垣根を蹴る

鹿島 茜

垣根を蹴る

 仲のいい男友達だった。もう何年も。どこで出会ったのだっけ。多分、SNS。もうそんなことも気にしなくなるほど、普通で、リアルで、理解しあえる男友達だった。お互いにバツイチで、中年で、趣味も同じ。ああ、いい友達に巡りあえた。ずっとそう思っていた。


 つきあっていた男に、ふられた。この人なら再婚してもいいかな、一切の再婚願望がない私がそう感じるほどに、心を傾けていた男だった。気が合う。馬が合う。身体の相性も合う。好き嫌いも合う。何より別居婚を奨励している。もうこいつしかいないんじゃないかと思っていた。めったには出会えない相手だった。なのに、ふいとそっぽを向かれてしまった。きっと他の女ができたのだと思う。優しい人だから真相は語らなかったが、私が他の男をつまみ食いするのと同じ程度には、彼も遊び人だった。再婚しなくてよかったのかもしれない。お互いのために。


 彼にすべてを傾けていたわけではない。完全に依存していたわけでもない。それでも心身をあずけられる存在が消えたことに、失望を感じないわけにはいかなかった。心にぽっかりと穴があいたようで、その穴にどこまでも落ちていくようで、私は独りの日々を虚しく過ごした。寂しかった。寂しくて、どうしようもなかった。運悪く、秋だったのだ。秋は人恋しくなる。秋雨など降られた日には、もうどうにもならなかった。


 話し相手になってくれる女友達なら、たくさんいる。年上も年下も、よりどりみどりだ。けれども私にはわかっていた。男であいた穴は、男でないとふさげない。だからといって、誰でもいいわけではない。セックスしたいだけなら、出会い系サイトでも漁ればいい。そうしたいわけではなかった。ただ抱き合いたいわけではないのだ。満たされたかった。穏やかな心になりたかった。心静かに、抱きしめあいたかった。


 気づけば、私は親しい男友達に、メッセージを送っていた。ほんのご機嫌伺いのメッセージ。お互いに中年だから、身体を労わるメッセージ。いつものこと。私たちはいつも、こうして互いを慰めあっていた。独り身の虚しさも、苦しさも、わかりあっていた。彼からの返事もまた、いつもと同じだった。優しくて、あたたかい。彼の顔が脳裏に浮かぶ。瞬時に想像する。もしも彼に抱きしめられたら。もしも彼とキスしたら。もしも彼と。彼と。


 私は、彼となら抱きあえると判断してしまった。頭の中で、無意識に。


「あのさ、あなたのこと、好きになりそうだよ。どうする?」


好きになりそうだよ。好きなのは当たり前。友達だから。けれども彼には伝わった。伝わるに決まっている。彼もまた、大人だ。


「ありがとう。その気持ちは嬉しい。でも今の状態が最高だろ?」


そうじゃないのよ。今の状態が一番だけど、でも。ねえ、抱いて。今だけでも。そう言いたかった。


「それって、私じゃだめってこと?」


ほんの少しだけ食い下がった。ほんの少しだけ。さすがに、返答に時間がかかっている。10分、20分、30分。いつになっても返事がこない。気持ちが焦る。言わなければよかったのか。言ったことは失敗だったか。これですべては終わるのか。もう戻れないのか。


 もう忘れるのではないか、でも決して忘れるわけのない返事は、一時間後に長文で返ってきた。


「お前がだめだってわけじゃない。むしろ、お前のことは好きだ。時期次第で、もしかしたらOKしてた可能性もある。ただ、俺がもう、誰か決まった人とつきあうことが難しいだけなんだ。自分を支えられないし、相手も支えられない。お前のことは大事だし、これからも楽しくやっていきたいから、このままでいよう」


私はふっと息をついた。心のどこかで、安心している自分がいた。全体を見て考えてみれば、ここで恋仲になるよりも、友達でいたほうがはるかに幸せだし、未来は広がる。恋人になってしまえば、終わるかもしれない。友達ならば、終わる可能性は少ない。いつまでも彼と一緒にいたければ、友達でいるほうがどんなにか嬉しい。


「ありがとね。一番の答えだよ」

「伝わってよかった。これからもよろしくな」

「うん、これからも、いつも通りね」


 一時間と少しで終わった小さな攻防戦。私はスマホを放り投げて、ベッドにごろりと横たわった。ひどく、疲れていた。


 友達の垣根を壊しそうになった私を彼はやんわりと押しとどめた。未熟な私の心には、その手腕は見事に感じた。きっと素直な気持ちを言っただけであろうに、私への配慮に満ちた表現は、私を決して傷つけなかった。


 彼はきっと、わかっていた。私がほんの少し寂しかっただけだということを。私の寂しさに流されてなし崩しにつきあって悲惨なことになるよりも、今までの積み重ねとこれからのことを考えてくれた。


 そして私は、恥をかかなかった。彼は私に、恥をかかせなかった。私の弱さを批判することもなく、私を貶めることもなく、笑ってごまかすこともなく。どこまでも真剣に、向き合ってくれたのだろう。私を、大切にしてくれた。


「ごめん、許せ。弱い私を」


 男にふられたときにも流れなかった涙が、じわりと目に浮かぶ。目頭が熱くなる。仲間同士で食事に行ったときの写真を、スマホのアルバムから呼び出して眺めた。平凡なおじさんの彼と、平凡なおばさんの私。ここまで積み上げてきた信頼関係。崩さなくてよかった。崩さずに済んだのは、彼のおかげだった。


「ありがと。あんたとキスは、やっぱりできないわ」


 少し泣いた。考えてみたら、ふられたんだ。ふられた気分ではないけれど。冷ややかに拒否されるより、ずっといい。だって、私たちはこれからも友達。


 心があたたまる。そして、冷えていく。


 ぽっかりとあいた穴を、彼はふさいではくれなかった。


 誰か、いないのか。私を抱きしめてくれる男は。見苦しく私はもがく。誰でもいいわけではなかった。誰でもいいわけではないから。


 もうこんなことの繰り返しは、終わりにしたかった。私の指は、連絡先の中に残っていた昔の彼氏を呼び出した。初めてつきあった男。必ず応じるとわかっている。だから、最後まで残しておいた。


「……クズめ」


 自分に向かって、つぶやいた。それでも、私は。


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