尾八原充治VSジュージ・ヨルムンガンド シャーク・オン・グレイス

武州人也

ムカデVSトカゲ

「あなたに恨みはありませんが……これも組織のため。死んでもらいます」


 声変わり前の甲高いボーイソプラノが、冷たい風の吹き寄せる夜の埠頭に響いた。山刀マチェットを構える少年が、ヘビのように無感動な視線を向けながら歩いてくる。目の前の少年は年こそ若く、未成年なのは間違いないであろうが、恐らく本職の殺し屋ヒットマンだ。まともに戦えば勝ち目はない……充治の額は冷や汗でぬるぬると濡れていた。


 ことの発端は、密漁を生業とする漁業ヤクザ同士の抗争であった。それが当事者同士の小競り合いで終わればよかったものの、そうはならなかった。

 片方は「青蜥蜴」の子飼いであり、もう片方には「大蜈蚣オオムカデ」がバックについていた。まるで大国と同盟を結んだ小国家同士の戦争のように、双方の漁業ヤクザはそれぞれ裏社会の一大組織である「青蜥蜴」「大蜈蚣」に助けを求めたのだ。そのことが、事態を大きくしてしまった。

 先手を打ったのは「大蜈蚣」であった。野心的なこの組織は手練れの鉄砲玉を送り込んで「青蜥蜴」の幹部二名を血祭りにあげた。「青蜥蜴」の方もやられてばかりではない。「大蜈蚣」の幹部二名が、駿河湾の海底に沈められた。そこから、大組織同士の血で血を洗う報復合戦が始まってしまったのだ。

 そうして「青蜥蜴対大蜈蚣」の抗争が激化する中で、「青蜥蜴」幹部の充治もまた、「大蜈蚣」の暗殺者に追われる羽目になった。充治を追ってきた三名の鉄砲玉の内二名はイリエワニの餌にしてやったが、残る一人が何とも手強かった。イリエワニを返り討ちにした一人は今こうして、埠頭で充治を追い詰めている。

 この港には、仲間の船が充治を迎えにくる手はずになっている。しかしこのままでは船が着く前に切り殺されてしまうだろう。


 それにしても……艶のある黒髪を伸ばし、後頭部で結わえた目の前の少年は、ぞくりとしてしまうほどに美しかった。充治自身も容姿を褒められた経験は少なくないのだが、目の前の少年も、充治と肩を並べられる美少年だ。

「大蜈蚣」のボスは筋金入りの男色家で、身寄りのない少年の中から自らのお目にかなう者を集めては戦闘術を仕込み、組織のための戦士に仕立て上げているという。だから、この暗殺者も恐らくあそこのボスの趣味なのだろう。

 このような危機的な状況に置かれながら心中で相手の容姿を褒める自分を、充治は甚だ滑稽に思った。


「ここまでボクを追い詰めるとは大したものだ。名を聞かせてはもらえないだろうか」

「まずは自分の名を名乗るのが礼儀では?」

「どうせキミはボクの名前なんてとっくに知っているだろうから」

「まぁ、その通りですね」


 さざなみの音に混じって、つかつかと靴の音が響く。暗殺者の少年が、少しずつ充治に近づいているのだ。それに合わせて、充治は顔を引きつらせながら後退してゆく。


「ジュージ。ジュージ・ヨルムンガンド。今からあなたを討つ者の名前です」


 少年――ジュージは無感動な眼差しを充治に向けながら名乗った。電灯に照らされたジュージの白い肌が妖しく光っている。いよいよマチェットの切っ先が届こうという所まで二人の距離が縮まった、その時であった。


 ざばぁ、という音を伴いながら、海面からしぶきが立った。そこから何かが飛び出してきた。


 ――カマストガリザメだ!


 海面からジャンプした全長二メートルほどのカマストガリザメは、大口を開け、そのままジュージの頭上に振ってきた。

 このカマストガリザメ、実は充治があらかじめこの港に待機させていた、いわば伏兵であった。このサメには調教用のチップが脳に埋め込まれており、充治はこっそりポケットのリモコンのボタンを押してサメの脳内に攻撃の指令を送り込んでいたのである。猛獣をけしかけて戦わせるのは、戦闘に自信がない充治の常套手段だ。

 ジュージはすぐさま反応した。マチェットを構え、降ってくるカマストガリザメの口を裂くようにして二枚おろしにしてしまった。鮮血が飛び散り、ジュージの秀麗な顔が血に濡れる。

