少し穏やかな日常

九十九

少し穏やかな日常

 静かな家の中で私はキッチンに立ち、コーヒーを淹れていく。インスタントではあるが、ちょっとお高いコーヒーはお湯を注ぐ度に良い匂いを届けてくれる。窓越しに聞こえるやわらかな風の音とお湯を注ぐ音が耳に心地よく、私は上機嫌で窓の外を見た。

 明るい日差しの中で緑が風に揺れている外の世界は、けれども今は遠い。いや、実際にはすぐ目の前の庭先に出るくらいならなんてことは無いだろうけれど、家と言う敷地を出た先の色とりどりの情景は少し遠くなってしまった。

 私はお湯を注ぐのを止めて、コーヒー片手にリビングを離れて自室に向かう。

 自室が特別な場所になったのはここ数年の話だ。家で過ごすようになってから家族が常に隣に居るのはやっぱりなんだか疲れてしまう。何事にも一人の時間と言うのは大切で、そうして自室は私の砦だ。私を家族から隔絶して、穏やかに静かに過ごすための砦だ。

 私は自室の扉の鍵を閉めてから、机の上にコーヒーを置いた。コーヒーの中に微笑む私が映る。

 今日は何をしようか。取敢えず筆を取ってから暫く考えて――。



「馬鹿やろうっ」

 虚しさのあまり私は書いていた文章をぶん投げた。執筆はノートパソコンで行っているので実際にはぶん投げたと言うより、ちょっと持ち上げてから身体を一回転させただけだが、心の中では豪速球のピッチャー宜しくぶん投げた。

「なーにが、静かな家の中だ。コーヒーだ。穏やかな時間だ。何回コーヒー出すんだくそったれ」

 別にそれらは何も悪くはないのだけれど、虚しさのあまり自分の文章に八つ当たりをする。けれども八つ当たりをすると言うのもまた虚しく、結局私は大きな溜め息を吐いて炬燵の中に丸まった。



 外が死者で溢れかえったのはそう遠くはない数年前の話だ。

 それは唐突に起こった。生きていた人がある日死んだように眠り続け、そうして目を覚ました時には歩く屍。それが二年くらい続いて、結構な人数が歩く屍になった頃にやっぱり唐突に終わりを告げた。詳しい数は未だに分かってはいないけど、死者の数は大体、生者と同じくらいらしい。

 死者は別に生者を喰うなんて事はしなかったけれど、お腹は空くらしく手近なパンや作物やらを食べた。食べる量こそ生者と同じだけど、やたらめったらに畑を荒らすので、最近の畑は皆コンクリートの壁で覆っている、

 死者は結構ごちゃごちゃに動く。そうして何故か皆、外に出た。結果として、事故が増えた。感染については不明のままだったし、あんまりにも事故が増えたので、政府は家から出ない事を推奨した。

 電気もガスも通っていて、くそったれな仕事は別に途切れても良かったのだけど、食料や娯楽だってドローンの補給活動で届く。生活としては外に出られない以外は割と安定している中で、生者は「おうち時間」と言うやつを過ごしている。


 

 私は起き上がってもう一度、文章へと目を通した。が、直ぐに呻いてから撃沈した。

「いや、もう分かんない。改めて家で過ごす事になった人の穏やかな暮らしってどう書いたらいいの」

 そもそもの話、私は根っからの出不精だ。外に出ていなかった人間だったし、それで別に困った事なんて無い。

 欲しいものは通販で買っていたし、仕事はインターネットを通じて行っていた。安い賃金だったからあれもこれもは買えなかったけど、ひもじくは無かった。裏庭では母が趣味で野菜を作っていたし、祖父母が農家の実家暮らしなので野菜と穀物には困らなかったため、家が貧しくともそれほど食べ物で困窮した事は無かったのだ。

 因みに髪なんかは外に出ないので自分で適当に切っていた人間である。

「家、最高じゃん」

 つまり私は、元々おうち時間を主体に生きていた人間なのだ。多分、細かい意味では違うのだろうけれど、家の中でずっと過ごす事には慣れているし苦ではない人間だ。


 そんな家の守り人みたいな人間に穏やかなおうち時間の描写を書いてくれと頼んで来た友人を思って、私は梅干を食べた時みたいな酸っぱい顔をした。おうち時間の描写は趣味のゲーム作りに使いたいらしい。ゲームで釣られたあの時の自分を張り倒したいがもう後の祭りである。

