二年後はきっと

※中学時代と高校二年のバレンタイン




 中学三年生の夏、私はまっさかさまに恋をした。

 まるで熱病のような恋だったけれど、夏が終わって秋が訪れ、冬になっても、私はまだ恋の熱に浮かされていた。四六時中彼のことを考えて、気付かれないようにこそこそと追いかけ回して、彼の個人情報を調べ上げ、机の中にラブレターを押し込んだ。それでも私は彼を遠くから見つめているだけで、声をかける勇気さえなかった。

 彼を好きになってから、初めて迎えたバレンタイン。もう一ヶ月もすれば、私たちは卒業だ。幸運なことに彼の志望校は私と同じだけれど、合格しているかどうかはわからない。私は自分のこと以上にヒヤヒヤしながら、彼の合格を願っている。

 もしかすると、これが最後のチャンスかもしれないのだ。高校が別々になったら、私と彼のあいだに接点は少しもなくなる。そんなのは絶対に嫌だ。

 私は校門の前で、バクバクとうるさい心臓を押さえながら彼のことを待っていた。

 胸の前でぎゅっと抱えた鞄の中には、昨日徹夜で作ったチョコチップクッキーが入っている。目を閉じて、彼にこれを渡すシミュレーションをしてみた。

 好きです、は急すぎるかな。お友達から、っていうのはどうだろう。いきなり手作りなんか渡したら気持ち悪いと思われるかな。やっぱり市販品の方がよかったかも。


「あー、腹減った! コンビニ寄って帰ろ!」


 そんなことをぐるぐる考えているうちに、大きな声が聞こえてきた。私の耳は、彼の声だけはしっかりキャッチできるようになっている。

 彼は男子バスケ部のメンバーと並んで、こっちに歩いて来ている。背の高い男バスの子たちに囲まれていると、彼の身長はひときわ小さいので目立つ。幸いなことに、翔ちゃんの姿はない。見つかると面倒臭いと思っていたのでちょうどよかった。

 よし、いけ、頑張れ。高梨くん、って呼び止めよう。そう思ったのに、喉はカラカラに乾いていて声が出てこない。


「ピザまんとあんまんどっちにしよかな」

「やば、オレ財布忘れた。誰か金貸してー」

「おまえ、こないだ貸した千円返せや」

「八百円やろ。水増しすんな」


 じっと俯いているうちに、彼は私の前を通り過ぎていってしまう。私は顔を上げられずに、自分の爪先ばかりを見つめていた。彼の真似をしてこっそり買った、ナイキの白いスニーカーが目に入る。追いかけたい。でも、足が動かない。

 ――好きです、高梨くん。

 喉の奥にひっかかったままの言葉は、彼に届くはずもない。

 結局私は彼の姿が見えなくなるまで、その場から一歩も動くことができなかった。鞄を抱きしめたまま、深々と大きな溜息をつく。

 ……私のアホ。意気地なし。

 いつか堂々と、彼にチョコレートを渡せる日が来ればいいのに。彼は美味しいって笑いながら、私の手作りチョコを食べてくれるのだ。そんな夢みたいな妄想に耽りながら、私はトボトボと帰路についた。




「うわっ、なんやこの家。めっちゃチョコの匂いする」


 帰ってくるなり、翔ちゃんはひくひくと鼻を動かしながら言った。私はちらりと一瞬視線を向けて「おかえり」と言ったあと、すぐにオーブンへと向き直る。


「あ、翔ちゃんおかえり〜。今年も璃子ちゃんと一緒にバレンタインチョコ作ってるんよ。璃子ちゃんが彼氏にあげるんやって! 翔ちゃんも食べる?」

「いや、俺それより普通のメシ食いたいんやけど」


 翔ちゃんはそう言って、ダイニングチェアに腰を下ろした。そのときちょうどオーブンが焼き上がりを知らせたので、私はミトンを手に嵌めて慎重に天板を取り出す。

 中から出て来たのは、カップに入った小さめのフォンダンショコラだ。どうか綺麗に出来てますように、と祈るような気持ちで包丁を入れる。とろりと中からチョコレートが出てきたのを見て、私はほっと胸を撫で下ろした。