 だが、サメの襲撃はこれだけではなかった。次々と海面からしぶきが立ち、カマストガリザメが空中に飛び上がった。

 カマストガリザメはメジロザメ科メジロザメ属のサメである。彼らの特徴としては、年齢や性別ごとに群れを作るというのがある。彼らはイワシの群れを相手にする時、複数匹で別々の方向から突っ込むことでイワシの逃げ場をなくすという、シャチも顔負けの集団戦法を使うことが知られている種だ。充治がカマストガリザメを伏兵に選んだのは、そうした集団戦の巧みさを買ってのことであった。


 海面から飛び出したカマストガリザメは、ざっくり見積もって十匹以上いた。ジュージはマチェットを振るい、一匹を二枚おろしにしたが、その隙に二匹がすぐ後方から降ってきた。迎撃は間に合わない……そう判断したジュージは、素早く飛びのいてサメを回避した。

 だが、回避した先にも、サメは降ってきていた。タイミングを合わせて飛び出すことで逃げ場を埋めてしまおうという算段なのだろう。全く賢いサメである。

 ジュージはサメの真下で待ち構えるように、マチェットの切っ先を上に向けた。マチェットは切っ先が尖っておらず、本来は刺突に向かない短兵器である。だが位置エネルギーを利用して敵を串刺しにするには十分だ。

 ぐちゃり、という嫌な音がして、ジュージの体に鮮血が降ってきた。マチェットの刃はサメの口内を抉り、肉を引き裂いていた。

 他のサメたちは、波止場の地面に着地していた。彼らは胸びれを使って地を這い、再び海中に戻っていった。


「サメとは……あのお方を思い出しますね」


 ジュージの脳裏に浮かんでいたのは、自身を拾い上げた「大蜈蚣」のボス“ファーザー・ハガチ”であった。如何にもその筋の者といった厳めしい顔つきをしたファーザーは、私室に巨大なサメ水槽をこしらえている。寝床を共にした後、度々ファーザーはベッドに腰かけてサメ水槽を眺めていたものだ。

 なぜだか、自分はサメに縁がある……ジュージはマチェットをサメから引き抜きながら自嘲した。


***


 夜の埠頭を、充治は走っていた。おかっぱ頭の髪を揺らしながら、その細い脚を必死に動かしている。とにかく、カマストガリザメ軍団を戦わせている間に距離を取らなければならない。時間さえ稼げば迎えに来た組織の船に乗り込むことができる。

 充治の生きた百二十年の中で、ここまで生命の危険を感じたことはなかった。父の仕事を引き継ぎ、不老長寿の薬を完成させたのは、確か十二の頃であったか……充治は薬の服用によってその頃から殆ど老いておらず、美少年と称えられた要望を変わらず保っている。

 けれども、充治は死そのものを克服したわけではない。刀で切り裂かれれば死ぬし、銃で撃たれてもやはり死ぬ。そうした物理的な暴力による死は免れようがない。

 これまで充治は生化学分野で「青蜥蜴」に貢献しながら、組織の庇護を受けてきた。そうして今まで命脈を保ち、組織の中でもひとかどの地位を築いてきたのであるが、結局そのことが今、自分の命を危うくしている。

 「大蜈蚣」……映画配給会社やフカヒレの輸入業者を装っているが、それらはかりそめの姿であり、世間に対する隠れ蓑に過ぎない。その実態は強力な暗殺部隊を持ち、裏社会で恐れられる殺し屋組織である。金次第でテロや要人暗殺など何でもこなす彼らは、裏社会きっての武闘派としてその方面では恐れられている。充治も存在そのものは知っていたし、同じ裏社会の者として警戒はしていたが、よもや全面抗争に発展することになるとは思わなかった。


 コンテナの影に身を隠した充治は、震えていた。後は、時間との戦いだ。自分が船で港を去るのが先か、それともカマストガリザメ軍団の攻撃を潜り抜けた美少年暗殺者が自分の首を刈り取るのが先か……噴き出した汗が夜風に冷やされ、充治は身震いした。

 ふと顔を上げると、その視線の先に光が見えた。近づいてくる白いものを見た充治の顔は一転、晴れやかなものとなった。


 ――船だ!


 組織の船が、港にやってきたのだ。


***


「これで七匹目……」


 血に濡れたマチェットをサメの体から引き抜きながら、ジュージは独りごちた。

 このままサメを無視してターゲットを追おうにも、海中からのサメの襲撃はひっきりなしに続いていて、なかなか止む気配がない。サメの群れの規模が如何ほどなのかはっきりしたところは分からないが、かなり多くのサメが自分を狙っていると思われた。

 降ってきたサメをマチェットで切り裂くジュージ。しかし、別のサメが腹に追突してきて、大きく後方にのけ反ってしまった。


「しまっ……!」


 追突されたはずみで、マチェットを手放してしまった。ファーザーから直々に賜った愛用の武器だ。だが、地面に落ちたマチェットを取り戻そうにも、サメの襲撃が激しすぎて厳しい。

