第6話

 毎日毎日、テレビは殺人集団と化した宗教団体のニュースばかりを、一日中流している。リモコンのどのチャンネルのボタンを押しても同じだ。だから豊吉は、あまりテレビを見なくなった。今日など、その教祖が間もなく逮捕されるということで、通常の番組まで休止となってそのニュース報道一色となっていた。

 豊吉は日課である朝の散歩に出かけた。戻ると、中学生の孫の勇太が息を切らせて玄関までかけてくる。目の中に入れても痛くないほどかわいがってきた孫だ。勇太にとっても豊吉は優しいおじいちゃんだった。

「おじいちゃん、とうとう捕まったよ」

 そう言って勇太は、豊吉を無理やりテレビの前に引いて行った。ブラウン管からは、倉庫のような建物のシャッターをバーナーでこじ開け、突入する機動隊の姿が何度もくり返し映し出されていた。日本中が大騒ぎしている。

「日本は平和だな」

 と、豊吉はぽつんとつぶやいた。「え?」という怪訝な顔で、勇太は豊吉を見た。この宗教は確かに殺人集団で、何人かが殺され、多くの人が被害を受けた。そこに属する信者たちがマインドコントロールされていたとて、そのマインドコントロールという言葉が流行語になったりもしていた。

 しかし、日本全体がマインドコントロールされていた時代が、かつてはあった。その時に自分が体験した残虐さに比べたら、まだまだこの事件は平和な部類に入ると豊吉は思った。確かに尊い人命が奪われた悲惨な事件ではあるし、命の重さは数の問題ではないが、この事件でマスコミが大騒ぎしていることこそ日本が平和である証拠だと豊吉は思っていた。

「事件を起こした教団上層部にマインドコントロールされている一般信者も、また被害者です。彼らには直接責任はないわけですから、そのような人々を早く救済して社会復帰させることが……」

 ブラウン管の中ではコメンテーターが、したり顔でしゃべっている。それを聞いて、「違う」と豊吉は思った。たとえマインドコントロールされていたとしても、責任はあると心の中で何度もつぶやいていた。

 そこで豊吉は、そのテレビ局宛に手紙を書いた。先の戦争で自分が、そして日本が中国で何をして来たのかを赤裸々に書いた。終戦までずっと大陸にいて、教導学校に入って軍曹にまで進んだ豊吉は、終戦と同時にマインドコントロールが解けて人間性を取り戻したというわけではなかった。

 彼が人としての心を取り戻すには、日本が高度経済成長を遂げる頃までの長い年月がかかった。それも、一筋縄ではいかなかった。人間だれしも自分がかわいいし、それだから自分をかばってしまう。そんな思いによって、豊吉は素直に過去を振り返ることができずにいた。

 しかし、日本が豊かさを取り戻す過程で、彼も次第に人間らしさを取り戻していった。それと比例して、自分がしてきたことが骨身に染み、その被害者に対する身が引き裂かれるよう悔恨の念を痛感しはじめていた。そこで日中友好関係の団体にも所属して、地道に運動を進めていたのである。

 数日して、テレビ局から電話があった。終戦五十年を記念して中国大陸で戦争被害の実態を取材する番組を撮影するので、ぜひ証言者として一緒に中国に行ってほしいということだった。もちろん渡航費、滞在費の一切は局が持つという。

