『3月4日、16歳最後の日』

名月 楓

『3月4日、16歳最後の日』

 春の匂いはどんな匂いか、そんなことを友人と話したことがある。皆口裏を合わせたかのように、優しく朗らかな匂いだ、なんて言う。3月4日、一足早い春の匂いは、とても悲しく感じた。毎年そうだ、今年だけ悲しい訳じゃない。獲得より喪失のほうがより印象深い、と心理学者のネット記事に書いてあったのを思い出して、本当にそうだと実感する。自分はそういう人間なのだ。獲得の喜びを、喪失の悲しみ、恐怖が、遥かに上回る。だから、先輩がいなくなる今日この日まで、何も言えずにいた。自分の感情に背を向けて、現状維持だけで。くだらないことで、なんて口に出して、何でそんなこと言うんだよ、なんて本心が言い返す。




 そうこうしている間に、特別棟の端にある小さな部室の鍵を開ける。ドアに、文芸部、と書いてある張り紙がされている部屋は、しばらく使っていなかったからか、机にはうっすらと埃が被っていた。掃除用具入れの中から、比較的きれいな雑巾を1枚出して、埃を軽く落とした後、5人しかいない部員で書いた色紙と、ハンカチと万年筆というよくわからない組み合わせのプレゼントを置いて、鍵を閉める。


式が終わったら、先輩たちがここに来る予定になっている。




 教室にいる人はまだ少なく、朝のうちに先輩を送った運動部が何人かいるだけだ。友人に、おはよ、と言って席に着く。カバンから読みかけの本を取り出す。途中から読もうとページを開いたとき、姫金魚草が書かれたしおりが目に入る。先輩が引退する前に記念にとくれた大切なもの。いつもしおりなんてすぐに捨てて、碌に使わないのに、これだけは大切に使っている。こんなもの、見るたびに辛くなるだけなのに。しおりを一旦机の上に置き、頭に入ってこない文字の羅列を読んだ振りして、1枚また1枚と捲っていく。やがてクラスに人が集まり、チャイムが鳴る。担任の話をぼーっと聞いていると、ホームルームは終わり、廊下に並ばされ、体育館に向かう。保護者の後ろに座り、始まるまで近くに人と話す。2時間も座るのはだるいだとか、来賓いらねーよだとか、くだらない話を。キーンというマイクの音に耳を塞ぎながら、静かに、と司会が言い、入場の合図とともに、扉が開き、スピーカーからゆったりとした旋律が流れ出る。




 あっという間に式は終わった。教室に戻ると回りでさっき駄弁ってたやつがうっすらと涙を浮かべている。1時を過ぎる前には校舎を出ていくようにと担任が言った後、解散となり、それぞれが先輩のところへ向かう。鍵を開けるために急いで教室を出る。先輩たちのホームルームが終わるまで約30分、ギリギリまで来ないであろう4人を恨みながら床を掃き、椅子を整理する。あと10分で先輩たちが来るというときになって来た2人の部員と贈り物を渡す流れを確認する。あと2人は幽霊部員だから来ないだろうと口を動かしていると、先輩たちが聞く最後のチャイムが鳴る。少しして扉が開かれ、3人の先輩が入ってくる。お疲れ様です、と先輩を労いプレゼントを贈る。喜んでもらえたようで、にっこりと笑顔を見せた。




「ありがとね、部長」




先輩に部長と呼ばれるのは違和感を覚える。卒業するまでは先輩が部長ですよ、と言うと、




「なおさらじゃん。もう卒業したんだから」




と言われ、そうですね、と返す。その後も思い出話をして、親が、友達が、塾が、と言って、先輩と2人、部室に取り残される。




「2人だけなの懐かしいね~」




引退する前のことでも思い出しているのだろうか。いや、10月に引退しても勉強するために12月までは部室に来ていたから、その時かもしれない。今日みたいに、皆部活以外のことが大切で、いつも部室には先輩と2人きりだった。こちらに背を向け、本棚から本を取り出す。




「この本も懐かしいなぁ。何回読んだっけ?」




透明で、温かいこの声を聞くと、鼓動が少しだけ早くなる。ずっとこの時間が続けばいいのに、夢なら覚めなければいいのに。でも、この時間は有限で、この世界は現実で、だから諦めるしかなくて。いや、違う。そんなのも言い訳に過ぎないってわかってる。きっと、強く手をつかんで、離さなければ、夢から覚めない。喪失を恐れる弱い心は、その可能性を視てくれやしない。そうやって、苛立ちだか無力感だかよくわからない感情を反芻していると、先輩はいつの間にかこっちを向いていた。




「どうしたの?ぼーっとして」




もしかしたら今がチャンスかもしれない、と脳が認識したのをかき消すように、自分も懐かしんでただけです、と脊髄が嘘をつく。




「そっかぁ、うん、そうだよね」




何か言いた気に口を動かそうとしたように見えたが、すぐに止め、それ以上音が出ることはなかった。何だろうと思いながらも、会話が途切れ、気まずくなって5分遅れた壁掛けの時計を見ると、長針があと数分で6を指すところまで来ていた。そろそろ帰りましょうか、と声を掛けると、




「あ、ちょっと待って」




と言って鞄の中から丁寧にラッピングされた片手サイズの箱を取り出し、右手を取ってその上に乗せる。




「はい、プレゼント、明日誕生日でしょ?」




言われるまですっかり忘れていた。3月5日に17歳を迎える。つまり、今日は16歳最後の日になる。最悪な最後だ、なんて思いながら先輩に見えないように苦笑いをして、わざわざありがとうございます、とお礼を言う。




「ほら、開けてみてよ」




先輩に見つめられ、言われるがままにテープをはがす。中にはハーバリウムが入っていた。液体のりに包まれ、白と紫の小さな花が目に映る。何回も目にしたから何の花かすぐにわかる。好きなんですか、姫金魚草、と聞くと、少し考えてから、




「花自体はそうでもないけど、姫金魚草は3月5日の誕生花だから。まあ、花言葉は好きかな」




と口に出す。大切にします、と言うと、




「よかった、ありがとう」




と一言言って、2人して帰る支度をする。昇降口まで一緒に、静寂を保ったまま、移動する。夢はもう覚めてしまうようだ。正門まで並んで歩く。ここで別れる。先輩といる、最後の時間。どうしようもない臆病な心が、やっと動こうとする。もうこの一瞬しかないのに。もうこの一瞬しかないから。何も残らなくていいから、最後に。くだらない考えで口が動き出す。先輩、と別れる前に呼び止める。




「何?」




と、足を止め、こちらを向く。心臓はいつも通りのリズムを刻んでいる。どこまでも見えているような目を見つめ返して、最後の言葉を紡ぐ。




「先輩、好きでした」










遅いんだよ










リナリア、別名「姫金魚草」、花言葉、




「この恋に気づいて」



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『3月4日、16歳最後の日』 名月 楓 @natuki-kaede

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