第5話

 前方に少しは町らしき集落が見えて来たのは、最初の駐屯地を出発してから十日あまりたった頃の早朝だった。

「あれが保定府だ。以前は河北省の省会があったところだ」

 分隊長が説明する。

「分隊長殿、省会とは何でありますか」

 ちょっと間の抜けた分隊員の質問に、大きく分隊長は振り返って言った。

「日本で言えば、県庁所在地ってとこだな」

「あれがですか? ずいぶん貧相な……」

 貧相でもその町は、国民党の第二集団軍がしっかりと固めている。それに気を取られていると、背後からは共産匪とも呼んでいる八路パールーがやってくる。あれほど犬猿の仲だった国民党と八路は、今や手を結んでいるのだ。

 豊吉たちの隊列は、第十四師団全体だと先頭から最後尾までが相当の長さだ。それが保定の町を前に、大きく右に迂回して進んだ。どうやら南側に入りこんで、敵の背後を突くらしい。本格的な戦闘が始まる気配があった。豊吉の所属する連隊は各小隊ごとに別れて、近辺の村の掃討に入る。他の連隊は直接保定府の敵軍攻撃に入ったらしく、町の方から銃声が聞こえてくる。

「どこに八路パールーが隠れているか分からんからな。我々が保定の敵正規軍と戦っている間に、八路に後ろを突かれたらかなわん」

 今度は小隊長が小隊全体に向かって怒鳴るように言った。


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 中華民国二十六(一九三七)年九月二十三日、午前九時。北方の保定の町の方から銃声が響き、黒煙が上がった。健中の村の人々もそれを見て大騒ぎになった。まずは戦うにしても様子を見るにしても、血と汗で築いた畑の下の地下穴へともぐり込んだ。どの家も豚や鶏など貴重な家畜をそのまま残してきている。それは心残りではあるが、今敵が来ても村は無人となっているはずだ。

 銃声がどんどん近くなっている。保定を守る中国軍も盛んに抵抗しているようだ。だが、それが押され気味であることは、近づく敵の砲声で分かる。今や歌のように敵の砲火を冒して進むべき時ではあるが、村人たちは穴の中で息を潜めていた。


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 豊吉が属する小隊も、トウモロコシ畑の中に身を寄せ合うように固まっている村落へと向かった。石造りの直方体の家ばかりが並ぶ。その家と家の間に塀があって、中が庭になっているようだ。

 しかし村は、すでに無人の村だった。

「気をつけろ。どこに地雷が仕掛けてあるか分からぬぞ。誰もいない部屋のドアを開けたら、上に爆弾が仕掛けてあるということもあるからな」

 分隊長の下知も半分聞き流して、兵たちは村の中へと入った。確かに誰もいない。しかし家の中へ入ってみると、そこは生活の道具が散乱しており、ついさっきまでは人がいた気配である。その時、

「第三分隊、集まれ!」

 の号令がかかった。村の外れの、トウモロコシ畑が始まるあたりだ。行ってみると、分隊長はトウモロコシ畑の方を指さした。

「あの畑の中の井戸が怪しい。どうも横穴が掘られているようだ。八路が隠れている可能性は充分にある。よし、村を焼け。やっこさん、そうすりゃ出てくる。いいか、焼く前に今晩の食糧を確保することを忘れるな」

 最後の命令は、どの家もたいてい鶏やアヒルを飼っており、豚もいたりするので比較的遂行がたやすかった。それから、苦力クーリーとして連れてきていた中国人の若者に、漢字を書いたり身振り手振りで、穴の中に八路軍兵士がいるなら差し出せという内容を言わせるように教え込んだ。


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 琳香がお腹をさすって少しうめいた。健中の母が慌てて抱き起こすように支える。

「しっかりしろよ。敵はすぐに行ってしまう。それまでの辛抱だ」

 健中もしきりに励ましたが、狭い穴の中に人がひしめき合って、自分自身すら身動きが取れない。

「畜生! 小日本シャオリーペンめ。どんなツラをしてるんだ。見てみたい。どんな鬼の様子なんだ」

 吐き捨てるように健中が言った時である。穴の入り口の方がどよめきたった。

「俺たちの村が燃えている!」

 悲鳴に近い叫びだった。すぐに何人かが飛び出したようだ。奥から老人の声が、

「出るな! 敵に居場所を教えるようなものじゃないか」

 と、怒鳴った。


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 果たして、穴の中から村人と思しき人数名が躍り出てきた。

「撃てーッ!」

 と、いう号令とともに、一斉に機関銃が発射された。穴から出て来た若い村人たちは、血しぶきを上げて倒れる。

「引きずり出せ!」

 さらに小隊長は怒号し、兵たちは穴に少し入って、入り口近くにいた人々を引っ張り出した。そして、例の苦力の若者に、教えた言葉を中国語で言わせた。


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「この中に八路軍兵士がいるなら、こちらに差し出せつうこった。差し出せば命の保証はすると言ってるだ」