「よかったあ。おばさん、いい感じにできた!」

「あ、ほんま? 焼き時間ちょうどよかったみたいやね」

「中にレーズン入ってるレシピいいね。これなら喜んでもらえそう! ありがとうおばさん!」


 私はおばさんと手を取り合って、その場でくるくると回転する。翔ちゃんはテーブルに頭を預けたまま、小さな声で「腹減った……」と呟いた。


「それ、ハルトにあげるん?」

「うん。ハルくん、喜んでくれるかなあ」

「あいつは璃子から貰えたらなんでも喜ぶんちゃう。そんな繊細な味の違いがわかるタイプちゃうやろ、バカ舌やから」

「私の彼氏のことそんな風に言わんといて。私の! 彼氏の! こと!」

「気持ち悪。何をニヤニヤしとんねん」

 

 現実のハルくんときちんと付き合い始めてから、およそ四ヶ月経った今も、「ハルくんは私の彼氏なんや」と考えるだけで、キャーッと叫んでその場にゴロゴロと転がりたいような気持ちになる。

 明日はハルくんが私の彼氏になってから、初めて迎えるバレンタインなのだ。ハルくんのことだから絶対美味しいと言ってくれるだろうけど、どうせなら今の私にできる最高のものを食べてもらいたい。

 二年前に作ったチョコチップクッキーは、結局持って帰って一人でやけ食いした。どこにも行き場のなくなった私の可哀想な恋心は、私の胃袋なかに戻ってきてしまった。

 でも、今年は違う。一方通行ではない私の想いを、彼はちゃんと受け取ってくれるのだ。


「なあなあ翔ちゃん。箱にかけるリボン、青とピンクどっちがいいと思う? ハルくんの好きな色は青やけど、やっぱりここはバレンタインらしくピンクかなあ」

「心底どうでもいい……なあオカン、俺の飯まだ?」





 中学最後のバレンタイン。部活を終えて帰宅しようとすると、知らない女子が校門で誰かのことを待っていた。

 もしかしておれのこと待ってんのかな、だなんて淡い期待が胸をよぎる。放課後待ち伏せされて女の子にバレンタインチョコを手渡しされるのは、男の夢である。

 彼女はチビなおれよりもうんと背が低くて俯きがちで、チェックのマフラーに顔を半分埋めている。周囲が薄暗いために顔はよく見えない。

 彼女の前を通るときに、心なしかゆっくり歩いてみたけれど、当然呼び止められることはなかった。

 当たり前だ。どう考えても、知らない女子にバレンタインチョコを渡されるだけのスペックはおれにはない。彼女の姿がすっかり見えなくなってから、がっくりと肩を落として呟く。


「あー、おれじゃなかった……」

「なんや、やっぱハルトも気付いてたんや」

「まー、あれはちょっと期待するよな」

「なんでやねん。オレらが貰えるわけないやん」


 さっきまでみんな素知らぬふりをしていたくせに、しっかり女子の存在を意識していたらしい。モテない男のアンテナは敏感だ。


「結局今年も一個もチョコ貰えへんかった……」

「そんなんオレもそうやわ。今年も翔真の一人勝ちかー」

「そーいや翔真あいつは?」

「部活終わったら秒で帰ったで。女子に捕まったらめんどいって」

「クソ、両手の指全部骨折しろ」


 情けなすぎる呪詛を吐いて、おれは深い溜息をつく。あいつはあいつで、モテるがゆえになかなか大変な思いをしているとわかってはいるのだが。それでも羨ましいことには変わりない。

 かわいい女の子から手作りチョコを差し出されて、「好きです高梨くん」だなんて告白される妄想をしてみる。ほっぺたを真っ赤に染めて、きらきらと目を輝かせて、おれだけのことを見つめてくれたら。

 ああ、もしそんな女の子が実在したら、おれは今すぐ絶対その子のことを大好きになるのに……!