 その時はとりあえず返事を保留した豊吉だったが、もはや中年の域に達している息子に相談すると、

「何も今さら自分の恥をさらすことはないじゃないか。それに親父がそんな番組に出たら、俺の社会的立場にも影響して、仕事にも差し障るからやめてくれよ」

 と頭から反対され、それでかえって決心がついた。今、自分は中国に行くべきだと感じた。

「お体は大丈夫なんですか、お父さん」

 嫁もそう言って心配する。

「そうだよ。お袋が生きていたら、何て言うか」

「なあに、俺はこうしてピンピンしとるわい」

 豊吉は笑ったが、実は心臓の持薬を手放せなくなっていた。それでも豊吉は行くと言った。


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 穏やかな一日だった。

 この日は村の居民委員会から、王健中にどうしてもとお呼びがかかっていた。

「いやあ、わしゃもう、足がいうことを聞かんでなあ」

 最初はそう言って辞退していたが、是非にもということで仕方なく健中は重い腰を上げた。一歩屋外へ出ると、強い陽射しが容赦なく降り注ぐ。それでもさわやかな風があった。

「じいさん、帰り道を忘れるでないよ」

 老妻にからかわれて苦笑をもらしながらも、

「あほこくでねえ。おらあまだ達者だ」

 と、切り返した健中は、杖を突きつつ孫に支えられながら門を出た。すでに人々は半袖の開襟シャツを着る時候であったが、健中は正装である中山服(人民服)を着た。そもそも中山服自体、今の時代では健中のような田舎の老人しか着なくなっている。

 すべてが明るかった。門前のすぐのところから始まっている畑は、ちょうど小麦の収穫が終わったところだ。間もなくトウモロコシの種まきが始まる。周りの風景は、あの頃――五十八年前とほとんど変わらない。家の庭では、今でも豚と鶏が飼われている。門を出れば、農道にはロバが引く車がゆっくりと歩んでいる。

 それでも、今の家にはカラーテレビも、電気洗濯機も、冷蔵庫もある。ずっと前からの申請の番がようやく回ってきて、やっと先月電話がついた。改革・開放の波は、この農村をも確実に包み込んでいた。もはや90年代である。


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 飛行機の窓から懐かしい褐色の大地と、その中に点在する長方形の石造りの家が見えた時、豊吉の胸は高鳴り、同時に苦しくもなった。

 やがて飛行機は、三時間半のフライトを終えて、北京首都空港に着陸する。かつては船で二昼夜かかった距離が、今ではわずか三時間半である。空港から市街まではテレビ局がチャーターした専用バスで、東京から成田空港まで向かった時と何ら変わらぬ高速道路を走った。わずか三十分で、高層ビルとまでは言えないまでも高いビルが見えてくる。

 町中を走っていると、その近代化に驚かされる一方で昔ながらの変わっていない部分も発見したりして、その度に豊吉は感動を覚えた。そのままバスは、近代的なホテルへとすべりこんだ。

 ロビーで部屋割りを待つ間、ジーンズ姿の二十代のスタッフが豊吉の隣のソファーに腰を下ろした。カメラマンであるらしいことは、豊吉も分かっていた。

「あ、どうも、ご苦労様です」

 と、若者の方から豊吉に話しかけてきた。

「大変ですね」

「いやいや、なんの。まだまだ、老いぼれちゃいませんよ」

 豊吉も相好を崩して笑った。

「いやしかし、遠い昔のことを掘り起こすこんな番組に、付き合ってくださって恐縮です」

 煙草に火を付けてから、若者はさらに話し続けた。

「戦後五十年で騒いでますけど、中国も相当しつこいですね。そりゃ確かに日本は戦争中に悪いことをしたかも知れませんけど、全部当時の軍部がやったことでしょ。それなのに中国はいつまでもグジグジグジグジ、もういい加減にしてもらいたいですね」

 それまで笑っていた豊吉の顔が、急に強張った。それでも、黙って聞いていた。

「もう時効ですよ、時効。五十年もたってるんですからね。殺人事件だって、十五年たったら無罪でしょう。それに、」

「お言葉ですがねえ」

 豊吉は若者の言葉をさえぎった。

「被害を受けた人たちにとっては、時効なんてものはないんです。心の傷は永遠に消えないものなんです。それは過酷な環境下にあって人間性を失っていたからとか、上官の命令は絶対で逆らえなかったとか、そんな言い訳は通らんのです。その責任は日本人一人一人にあるんですよ」

