりも早くに同僚が男に近寄ってきた。駆け寄ってきた。


「十四日だ。十四日に居るんだ!」


 最初は何を言っているのか全く分からなかったが、やがて理解が行くと男の体に火が巻き起こった。

 どんどん薪をくべられていくように膨大な熱が発せられ、余波で頬が紅くなった。


「十四日か。そうか。大石様はどちらに」

「もう来ている」


 聞くと、男は刀を手に立ちあがった。

 伴侶が手をついて頭を下げている。


「お討ち入りの日時が決まったのだ。そなたとは、離縁しよう」

「かしこまりました」


 男は伴侶の返事をおざなりにしか聞かず、草履を引っかけた。

 いつの十四日か。何時からか。人数は。

 そんなこと、男は伴侶には伝えない。一切何も伝えない。

 伴侶が知っているのは「十四日」と街中の噂のみ。


「吉良様をお討ちの時間には、私も白装束を纏っておきます」

「勝手にしておれ。もうそなたの実家の時間と、某の時間は異なるのだ」


 男は言うと、振りかえらずに我が家で過ごす最後の時間を打ち切ったのだった。

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『おうち』時間 浅羽 信幸 @AsabaNobuyukii

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