吉祥寺にて

鹿島 茜

吉祥寺にて

 雑居ビルの地下へ向かう階段をこわごわしながら降りると、紅茶専門の喫茶店があった。地下だからかいつも薄暗く、それでもなんだか明るい雰囲気のある、かわいらしい店だった。

 美咲みさきがその店に連れてこられたのは、大学の先輩と共に食事をした後のことだった。どの先輩たちも、店のことを知っていた。しばらくすると、同級生たちも皆、店を覚えた。美咲もまた紅茶を飲みたくて、友だちとよく行ったものだった。

 紅茶よりもコーヒーの味が好きな美咲だったが、紅茶のほうがどことなく「女の子らしい」と感じていた。まだ18歳。コーヒーも紅茶も、味の違いなど本当はわかっていない。もともと香りにも味にも鈍い美咲にとっては、実のところどうでもいい違いだ。


 芝田しばたという男の先輩が、美咲の心にいつも引っかかっていた。色が白くて、髪が少し茶色い。背は高くなく、痩せている。大学院生の彼は見るからに知的で、美咲は意味もわからず憧れを抱いた。普段から親しくしてくれた彼と、なんの拍子か、紅茶を飲みに行くことになった。

 ダージリンを選んだ美咲は、そのとき芝田が何を選んだか記憶にない。ただ、「芝田さん、つきあってください」と、気づいたら呟いていた。自分でもなぜそんなことを言うのかわからなかったが、言ってしまったら、この人のことを好きにならなきゃと、そんな風に思っていた。

「いいよ」

「え、いいんですか」

「うん、いいよ」

「どうしてですか」

「僕も、恋人がほしくないってわけじゃないから」

 誠実なのか不誠実なのかわからない返答だったが、美咲は嬉しかった。生まれて初めて男の人とつきあうのだと、躍り上がる心持ちだった。


 翌日の夕方、芝田からお茶に誘われた。前夜と同じ紅茶の店。やはりダージリンを頼んだ美咲は、芝田の飲んでいた紅茶を思い出すことはできない。

「つきあうの、やっぱりやめよう」

「なんでですか」

「うん、やっぱりだめみたいだ」

「ひどい」

「ごめんね」

「ひどい」

「そんな顔、するなよ」

 たった一日で、何も起こることなく、ハサミでチョキンと切り取るように、24時間が切り取られた。関係を築く前に切り取られてしまった。紅茶の味は思い出せない。店のレイアウトも、何も、ひとつも美咲は思い出せない。

 芝田と美咲は、その後も普通に先輩と後輩としてつきあっていた。考えてみれば、そんなに好きなわけでもなかったのかもしれない。

 実のところ、美咲はそれほど傷ついてはいなかった。


 芝田は卒業後どういう風の吹き回しか、神父になった。美咲は卒業後、芝田の所属する団体の事務所に勤めるようになった。10年以上が経過した。二人は会議室で再会した。

「久しぶりだね、どうしてるの」

「ここに勤めてます」

「それは見ればわかる」

「結婚しました」

「当然ながら僕は独身だ」

「私は離婚もしました」

「それは、気の毒に」

 芝田は悲しそうな表情を見せた。美咲は「そんな顔、するなよ」と心の中で思った。ふと、口の中に紅茶の味がよみがえる。

 曖昧であやふやな挨拶をして、美咲はテーブルの上を片づけていた。


 芝田に振られてから、紅茶を飲まなくなっていた。コーヒーしか飲みたくなかった。もらいものの茶葉が家の中に増えて、美咲はうんざりしていた。紅茶を飲まなくなったのは、芝田のためかもしれないと思いながら、大きなゴミ袋に茶葉の缶を捨てていく。紅茶を飲む必要は、美咲の人生にはなかった。

 あの店の名前はなんていったっけ。Googleで調べてみたら、すぐに見つかった。人気の老舗だった。だが、既に閉店していた。赤いからすだって、ティークリッパーだって、なんだってもう、存在しないのだ。今でもあるのは、サムタイムだけだ。


 覚えていない紅茶の味を懐かしみながら、美咲は冷め切ったインスタンスコーヒーを飲み干した。芝田とつきあったとしても、何も幸せなことはなかったろうと、改めて感じ入った。なぜなら、美咲ははじめから、彼のことなど好きではなかった。

 ただ、「恋人がほしくないってわけじゃない」だけだったのだろう。

 黄色いパッケージの紅茶のティーバッグを取り出して、いい加減に淹れてみる。味はわからない。

 美咲は、紅茶を一口だけ飲んで、流しに捨てた。


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吉祥寺にて 鹿島 茜 @yuiiwashiro

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