地を這うものたち

鹿島 茜

地を這うものたち

 襖の向こうには縁側があった。趣味のよくない黄色か橙色だいだいいろかわからない色合いのカーペットが敷いてある。広くて陽当たりのいい縁側だったが窓の建て付けは悪く、古びた雨戸もがたぴし叫ぶばかりで閉まったことがない。里子さとこにあてがわれた六畳間は家の最奥にあり、南向きではあったが大きな桃の木に邪魔されて薄暗く、西側には磨りガラスがはられていて鈍く西日が入る陰気な部屋だった。

 戦後すぐに建てられた日本家屋は築20年以上が経過して傷みがひどく、里子の部屋も冬は隙間風がしばしば通り抜ける。夏になると大きな蜘蛛が出たり、磨りガラスの向こうに見たこともない大きさの蛾が貼りついていたりした。ムカデが出たこともある。昆虫や蜘蛛の類が苦手な里子はいつもその部屋から抜け出したかったが、滅多に出ることは許されなかった。歩いていいのは陽当たりのいい縁側だけで、北側の玄関から出かけることはなきに等しい。

 身体の弱い里子は肺に病を持っており、小学校へも通っていなかった。毎日のように家庭教師がやってきて、国語や算数、理科や社会を教えてくれる。色白で分厚い眼鏡をかけた四十絡みの男は教えることこそ上手ではあったが、手癖が悪く里子の身体に何度も触ってくるのが常だった。触られても何とも思わなかった里子だったが、よく晴れた秋の午後三時過ぎにワンピースと下着をすべて脱がされて指を入れられた。痛みが激しく叫ぼうとしたが、大きな手で乱暴に口を塞がれた。抵抗もできず、里子は諦めた。

 男の家庭教師は満足そうな笑みを浮かべて帰って行ったが、夕方4時頃に里子は縁側から見える小さな楓の木の上に白いてんがいるのを見つけたのだった。貂の目は金色に光り、里子をじっと見つめている。その生き物が「貂」であるとわからなかった彼女にとって、初めての出会いだった。

『里子よ』

 耳ではなく脳味噌に直接語りかけるかの如く低い声で、貂は里子に語りかけてきた。

『里子よ』

「なんなの」

『声に出さなくてもよい。心で聞け』

 里子が黙していると、貂はカッと目の色を青白く染めて里子の全身を照らした。驚いて目を閉じている間に、貂は消えていた。翌朝、目が覚めた里子は貂のことを忘れていた。

 毎日やってくる家庭教師の男は勉強を教えた後に里子の身体を触り、指を入れてくることが日常になった。里子はそのたびに不気味で総毛立つ感覚を耐えていたが、誰にも言うことができず一人で隠し通していた。父も母も里子には無関心で薄情で、肺病の娘よりも健康な息子を愛した。里子の弟である一男かずおは病気のひとつもなく、昆虫好きの元気な子どもだったからだ。一男が採集してくる虫を見て、両親は喜んでいた。一男の虫籠の中にいるバッタを、里子は蓋を開いて逃がしてやろうとした。一男への嫌がらせのつもりだった。

「ほら、出ていけ。どこかへいけ」

 バッタはなかなか籠から出てこなかった。苛ついた里子が籠を逆さに振ると、バッタはようやく出てきた。しかし動くこともなく、里子を見つめているようだった。

「逃げないの、お前」

 何も言わないバッタが頷いている。怪訝な表情で里子はバッタに手を伸ばした。ひょいと掌に乗ってきて、ぴょんぴょんと跳ねる。

「止まれ」

 バッタは止まった。じっと動かない。

「膝の上」

 掌から白い膝小僧の上にバッタは移動し、静かに里子の言いつけを待っている。

「虫籠に戻れ」

 驚いたことに、バッタは自ら虫籠の中に入った。

「仲間を10匹呼べるか」

 さすがにこれは無理かと思っていたら、1分もしないうちに縁側には10匹のバッタが揃っていた。里子はバッタたちを解散させて、自分自身の力について思い巡らした。

 翌日から里子は様々な昆虫で実験をした。蟻であったり蛾であったり毛虫であったり。蜘蛛もきちんと里子の言いつけを守った。消えろと言えば消えていったし、現れろと言えば現れた。いつの間にか里子は虫を嫌わなくなり、念力で虫たちと遊ぶようになった。蟻に芸術的な模様を描かせたり、蜘蛛の巣で自分の顔を描かせたりした。里子の顔色は徐々によくなり、食欲も増してくる。肌の色艶もよくなってきた。普段は里子に見向きもしない母親が「最近はよくなってきたみたいだね」と声をかけてきたほどだった。

