第4話

 行けど進めどいつまでたっても、トウモロコシの畑はなくなりそうもなかった。もう三日以上歩きっぱなしだ。足が重い。体力的に限界だ。そうなると頭もくらくらしてくる。単調な風景にも気が滅入る。発狂寸前の心とともに豊吉は、いや、一緒に列を成している誰しもがただひたすら歩いていた。いったい自分たちはどこへ向かっているのか全く分からないが、どうも南へと向かっているらしいことだけは感じていた。

 閉口したのは体中が痒いことである。三日間というもの、行水さえしていない。褌すら履きっぱなしだ。蒸れて股間が痒いばかりでなく、痒みは全身に広がっていた。どうやらしらみが湧いているらしい。軍帽の下の頭も、痒くてたまらない。もぞもぞと掻きながらの行軍であったが、小休止となると急に服を脱いでぱたぱたはたく人も多数いたところを見ると、虱にやられているのは豊吉だけではなさそうだった。

 そんな時に間近に爆撃音が響き、「小休止、やめ!」の号令とともに、銃剣を構えて伏せた上体で戦闘体制になることもある。

 とにかく行軍中は喉が渇く。だから小休止の時にそばに池か川があると、見境なく水をがぶ飲みするものも多かった。そのような者たちは、あとで決まって腹をこわした。だからと言って行軍中に寝込むことは許されない。皆、おなかを押さえてふらふら歩き、油汗を流していた。腹を下しても、止まって用を足すこともできない。まさしく地獄の苦しみであった。時には、軍の歩みと共にずっと異臭がついてくることもあった。粗相をする者もかなりいたということだ。大陸の水は、たとえ井戸の水でも煮沸しなければ飲める代物ではなく、飲めば必ず腹をこわしたものだ。

 そんな中にあっても、ほんの少しだけのくつろぎの時は食事であった。だからといって、のんびりと楽しむことなどできない。ここでは食事も生命をつなぎとめるための、最低限必要な営みであった。しかも食糧は、背負い袋に詰まっているとはいえ限界がある。飯盒で炊く米も少なくなっていく。幸いトウモロコシだけは取り放題だが、いつもいつもでは飽きてしまう。

 そこで小さな村があると「現地調達」の命が出て、その村で食料を調達することになるが、早い話が略奪である。この辺の農民にとって鶏や卵はよほど貴重なものらしい。堂々と民家の庭の鶏を持ち去ろうとすると、農民が泣いて手を合わせてすがり、持ち去らないようにと懇願してくる。

 もっとも、言葉が何を言っているか分からないだけに、豊吉が調達係りになった時もさして気がとがめることもなかった。彼らが泣き叫べば泣き叫ぶほど、反感を持ってしまう。

「『チャンコロ』どもは本当にうるさい連中だな。我々皇軍兵士は、おまえらの擁護のためにはるばる海を越えて来てやったんだぞ。この、馬鹿野郎!」

 そう怒鳴り返す兵卒もいたが、今度は彼らに言葉が伝わらない。所詮同じ様子ですがり付いてくるので、しまいには思い切り足蹴をくらわせるのが常であった。こうして村があるごとに、ご馳走にありつけた。

「百姓といっても油断するな。このあたりでは八路が百姓に化けて、我々を狙っていることもよくあるぞ」

 との、分隊長の下知もあった。その言葉は事実で、ほかにも村が無人なので好きなだけ奪い尽くしていると、突然まるで地から湧いたかとしか思われないような八路軍兵士たちが、日本兵が充満する村を逆に包囲して銃撃を浴びせてきたこともあった。それで豊吉の何人かの仲間が命を落とした。

 だが、拾い物をする時も多い。驢馬は物資輸送のための貴重な足となる。また、中国人の子供を苦力として連れて行くこともあった。

「分隊長殿、この村には酒が多いですな」

 と、池内という一兵卒が、やけにきれいな壷に入った液体を分隊長のところに持ってきたこともある。たまたま豊吉もそのそばにいた。強い酒の匂いがする。

「おお、チャン酒じゃないか。よし、今日はみんな飲め」

 分隊長のお許しが出て、十五人の分隊員は舌をなめた。分隊長もカネの椀でぐっと飲み干した。その時、荷物持ちに連れていた苦力の少年がびっくりしたような顔をして立ち上がり、酒の入った壷を指差して何か言った。

「何だ何だ、何言ってるんだ。ガキは酒飲んじゃいかん」

 一人がそう言って、皆でどっと笑った。だが少年は真剣だ。そのうち腰を突き出して小便をする真似をし、しきりに壷を指差す。ハッと、分隊長が、何かに気付いたようだ。

「おい、池内。チャン酒は最初からこの壷に入っていたのか?」

「いえ、瓶に入っておりましたが、あまりにきれいな壷がありましたので自分が入れました」

「おい、これは小便する壷だぞ」

 分隊長のひとことに、皆は一斉に口の中の酒を吐き出した。苦力がからからと笑い出したので、一人の兵が思い切りそれを殴った。

 考えてみれば確かに、この辺りの家は屋内に便所はなく、庭の片隅に煉瓦の壁で囲った屋根のない所が便所となっている。だが冬の夜や雨天の時など不便なので、屋内で用を足せるように壷が置いてあるようだ。