 何か、代わりになる武器はないか……ジュージは辺りを見渡すと、古びた木造家屋の軒下に、無造作に置かれたチェーンソーが目に入った。

 チェーンソーを手に取ったジュージは、スターターロープを引っ張って回転刃を始動させ、迫りくるサメに向かってぶんぶんと遮二無二振るった。最初は不慣れな得物ゆえに、扱いには難渋した。しかしチェーンソーの重量に慣れてみると、マチェットよりも容易にサメの肉を切り裂けることで寧ろ扱いやすい武器とさえ思えた。

 サメを切り裂く。切って切って、切りまくる。カマストガリザメは一匹、また一匹と、うなるチェーンソーの刃に切り裂かれていった。そして気づいた時には、もう海面から飛び出すサメはいなくなっていた。


「はぁ……はぁ……」


 チェーンソーを地面に置いたジュージは、額の汗を袖で拭った。早く充治を追わねば逃げられる……そう思って、先ほど落としたマチェットのところまで歩き、愛用の得物を拾った。

 その時であった。今までにない大きな水しぶきが、ジュージのすぐ側に立った。

 見ると、そこには先ほどのサメよりもずっと大きな、それこそ三倍はありそうな巨躯のサメが海中から顔を出していた。

 このサメは充治が開発したホルモン剤を投与されて肥育されたカマストガリザメであった。一般的なカマストガリザメの全長は成体で二メートルほどと、メジロザメ属としては平均的な大きさである。しかし、このカマストガリザメは何と全長七メートルという、この種としては信じられない大きさであった。

 海面から飛び出した大きな口が、ジュージに迫ってきた。ジュージは咄嗟に飛びのき、サメの噛みつきを回避した。

 だが、サメの方も諦めていない。サメは陸地に身を乗り出して、再びジュージに噛みつこうとしてきた。

 このサメは大きすぎる。マチェット一本で立ち向かうには、明らかに過ぎた相手だ。かといってチェーンソーを拾って使おうにも、あれは重たすぎる上にリーチも長くない。

 ジュージは懐に手を入れ、内ポケットの中に入っている物を掴んだ。この中には、ファーザー本人から手渡された手榴弾が入っている。ターゲットを船ごと爆殺するために持たされていた武器であるが、あの巨大なサメを倒すには、これを使うしかないだろう。

 すぐ目の前に迫る巨大ザメは、もはやサメというよりはシャチのような威容であった。大きな口からは鋭い歯がのぞいており、噛まれれば人間の体などあっという間にずたずたにしてしまうだろう。ジュージは恐るべき海のモンスターを前にして、手榴弾を固く握った。

 噛みつきが来る。避ける。再び噛みつきが来る。避けながら、手榴弾の安全ピンを抜く。再度噛みつこうと、サメが大口を開ける。それを待っていたとばかりに、ジュージは口の中目掛けて手榴弾を放り込んだ。

 ジュージはすかさず地面に伏せ、耳を手で塞いだ。次の瞬間、体全体を震わせるような、けたたましい爆音が鳴り響いた。

 起き上がって見てみると、はたしてサメの頭は吹き飛んで跡形もなくなっており、残った体の後ろ半分がまさに海中に没していくところであった。


***


 白いクルーザーボートが、港に接岸した。船に乗っている黒づくめの服装をした男たちは、胸に蜥蜴をかたどったメタルチャームを身に着けている。これは青蜥蜴に所属していることを表す印だ。

 充治は足早にボートに乗り込んだ。


「早く出せ。急がないと奴が来る」


 充治は操縦席を覗き込み、中にいる組織の者をせかした。充治の頭の中は、あの美少年暗殺者に対する恐怖でいっぱいであった。とにかく早く逃げなければという強迫観念が、汗となって充治の体から流れ出ている。


「へぇ、奴、とはもしかして私のことですか?」


 声が聞こえるが早いか、ぎゃっ、という悲鳴が充治の背後から上がった。恐る恐る振り向くと、充治を出迎えた黒服の男二人の首が切り裂かれ、鮮血を噴き出していた。


「残念でしたね。あともう少しで逃げおおせるとことだったのに」


 月明かりを背にして立っていたのは、充治が最も恐れている者であった。マチェットの刃から血を滴らせ、自らも血で真っ赤に濡れた少年が、充治に向かって歩いてくる。


 ――百二十年生きてきた自分が、たかが十代そこそこの若造に殺されるというのか……


 暗殺者――ジュージの手に握られたマチェットが、大きく真上に振るわれた。

 刃が振り下ろされる直前、充治はジュージと目が合った。血に濡れた美少年の双眸は、何の感動もたたえぬ冷徹な眼差しであった。どんな手を使ってでも生き延びようとする、美しきけだものの姿がそこにはあった。