 それからおれはコンビニに寄って、期間限定のチョコまんを買ってすごすごと帰宅した。




「あー腹減った。ハルト、コンビニ寄って帰らへん?」


 部活が終わって部室で着替えていると、翔真からそう声をかけられた。おれは猛スピードで着替えながら、「今日は無理!」と大声で答える。


「高梨くん、今日は璃子ちゃんと一緒に帰るんやって。ほら、バレンタインやから」


 翔真に向かってそう言ったのは、部員たちにチョコレートを配って回っているマネージャーだった。手に持っているのは市販のチョコレート菓子の詰め合わせだったが、それでもモテない男にとっては女神のような存在である。今日ばかりは「ありがとうございます、マネージャー!」と部員たちから拝まれていた。


「羽柴くん、きのことたけのこどっちがいい」

「きのこ」

「高梨くんは? どっちにする?」

「ふふ、悪いなマネージャー。おれ、今年は璃子以外から貰わへんことにしてんねん」


 渾身のドヤ顔でそう言うと、汗臭い部室に「ハルト死ね!」「どうせマネージャー以外からは貰えへんやろ!」という怒号が響いた。彼女持ちのおれに対する当たりは強いが、そんなものは屁でもない。


「そういや璃子、昨日うちのオカンと何か作ってたな。買った方がよっぽど美味いのに、なんで手作りしたがるんやろな」

「あ、出た幼馴染マウント! ネタバレすんなよ!? おれ今日めちゃくちゃ楽しみにしてるんやから!」

「知らんわ、俺食ってないもん。今年はハルトにしかあげへんって言うてたで」

「え、まじ? そっかあ、おれだけかあ……」


 翔真の言葉に頰が緩む。そっかあ、おれだけかあ……。

 ニヤニヤしていると、背後から空のペットボトルが飛んできた。おれは華麗にそれを避けると「あばよ! モテない男ども!」と言い捨てて、勢いよく部室を飛び出した。


 部室を出るともうすっかり日は暮れていて、辺りは薄暗かった。二月の空気は肺に入ると痛いほど冷たい。こんな寒いところでいつまでも璃子を待たせるわけにはいかない。小走りで彼女のもとへと向かう。

 校門のわきに、小柄な女の子が俯きがちに立っているのが見える。璃子だ。髪の毛が半分、チェックのマフラーの中に入っているのがかわいい。小さな包みを胸に大事そうに抱えている。

 そのとき思い出したのは、二年前のバレンタインの記憶だった。名前も知らない女の子が、ああして誰かのことを待っていた。あのときのおれは、その「誰か」を羨むことしかできなかった。

 おれの前を歩いていた男が、やや期待を込めた視線で、一瞬璃子の方を見るのがわかった。当然璃子はそいつには見向きもせず、じっと誰かのことを待っている。誰かって? そんなん、おれしかおらんやろ。

 手作りのチョコレートを胸に抱いたかわいい女の子は、おれにバレンタインチョコを渡すために、おれのことを待っている。

 ふと、下を向いていた璃子が顔を上げた。まあるい小動物みたいな目がこちらを向いて、嬉しそうに細められる。


「ハルくん!」


 これは彼氏の贔屓目でもなんでもなく、おれを見つけた今この瞬間の璃子が、世界で一番かわいいと自信を持って言える。


「璃子! ごめんお待たせ、寒かったやろ!」


 おれが駆け寄ると、璃子は「ううん」と首を横に振った。寒さのせいか、ふっくらとしたほっぺたが真っ赤になっていてかわいい。


「あの、ハルくんこれ」


 璃子は頰を染めたまま、抱えていた包みをおれに差し出してきた。こちらを見上げる黒い瞳が、うるうると潤んでいる。こんな夢にまで見たシチュエーションが、現実に起こっていいのだろうか。

 そうだ。おれはやっぱり、まだ夢を見ているのかもしれない。だって、こんなに自分に都合の良いことばかり起こるはずがない。あの真っ白い部屋で彼女と抱き合った夢の続きを、今も見ているだけなんじゃないだろうか……。


「大好きです、ハルくん」


 ……ああ。もしこれが夢なら、もう二度と醒めないでほしい。

 おれは璃子の手を引いて、力いっぱい抱きしめる。「うひゃあ」と璃子が驚いた声をあげたけれど、知ったことではなかった。


「……めっちゃ嬉しい。おれも好き!」


 おれの返事に、璃子はへらっと頬を緩める。遠慮がちに伸びてきた手が、背中におずおずと回される。おれの胸に顔を埋めた璃子が、「やっと届いた」と小さな声で呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

寝ても覚めても 織島かのこ @kanoco

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