 穴の外から叫んでいるこの土地訛りの中国語だ。だが、どうも様子がおかしいと思った健中は、

「見てくる」

 と、言って人を押しのけ、這うようにして穴の入り口の方へ行った。背も高く伸びたトウモロコシの茎の間から村の方を見ると、村の入り口で地下穴のある畑の方に向かって叫んでいるのは、みすぼらしい身なりの少年だった。その両手を、日本の軍服を着た兵がしっかりとつかんでいる。

 どうやら、よその村で捕虜となった者らしい。敵の犬となっている同胞に、さっと心の中に嫌悪感がわく。だが目をその捕虜から日本兵へと移した瞬間に、健中の背筋に寒いものが走り、すぐに全身が凍ったように血の気が引いていった。

 初めて見る日本軍の兵士だった。いや、兵士なら人間だ。しかし今の健中には、それが人間とはまったく違った生き物――すなわち鬼か妖怪変化にしか見えなかった。まさしく日本リーペン鬼子クイツだった。

 見ると、その向こうの村は確かにもうもうと黒煙を上げて燃えている。健中は息を呑んだ。その村の中から、村人たちにとって生活の糧ともいえる家畜を日本兵たちはどんどん運び出している。

「やめろ!」と健中は叫びたかった。だが、それよりも早く、日本兵は日本語でこちらに向かって何か怒鳴る。そして、両腕を抑えている捕虜をつつく、捕虜は仕方なく声を上げる。

「八路軍兵士、出てきなさい!」


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 まだ、穴の中から人々が出て来る様子はない。しかし。確実にそこに村人たちが潜んでいることは分かっている。

「畑に火をつけろ!」

 と、また小隊長の指示が下った。

 

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 突然、健中の視界の方から煙が立ち込めて何も見えなくなり、息もできないほどになった。敵はトウモロコシ畑に火をつけたようだ。煙は穴の中へも入ってくるので、中の人はたまったものではない。燻し出される形でひとりずつ這い出した。それを目ざとく見つけた日本兵はたちまち駆けつけてきて、穴から出た七十人余りの村人たちの周りを囲んだ。日本兵は十六人ばかりだが、手に銃剣を持っている。


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 豊吉は、穴から出て来た村人たちを分隊員たちと共に囲み、その村人たちを見ているうちに、大事な戦友をこいつらに殺されたんだと憎悪の念があらためて湧き上がってきた。


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 健中は両親と琳香のそばに寄って、互いに肩を寄せ合って縮こまっていた。

 日本兵が居丈高に何か叫ぶ。捕虜の通訳によると、「安心しろ。おまえたちを盗賊から守るために来たんだ」と言っているようだ。もちろん信じられる話ではない。村の人誰もが恐怖に脅え、体を震わせながら息を潜めていた。

 その時、

「八路軍は私ひとりだ。村人たちを助けてくれ」

 と、言って飛び出していったのは李芳だった。たちまち李芳は組み敷かれ、村人たちの前で殴られ、蹴られ、顔中が血だらけとなった。

「殺すなら早く殺せ。私を殺しても、共産党は必ず勝つ」

 殴られても叫び続けていた李芳だが、ひとりの日本兵の軍刀が陽光に光り、その首が胴から離れたのを健中はその目で見た。もはや、健中の全身は完全に膠着してしまった。李芳はああなってしまったら、もはや生まれ変わることもなく、永遠にその魂はこの世をさまようことになるはずだ。

 まだそんなことをぼんやり考える余裕だけはあったが、次の瞬間の出来事については、健中は咄嗟に何が起こったのか理解できなかった。


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 突然飛び出してきた娘が何か叫んで騒いでいたが、豊吉たちは娘の言葉が分からないだけに、自分たちは口汚くののしられていると感じたから殺した。そして憎悪は、ついに爆発した。

れ!」

 の、小隊長のひとことで、豊吉たちの銃が火を噴いた。


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 前にいた村人の何人かが倒れた。すると、突然隣りにいた父が額から血を吹いて、倒れた。母が悲鳴を上げる。その時やっと、日本兵のいる方で銃声が鳴っていること、銃口がこちらに向けられていることに気がついた。その間、ほんの二、三秒のことである。村人の多くが折り重なるように、次々と倒れていった。健中は無意識のうちに琳香を下にして地に伏せていた。弾薬の臭いが鼻を突く。

 銃声がやんだかと思うと、日本兵たちが走り寄ってきた。倒れているだけで死んでいないものを、銃剣で突き刺しはじめた。

 血しぶきが飛ぶ。叫び声が上がる。そのような阿鼻叫喚の中に自分がいるのが、現実とは思えなかった。健中の思考回路は、すべて停止してしまっていた。


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 倒れた村人たちを銃剣の先で突き刺していきながら、豊吉は若い娘が弾には当たっておらずにただ伏せているだけなのに気が付いた。銃剣を振りかざしたが、見ると妊娠しているようだ。

 その時豊吉の中で悪魔が目覚めた。妊娠しているからには、夫がいて結婚生活を送っていたのだろう。しかも、今日の朝までだ。それが幸せなものであったかそうでないかは、関係ない。とにかく、平凡な日常生活を送っていたはずだ。