***


「はぁ……はぁ……」


 ベッドから跳ね起きた充治は、ぐっしょりと汗で濡れていた。時計を見ると、まだ午前二時四十分。丑三つ時だ。先ほどまで見ていた恐ろしい夢の記憶は、まだ目玉の裏に鮮やかに焼きついている。

 考えてみれば、荒唐無稽極まる夢であった。「大蜈蚣」という組織については知っているが、差し当たって「青蜥蜴」と衝突しているという話は上がってきていない。それに、いくら充治でも全長七メートルのカマストガリザメなど飼ってはいない。わざわざカマストガリザメのような大したサイズではないサメを七メートルに肥育するよりは、イタチザメなどの元から大きなサメを大きくする方が早いからだ。


 それにつけても気になるのは、夢に出てきた美少年暗殺者、ジュージ・ヨルムンガンドである。

 夢に出てきた暗殺者ジュージのことを、自分と無関係の他人とは思えないでいた。夢の中で、なぜだかジュージの心情が手に取るように把握できたのだ。まるで、自分の魂が充治とジュージのどちらにも宿っているかのような視点で、自分は夢を見ていたのだ。

 冷静に考えてみれば、ジュージ・ヨルムンガンドという存在は充治自身の深層心理が生み出した架空の存在なのだろう。あれが実在しているとはとうてい思えないし、百二十年の人生の中であのような者と邂逅した記憶もない……はずなのだが、どうにも、この世界のどこかに、あの冷徹極まる獣が潜んでいるように思えてならなかった。


 その日の午前十一時、充治は危険生物専門の動物園に単身足を運んでいた。妻や息子が存命であった頃には、よく一緒に訪れたものであった。しかし妻は不老長寿の薬を拒んで八十二でこの世を去り、四人の子どももまた薬を服用することなく全員鬼籍に入っている。

 思えば、ジュージの記憶に残る妻の姿には少女から老女まで様々あるが、妻の目に映る充治は、いつでもずっと少年時代の姿のままであった。年老いた妻と自分が歩く姿は、よく祖母と孫のようだと言われたものだ。妻が生きていたのはもう四十年前の話であるのに、彼女との思い出は今でも昨日のことのように思い出すことができる。

 この動物園で飼われている生き物は、どれもひとたび暴れ出せば人命を危険に晒しかねないものであった。世界最大級のトカゲである全長五メートルのヒトクイゲコトカゲ、二メートルを超えるウスリーヒグマ、全長四メートルの単弓類ディメトロドンなど、どれも他ではそうそう見られない珍獣ばかりだ。隣には水族館が併設されており、そこでは五メートルの大型硬骨魚シファクティヌスや、アリゲーターガーなどを含むガー科の新種で、かつ全長四メートルの個体が発見されたクロコダイルガーなどが最近新たに展示されるようになった。


 ふと、充治はディメトロドンの檻の前に立つ一組の男女を見つけた。長い髪を後頭部で結わえた青年の隣で、カチューシャをつけた少女がディメトロドンを指差してくすくすと笑っている。


「――っ!」


 その青年の横顔を見た時、充治は絶句した。青年の横顔が、夢で見た暗殺者――ジュージ・ヨルムンガンドと瓜二つであったからだ。夢の中のジュージよりも背は高く、容貌も大人びていて、血に濡れてもいなかったが、それでも同一人物に違いないと思えるほどに、両者はそっくりであった。

 だとすれば……隣の少女は何者だろう。「大蜈蚣」のボスの娘か何かであろうか。いや、それはありえない。「大蜈蚣」のボスは男色一筋で有名だ。当然、妻も子もない。

 そんなことをあれやこれやと考えていた充治の目に、青年の笑顔が映った。この青年は、優し気な笑貌を隣の少女に向けていた。

 百二十年生きてきた充治は、人の目を見ただけで何となくその為人ひととなりを察することができる。あれは、夢で見た暗殺者の、冷徹な獣のような眼差しとは全く異なっていた。血に飢え乾いた野獣ではなく、何か大事なものを守ろうとする騎士の目をしていた。何らかの烈心を内に秘めているのは間違いないだろうが、その中には何かしらの温かみのようなものがこもっている。

 夢の中のジュージ・ヨルムンガンドと、あの青年……同じようでいて、やはり違う。けれどもやはり同一の存在なのかも知れない……充治の思考は答えを出せぬまま堂々巡りしていた。


 やがて、少女と青年は去っていった。ディメトロドンの檻の前で、充治はじっと二人の背を見つめていた。








 その数十分後に充治は、先ほど見た青年が関西弁を話す声の大きい神父と口論をしている現場に遭遇してしまうのだが、それはまた別のお話……

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