「でも、一般の人たちには関係ないじゃないですか。ましてや、僕なんかまだその時生まれていないんだから、余計に関係ない」

「いや、それは違いますな」……そう言いかけたが、これ以上言っても無駄だと思ったので豊吉は口をつぐんだ。

 この若者を責めることはできない。この若者が悪いのではない。歴史を正しく伝えなかった自分たちが悪いのだと、豊吉は自責の念にかられた。日本軍のしたことをわざと覆い隠して歴史を捏造しようとする大人たちの方が、この若者よりもずっと性質が悪い。

 豊吉はやたら悲しくなった。


 翌日、今では河北省の省都となっている石家荘へと続く高速道路を、テレビ局の専用バスは南へと向かっていた。バスには番組を制作する日本のテレビ局のスタッフのほか、北京から中国中央テレビのスタッフも協力のために乗りこんでいる。車窓に広がる華北特有の乾いた風景に、豊吉はまたもや胸が熱くなった。地平線の彼方にまで一面に広がる畑には、今は作物がない。所々にポプラの木があって、固まるように村がある。時々、山羊の群れがいたりもする。

 やがて保定に着いた。取材地として保定を頼んだのは、豊吉だった。今日はそこで、日本軍による保定攻撃の時の生き残りの老人と会うことになっていた。バスは高速を降りてから保定市街を抜け、ポプラ並木に挟まれた狭くて真っ直ぐに伸びる道を、飛び跳ねながら走った。やがて、直方体の石造りの家が固まっている集落に入った。もはや道は舗装もされていない。その村の役場のような平屋造りの建物の門の前で、豊吉はスタッフたちとともに面会すべき村の老人を待った。


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 村委会のお呼びとは、あるマスコミの取材に応じてくれということだった。何でも、あるテレビ局がこの村に来たという。家から村委会まで歩くとかなりあって、もうすぐ八十歳に手が届きそうな健中にとっては無理な道のりだった。だから、孫が荷台のついたトラクターに乗せてくれた。ポンポンポンポン音を立てて、でこぼこの農道をトラクターは進む。やがて五星紅旗はためく村委会が見えてきた。門の前にはすでに人垣が出来ていた。

 カメラの前でジーンズ姿の若い娘が、マイクを持って何かを紹介しているようだった。その言葉を聞くや、健中の頭は突然殴られたようにクラっとした。それは日本語だった。マイクが健中に向けられる。その娘が何かしゃべり、その言葉は通訳を通じて健中に伝えられた。

「私たちは先の戦争で、日本がお国に大変な損害を与えた場所を取材しています。よろしければその時のお話しを」

 健中は黙って首を横に振った。正直言って、思い出したくなかった。しかし今目の前にいるのはたとえ若い娘であったとしても、あの時鬼とも畜生とも感じた日本兵と同じ血が流れる同じ民族の人なのだ。

「あなたは、私が二度目に会った日本人だよ」

 質問には答えず、健中はそんなことだけを言った。その時、その背後に自分と同じくらい老けている老人が立っているのに気がついた。


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 豊吉は、村の老人をじっと見た。自分が若者だったあの頃に、この老人もちょうど若者だったはずだ。その人を前に、自分が今何をすべきか、何を言うべきか、豊吉はずっと考えていた。そして答えは、一つしかなかった。

 豊吉は前に出て、地面に手をついて座った。そして、深々と頭を下げた。

「許して下さい。わしは昔、この村を焼き払った日本兵の一人です。確かにこの村かどうかは記憶がはっきりしておりませんが、このあたりで村を焼き、たくさん人を殺したのは事実です。今、こうして、こうしてお詫びに上がりました」

 言葉の最後の方は、涙がまじっていた。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 健中は通訳から告げられる豊吉の言葉を聞いて、しばらく何も言えなかった。あの時の鬼が、今目の前にいる。しかしよく見ると、自分たちと何の変わりもない人間の老人ではないか。その老人は、土に頭を突けたまま号泣を始めた。