 豊吉の中に嫉妬の炎が燃え上がった。自分たちは一枚の赤紙で無理やり自由を奪われて軍隊に入れられ、過酷な訓練と制裁を受け、上官の命令は絶対であると服従を強いられ、このような外地に送り込まれた。そして心身ともに限界に達するような劣悪な環境での行軍の末に、仲間の命が日々奪われていく。そんな自分たちに比し、この娘は今日の朝まで一般人としてのほほんと平穏無事に暮らしていたのだ。それが許せなかった。

 だから豊吉は銃剣を納めた。その代わり、その娘の腕を引いて、引きずっていこうとした。「こらあ、その娘をどうする!」と、分隊長をはじめ周りのものから咎められるかと思いきや、何と豊吉に手を貸す者もいた。皆、同じ思いのようだ。そのまま娘を、彼らは村の入り口の焼け残った煉瓦の壁の中に連れて行った。娘はただ震えて声も出せずにいる。


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 琳香が連れ去られようとした時、

「やめろ!」

 と、叫んで飛びついた健中に向かって、兵は何か怒鳴った。しかし、「パーカーヤールー」という発音が耳に残った以外は、何を言ったのかは全く分からなかった。考える間もなく、激痛が健中の頭に響いた。目の前に火花が散って、すぐに何も見えなくなる。健中の意識はなくなっていた。


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 豊吉はたちどころに娘の衣服を剥ぎ取った。手を貸した兵たちも、薄ら笑いを浮かべている。二人が娘の左右の足を持って大きく開き、恥部が丸見えになった。やっと娘は何か叫び声を上げ始めた。その両手をも押さえる。

「普通にるのは飽きたな」

 一人の兵が言い、もう一人がよしとばかり畑から焼け残ったトウモロコシを持ってきた。それを陰部に無理やり差し込んだ。娘の顔は苦痛に歪んで絶叫したが、そのまま兵はトウモロコシでピストン運動を続けた。たちまち陰部から、血が出始めた。

「おい、あそこが壊れちまう。やめろ」

 豊吉が叫んでトウモロコシをぬかせ、すでに押さえ切れなくなっているものをはじき出すようにズボンを脱いで、その大きくなったものを娘の陰部に突き刺した。

 果てた豊吉はあとの者にその行為を譲り、皆が欲望を果たし終えると、銃剣で娘の腹をゆっくりと割いた。そして胎児を取り出し、初めて見るものを好奇の目で眺めた後それを突き刺し、最後にすでにぐったりしていた娘の乳房の下を突いた。

 ここで後味の悪さを感じるどころか、大いに満足感を覚えていた豊吉だった。


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 気がついた時は、すべてが終わっていた。

 自分は生きていた。これだけは事実のようだ。まだ鬼子クイツ兵がいるのではないかという恐怖から、しばらくはそのままでうずくまっていたが、どうもその気配はなさそうなのでゆっくり起きだした。また頭に激痛が走る。今度は内部から込みあがってくる痛みだ。手を当てると、手に血がべっとりとついた。

 周りを見ると、死体の山だった。まだ息があってうめいている人もいるが、今の健中にはどうするすべもない。自分の体を動かすことが精一杯だった。父と母は折り重なるように倒れていた。

「父ちゃん、母ちゃん」

 呼んでも返事はなく、体はすでに硬かった。

 気がかりは琳香だ。健中は琳香が引きずられて行った方角へと、這うように進んだ。

 トウモロコシ畑は、黒い灰の土と化していた。村の方へ行くと、家々の石造りの構造はそのままとしても、どの家も部屋は完全に焼かれていた。村人たちの心の中心であった廟さえも、今は灰燼に帰している。すべてが「この世の地獄」という言葉に尽きた。村の一番端の、まだ建築中で煉瓦が積み上げられた壁があるだけの所に入った健中は、そのまますべての動きを止めた。

 顔は確かに琳香である。しかし、苦痛に歪んだまま、すべての動きを止めていた。首から下はまるで泥人形かと思われるほど、血でべっとりとしていた。衣服ははがされ、そしてその腹部は無残にも切り裂かれていた。内臓も胎児もそこから三メートル周囲の範囲に散乱し、地面までがどす黒く染まっていた。

 健中はしばらく目を見開いたまま、頭の中が白くなっていた。涙が出てきたのはかなりたってからだった。

 健中は泣いた。両手のこぶしで大地を激しく打ち、泣いた。今の彼にはそうするしか、ほかになすべきすべがなかった。だから、とにかく彼は泣いた。それからは、自分の体の痛みも忘れて琳香の倒れている所まで這って行った。そして自分も血みどろになりながら、琳香の頭を抱きしめた。泣き声はほとんど唸り声になっている。

「琳香……、恐かったろう、痛かったろう……。かわいそうに……、琳香」

 自分たちが、いったい何をしたというのか。何の報いなのか……どう考えてもわからない。だからどうしたらいいか分からないまま、健中は声の限り泣いた。

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