 友人は外で遊ぶこととゲームが大好きな人間だ。私と似たようなタイプだが、反対のタイプでもある。友人は極端な性格だった。家にいたらずっと部屋の中に篭ってゲームを私含めその他友人と遊ぶが、外に出たら一人で何処まででも遊びに行ってしまうような人間だ。

 そんな友人だから静かにゆったりと家で過ごすことがよく分らないらしかった。やることがいっぱいなのにゆったりと過ごすのはどう言うことかと首を傾げていた。おうち時間を過ごすようになって永遠にゲームをしていた事もあり、余計に「ゆっくり過ごす」が分からなくなったらしい。そこはちょっと面白かった。

「もう自分では分かんないので、普段の日常を書いて下さい」

 そう言って私に投げて来た友人にゲームに釣られた私は一も二も無く深夜テンションで頷いた。後で冷静になって考えてみると、私だって分からないと言う事が判明した。


 私は実家暮らしなので静かな家は無い。ゲームの登場人物のように自分だけの部屋だって持っていない。

「まあ、でもそこまでだったら平気。結構いける。でもなあ」

 正直、コーヒーは少し苦手で、インスタントどころか缶コーヒーの甘い奴しか飲んだことないし、何よりゆったり過ごすが私にもてんで分からなかった。

 私は怠惰でゆったり過ごしている様に見えるだけで、実際は何かと時間に追われていたりする。登場人物のように一息つきながら、心に余裕をもって過ごせているかと問われれば否である。

「普段の生活を書いてくれたらって言われたけどさ」

 友人から受け取った未だに仮のままの登場人物の設定メモを見る。

 今まで外で過ごす事の方が多かった女性。おうち時間によって家の中でゆったりと過ごす事になる。コーヒーが好き。外に出られたら嬉しいが、最近は家にいる方法にも慣れて来た。

 これである。一言目からかけ離れ過ぎているので、私の普段の生活を書いてと言われても困るのである。


 私は溜め息一つ溢して炬燵から起き上がると、座敷を経由して窓から裏庭を覗き込んだ。食料箱から離れた畑で土をこねくり回している母を見詰めてそっと微笑む。祖父母は畑に行ったまま帰らなくなってしまったから、母が裏庭好きで良かったなと笑う。


 家族と隔絶される孤独は知っても、穏やかな静けさなんて私はやっぱり分からない。外に出たい気持ちも、家の中で満足の行く生活をしている私には分からない。

「断っちゃうかあ」

 酷く心苦しいが、埋め合わせはきちんとするつもりだ。ゲームを買って貰ったので、結構でかい埋め合わせだが、書けないものは書けない。

「取り敢えず、出来たとこだけ送るか」

 時折こうやってお題やら依頼をくれる友人達の配慮は嬉しいのだが、こういう書けないものに出会った時に虚しくなるなとぼんやりと考えながら携帯を取った。



「いや、普段の生活で良いって言ったじゃん?」

「つまり?」

「きったない方で良いんだよ」

「きったない方」

「何気ない日常が欲しいんだよ。少し穏やかな日常。嬉々としてカップラーメン啜ったり、書こうと思ってたくせにだらけてポテトチップス食ったり、賞味期限切れそうな缶コーヒー啜ってみて頷いたり、そう言うの」

 通話に出た友人はあっけらかんと言い放ち、「あ、でもこっちも良いですねえ」とのんびりした口調で私が送った書きかけの文を読んだ感想を口にした。

 友人に私生活が筒抜けだった事は別に、驚くことじゃないのだけれど、それよりも。

「きったない方って……」

 ニュアンス的に汚いと侮蔑されているわけでは無いので良いのだが、なんだか物悲しい気持ちになった。この友人、私よりもきったない生活送ってるじゃん。

「いや、それなら君の方がきったないからそれ書けば良いじゃん」

「穏やかが分からないから」

 そう言われて友人の普段の生活を思い出す。確かに穏やかさは無い。怠惰でだらけている方がずっと穏やかに近い。

「じゃあ、普段のきったない生活の方で宜しくお願いします。おまけでお菓子送っとくから」

「うっす、きったない方でいきます」

 お菓子に釣られた私は、またまんまと一も二も無く頷いた。


 その後、何回か梅干を食べた顔になりはしたが、文章は無事に友人に届けられた。

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少し穏やかな日常 九十九 @chimaira

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