 そんなことのあったちょうど翌日だった。

 行軍の行く手に川が横たわった。全軍停止の命が出た。

 川向こうに敵の陣がある。しかも八路のようなゲリラ兵ではなく正規の中国軍、すなわち蔣介石率いる国民党の第二集団軍であった。これはまず兵器が違う。しかも軍隊としての統率も取れていた。そのような敵を相手に、行軍開始以来の本格的な戦闘となった。

 とにかく雨のように弾丸が降ってくる。日本側の兵たちはは姿勢を低くして腰まで水に浸かりながら川を渡り、あとは這うようにして敵陣へと近づいた。無論、その中に豊吉もいた。隣りの池内が手榴弾を投げる。しかし、敵に届くことなくほど近いところで炸裂する。

 入隊からまだ一年もたっておらず、戦争が始まってからもまだ二カ月足らずだ。手榴弾もまともに投げられないものも多かった。仲間がまた叫び声とともに倒れる。それを構っていては自分もやられる。せいぜい名前を呼ぶのが精一杯だ。

 池内にも弾が当たった。「かあちゃ~ん」と叫んで、彼は息絶えた。戦争で弾に当たったら、「天皇陛下、万歳」と叫んでから死ぬものだという先入知識は豊吉にもあった。だが実際の戦場に来てみると、たとえ弾が当たっても、そのように叫ぶものは一人もいなかった。自分に弾が当たったという咄嗟の状況にその余裕がある筈もなく、たとえ叫び声を上げたとしても「うわッ! やられた!」と言うのがせいぜいだったし、多かったのはやはり「かあちゃ~ん」であった。

 また、腕が爆風でちぎり飛ばされ、血みどろになりながら「誰か、殺してくれえ!」と叫んでいる者もいた。もちろん負傷したからとて、すぐに手当てが受けられるわけではない。衛生兵が駆けつけた時は、すでに事切れている者も多かった。

 夕方には戦闘も終わり、中国軍を壊滅することはできなかったが、それでも退却させただけ勝利であった。

 だがその日の夕食には、これまで同じ飯盒の飯を食った仲間の何人かの姿はなかった。彼らは埋葬されることもなく、野ざらしとなっている。豊吉の中でしみじみと、怒りと憎しみがわいてきた。できれば自分一人で、敵を皆殺しにしてやりたいと思った。

 翌日はさっそく村の掃討である。どこに敗残兵が潜んでいるか分からないから、慎重に一部屋ずつ改めていく。誰もいないと分かったら火を付ける。焼き払ってしまえば、その村が敵の隠れ家となることもない。ひとつの家に入った。中に人の気配がある。何と老婆がいて、ズボンを下ろして自分の恥部を見せ、これで助けてくれと言わんばかりに何か叫びながら拝んできた。

「うるせえ、ばばあなんか、気持ち悪くて見てられるか」

 豊吉と一緒に入った内山という兵が、そう叫んで老婆を銃剣で突き刺した。見ると部屋の中にわらが詰まれている。ふと気になった豊吉は、その藁を銃剣の尻でかき分けてみた。果たして妙齢の、実に美しい娘が出て来た。脅えきって、縮こまって震えている。それでも豊吉は、この女も憎い敵と同じ民族であることを思った。相手が恐がっていればいるほど、憎しみは強くなる。

 豊吉が引きずり出すまでもなく、他の三人の兵士によって女は部屋の真ん中に据えられた。お下げ髪がよく似合う娘で、年は十六、七のようだ。豊吉を含めた四人は、その娘を囲んで立った。誰からともなく、

「やっちまえ」

 の声が上がった。強姦は禁止されていたはずではあるが、とっくに空文化していた。残虐なことはするな、強姦はするな、略奪するな、放火はするなという出陣の際の訓示は上官の命令であって、そうである以上それは天皇陛下の命令であるはずだったが、今は反古になっている。上官とて、あまり行き過ぎるなよという牽制の意味で言ったにすぎないことを、兵たちはよく知っていたからだ。

 一人の兵がズボンを下ろす。豊吉と他の二人は娘を押さえ、脱がせにかかる。足を持っていた豊吉は、もろに娘の恥部を間近で見ることになった。後の二人も澄ませ、豊吉の番になっても、彼には何のためらいもなかった。娘はもう涙も枯れ、叫ぶのにも疲れたように無表情となっていた。