 健中の頭に、過ぎた五十三年が浮かんでは消える。新しい妻、すなわち今の老妻と再婚するまでには時間がかかった。それほどまでに心の傷は深かった。今、目の前でうずくまっている老人を罵倒し、蹴り上げても十分な理由がある。だが、逆に健中の目にも涙があふれていた。そして大きく息を吸って、もう一度足元の背中を見下ろした。しばらくしてから、静かにその背中に手をかけた。

「お立ち下さい。このようにしないで下さい」

 ようやく豊吉は顔を上げた。

「私たちは、今はもう友人です。過去のことは、軍国主義者のせいです。あなたのそのお心で、私たちは友人になりました。今は友好の時代です。過去をしっかりと認めるならば、私たちは友人になれますよ」

 健中の足元の豊吉は、通訳が伝える健中の言葉を聞いて何度も何度も涙とともにうなずいていた。

 健中はそれから、テレビ局によって北京に招待された。足腰が立たないからという理由で固辞し続けていた健中も、とうとう断りきれなくなった。北京までは特急列車で約二時間だ。北京では中日友好青年交流大会というのが開かれ、そのゲストが王健中だった。ホテルの大広間に数々の円卓が並べられ、両国の若者でひしきめきあっている。健中のテーブルは一番前のひときわ大きなVIP用で、竹中豊吉も同じテーブルについていた。

 アトラクションの両国の踊りが始まり、交互に延々とそれらは続いた。

 みんな若いなと、健中は思った。もちろん自分にも、同じような年齢の時期があった。しかし、その頃は決して幸せな時代とは言えなかった。フィナーレは全員が前に出て、スクラムを組んでの「北国の春」と「大海呀、故郷」の大合唱だ。最後に、豊吉にマイクが渡された。

「もう、何も長々しい話しは致しません。我々がなすべきことは、過去に何があったか、何が行われたかという歴史を、後世に包み隠すことなく、また捻じ曲げることなく正しく伝えていくことです。私も日中友好運動の末席を汚していますが、日中友好とは、単に隣と隣の国が、お隣だから仲良くしましょうという次元ではないのです。また、古い付き合いだからということで、なあなあにしてしまってはいけないこともあるのです。日中友好運動には、どうしても乗り越えなければならない壁といいますか、課題があります。それは、過去の歴史の認識と清算ということです。悲しいかな、今の政府はその辺をどうもお茶を濁し、しかも真っ向から否定する馬鹿どももいます。だからこそ、我々民間の運動が重要になってくるのであります」

 万雷の拍手だった。その拍手の中で健中は、豊吉の話が通訳されてから、さっき見た若者たちに自分は何を伝えたらいいのだろうかと考えていた。



      おきて (鹿島龍男)


    人の心が優しければ

    怒らねばならぬことがある

    やさしいからこそ

    それだけは許してはならぬ掟がある


    愛しているからは理由にならぬ

    例え愛した人のためであるとしても

    一切の弁解が許されぬ

    人間には守らねばならぬ掟がある


    それは人が人でありたいからだ

    産ぶ声は優しさを求めていたから

    平和を求め人を招く声であった

    人は誕生したときから平和を求めていた


    その人間が

    群がって人間を犯した罪は

    平和な生活を夢見る娘を犯し

    ふるさとに生きる若者を突き射し

    首を撥ね

    穴に突き落とし

    アジアに

    日章旗を翻して

    萬歳を叫んだ罪は

    許すことができぬ


    花ざかりの季節に

    花と花が交換されて共に歩む季節に

    祭の広場で

    ふたつの国の若者たちが

    手を結びあって踊る季節に


    ぼくは拍手をおくりながら

    きみたちに告げたい

    許してはならない掟を犯した

    人間の歴史は

    あなたとは無縁ではないことを


         鹿島龍男・詩集『わたしの北京』より


鬼子兵クイツピン おわり)


 ※引用の詩「掟」は、作者である故・鹿島龍男氏の著作権継承者の御夫人の承諾のもと引用させていただきました。

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鬼子兵(クイツピン) John B. Rabitan @Rabitan

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