 ある夜遅く目が覚めた里子は、天井裏をずるずると動くような大きな音が気になり、寝ぼけた声で呟いた。

「うるさい、止まれ」

 果たして、音は止まった。虫にしては大きな何かが引きずるような音だった。

「動け」

 静かだった天井の裏で再びずるずると音を立てて何かが動いている。

「お前はなんの虫だ」

 上半身を布団の上に起こし、灯りをつけて里子は天井に向かって小さな声で言った。

「現れろ」

 里子の視線の先にある天井の端から、見るもおぞましい、しかし美しい七色に光る蛇が現れた。ちろちろと舌を出し、下へ降りてこようとしている。

「止まれ、動くな」

 ぴたりと止まり、蛇は黙って鎌首をもたげて里子を見つめている。

「お前も私の言いつけを守れるのか」

 こくりと頷き、蛇は舌を出し入れした。

「毒蛇か」

 再び蛇は頷いた。

「仲間もいるのか」

 蛇は頷く。里子は天啓だと感じた。

「お前たちは私の味方か。味方ならここに降りてきて言う通りにしろ」

 しゅるしゅると音を立てて、蛇は里子の足もとに降りてきた。止まれ、進め、とぐろを巻けといろいろ命令を下したが、その蛇はただの一度も言いつけを守らないことはなかった。

「お前たちにやってもらうことがある。呼んだらいつでもすぐにこい」

 蛇は天井へ戻り、そのまま大人しくなった。里子は安堵して眠った。

 家庭教師の男は調子に乗るばかりであった。発育してきた里子の身体を撫でさすり、指を入れてくる。勉強はそっちのけで悪戯することばかりの日々だった。里子が黙っていると思っていい気になっているのだった。春も近づいた雨の午後、男はズボンの前を緩めてにやりとした。里子がじっとしていると、目の前に汚らしい棒が現れた。しゃがれた声で男は囁いた。

「指じゃなくてこれを挿れるからね」

 ぞっと背筋が冷える。そんなことをさせてなるものか。逃げようと里子は身体の向きを変えた。男は力強い腕で里子を捩じ伏せた。幼い里子の力で敵うわけがなかった。

「大人しくしていれば痛くないから」

 痛いに決まっている。離せ。離せ。汚らわしい。蛇よ、早くこい。たくさん仲間を連れてこい。畳の擦れる音がする。少しだけ膨らんできた胸を掴まれる。痛い。指を入れられそうになる。逃げる。ずりずりと身体を動かしてどうにか逃げようとする。蛇よ、遅い。早くこい。この男に巻きついてやれ。

「ひぃっ」

 男のおかしな裏返った声が聞こえたと思ったら、里子の六畳間は七色の蛇たちで溢れかえっていた。里子には決して触れることなく、蛇たちは醜い男の足首や手首に巻きついている。

「ひぃ、蛇……毒蛇か」

 里子はただただ何も考えられずに見ていたが、蛇のうちの一匹が足もとにやってきて、くいと頷いた。

「あのときの蛇か」

 蛇は忠実そうな目をして頷く。

「そいつの、そいつの身体中に巻きつけ。首もだ。首も絞めろ」

「ひぃっ、やめろ」

「殺すな、まだ殺すな」

 蛇たちは男の足から手から首からぐるりと巻きついて離れない。

「く、苦しい、離せっ」

 里子は裸のまま立ち上がった。

「よくも今まで」

「離せこの餓鬼っ」

 蛇は男の萎んだ陰部にも巻きついた。

「ひいぃ、やめろ」

「そこに噛みつけ、毒を盛ってやれ」

「やめろぉっ」

 何匹もの蛇が一斉に男の急所を噛む。

「ぎゃあぁぁぁぁ」

「首に巻きついた奴、こいつを殺せ」

 里子の言いつけを守り、蛇は男の首をぎりぎりと巻いた。ごきり、と妙な音がして、男の首は変な向きに曲がった。

 ぼうとして立ちすくんでいると、窓の外に青白く光るものがある。見つめていると、それは貂の姿だった。

『里子よ』

 頷くと、目の前から蛇も死んだ男も消えた。目を丸くして周囲を見渡しても、いつもの部屋が広がるばかりだった。

『お前に力を授けた。地を這うものを呼べ。彼らはお前を助ける』

「死んだ奴はどうすればいいの」

『放っておけ。言葉は自然と出てくる』

「これからも助けてくれるの」

 既に貂は姿を消していた。

 裸であったことに気づき、急いで服を着る。そこへ母親が入ってきて「あら、先生はどちら」と言った。

「今日はもう帰るって。縁側から帰った」

「あらそう。何かご用事でもおありだったかしら」

 言葉は自然と出てきた。

 里子は自分の両の掌を眺めながら、薄く微笑んだ。次は誰だ。父か、母か、弟か、それとも別の家庭教師か。

「蛇よ、そこにいるなら、天井を三回つつけ」

 天井裏がずずずと動く音がして、とんとんとん、と三回鈍い音が響いた。


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