 事が終わってから、豊吉自身が娘の乳房の下を刺した。血しぶきが上がり、娘はすぐに息絶えた。

 四人は顔を見あわせ、共犯めいた苦笑をかわした。

 水戸の農村で暮らしていた頃の豊吉は、このようなことができる人ではなかった。他の三人とてそうであろう。今は、状況が全く尋常ではない。肉体的にも精神的にも極限に置かれ、完全に感覚が麻痺していた。しかもそれが、集団でである。一人一人は優しい人でも、集団となれば鬼と化す。軍隊という異常な世界に入ってから、豊吉はどんどん人間性を失っていったのである。軍隊で自分が人間として扱われていない以上、自分も敵を人間として扱う必要はないとさえ思った。「虫一匹殺せない優しい子」の豊吉は、もはやどこにもいなかった。

 事実、文化程度が低くて訳の分からない言葉をがなりたててうるさく騒ぐ人々は、本当に動物であるかのような感覚になってしまう。人間としての尊厳、魂の重さなど、どこかへいってしまっていた。自分が失っていたからこそ、相手にもそれを見いだせなくなっていたのだ。

 そのようなすさんだ心情は、このようなぎりぎりの状況に置かれた人でない限り、絶対に理解できないはずだ。そして、命までもが本当に毫毛より軽く思えてきた。なぜなら、昨日まで、ついさっきまで笑って歩いていた人が、次の瞬間には死体となっているのである。


 翌日からまた、行軍が続く。そのうち鉄道の線路を越えた。そしてまたひとつの川に出くわした辺りで、もう一度戦闘が繰り広げられた。そのあと、その付近に点在する村という村はほとんど焼き払われた。

 ある時、小隊全体で炊事の時に飯盒をたく薪がなく、村を物色したが、この辺りの家はほとんど石造りなので壊して薪にすることもできなかった。そこで村の中央の祠が壊され、祭られていた道教の神像が薪となったこともあった。

 その時多数の村人たちが、遠巻きにその様子を見て無言で抗議をしているようであったが、豊吉は心の中で、「何か文句あるか」とつぶやいていた。

 さらに次の日は、三時間にわたってひとつの村を焼き尽くし、家畜を奪い、村人を河原に集めて銃剣で突きまくって殺した。この時に殺された村人たちは老いも若きも男も女も含めて、百二十人余りに達した。


 さらに師団は前進した。その頃雨が降りだして、ぬかるみの中の雨中行軍となった。戦争で死んだ者も多数はいたが、もっとやるせなかったのは、この頃から歩いている途中に突然倒れて苦しみだす者が増えてきたことだった。中には即死状態で死ぬ者もいる。

 どうも隊内でコレラが流行りだしたらしい。ところが、苦しくてもだえて歩けなくなった者を介抱していては行軍にも作戦にも差し障りが生ずるし、病気が伝染病であるだけに連れていったらさらに蔓延する恐れもある。

 そこで上からの命令で、そのような者はその場で銃殺することになった。これもまた、天皇陛下の御命令ということになる。つまり、コレラになったものは、味方の手で殺されて異国の土となるのである。

 だが、息が苦しく肩の荷重く、足は棒のようなりながらも歩かねばならないのが、死ねなかった者たちであった。体中が痒い。髭も伸び放題である。背中の感触は、すでになくなっていた。この地獄の行軍の中で、生きている者たちは、コレラにかかってコロリと死ねたらどんなに楽だろうと、死んだ者をうらやんだりまでした。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 健中の村にも、北平の日本軍がついに南下を始めたということや、彖州では中日両軍の会戦が行われたが、勢いに乗った日本軍は一般の民衆の村を焼き払い、虐殺を繰り返し、大切な家畜まで殺され尽くしたということなどが伝わってくる。

 彖州といえば、もうすぐ目と鼻の先だ。また、それとは別に、京漢線の鉄道沿いに南下している一軍もあるらしいという情報も入った。それら情報は、李芳や農民に化けている八路軍兵士がすべて村人たちに伝える。

 それでも、だからといって村から逃げようという人はいなかった。そして、健中の母も含めて、多くの村人たちは村の中心にある祠(廟)に毎日祈りを捧げたりしていた。

 そんな時、健中にとって唯一の希望は、これから生まれてくるはずのわが子であった。今日も眠れないまま、ベッドに横になって琳香のかなり隆起した腹をなでる。

「生まれてくるこの子が大きくなった頃には、戦争なんかなくなっているといいな」

「きっとよ。こんな思い、私たちだけでたくさんだわ」

「必ずなるさ。そのために侵略者たちと戦うんだ。この子のために、平和な祖国を築くために。そして君は、丈夫な子供を産んでくれ」

 にこりと笑って、琳香がうなずいたのが暗い部屋の中ででも分かった。

「それにしても、日本軍は私たちの国に来て、いったい何がしたいのかしら。何がほしいっていうの。どうして同じ人間なのに、殺し合わなければならないの」

「やつらは人間じゃない。鬼だ。人間だなどと考えない方がいい。何を考えて人の国を侵略するのかは分からないけど、我々はここで平和に暮してるんだ。それを犯す権利は誰にもないはずなんだがな」

 健中は一つため息を吐いた。

「恐い」

 と、ぽつんと琳香はつぶやいた。

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