ミッドナイトブルー・リバーサイド
鹿島 茜
ミッドナイトブルー・リバーサイド
“
直近で聞いた彼の声が、今も耳に残っている。直近、といっても、いつのことだったか。電話であったのか、目の前で言われたのだったか、はっきりしているようでぼんやりしている。
スマホを取り出して画面をタップすると、待ち受け画面にしている幸一の笑顔が現れる。別にハンサムでもなんでもないけれど、私にとっては愛おしい顔だった。彼のことが好きだったし、彼も私を好きだった。結婚の約束をしたわけではない。けれども、いつ結婚してもよかった。料理の好きな幸一は、よく私のためにいろいろなものを作ってくれた。凝った食事よりも、簡単にぱぱっと作る卵の雑炊が一番好きだった。
幸一は、川に消えた。ある夜、二人でこの川沿いを散歩していたら、ふっと消えた。神隠しという言葉があるけれど、まるで神隠しだった。川に落ちたのかと見渡したが、水面はしんと静かだった。“美樹、またな”と呼びかけられたのがその瞬間だったのか、思い出すことができない。警察が来た。捜索隊が出た。彼の両親も私の両親も飛んできた。私は警察に連行されて、何度も事情を問い詰められた。何を言っても結果は同じで、彼は川から出てこないし、私には何もわからなかった。私は勾留されて、殺人未遂で起訴もされて、弁護士がついて、小さな裁判もあって、最終的には心神耗弱で無罪になり釈放された。私は治らない心の病気と見なされた。それでも、幸一は川から帰ってくることはなかった。
毎晩11時頃にこのあたりを歩き回れば、幸一に会えると信じていた。私は毎日パジャマのままで、冬はパジャマにダウンを着て、ふらふらと歩き回った。シャワーを浴びるのも面倒なので、いつも髪の毛はべたついていた。幸一が帰ってきたら、彼に頭を洗ってもらおうと思っていた。ときどきすれ違う他人は、みんな顔をしかめて私を避けて歩いた。私はいつの間にか周辺の噂になっていた。気持ち悪い女がいるから、近寄らないほうがいいと。元犯罪者だから、関わり合いにならないほうがいいと。いつしか両親も、私のアパートに近づかなくなっていった。
彼が川に消えてから、もうどれくらいの時間が経過したのか、私には数えることが難しくなってきた。時計を見るのは得意だけれど、夜の11時を感知するのは問題なくできるけれど、今日が何日で何曜日なのかを判断するのが困難だった。毎晩10時半くらいになると、サンダルを履いてアパートから出る。川沿いを歩いて何時間も行ったりきたりを繰り返す。明け方の4時半頃になると、自然と疲れてきて、またアパートに帰る。帰り際にコンビニで安いパンを適当に買って、食べて眠る。歯磨きだけは欠かしたことはないが、風呂にはほとんど入らなかった。もうすぐ幸一が帰るから、一緒に入ればいいと思っていた。しばしば実家から仕送りがあり、ATMへ行くと少しばかりの生活費が振り込まれていた。両親にとって私は、厄介者なのかもしれなかった。神経科の主治医はいつもにこにこして、同じ薬を出すだけだった。私はそれらを飲むこともなく、ゴミ箱に捨てていた。
冬の川沿いは寒い。ダウンコートを着ているのに、足元がひどく冷たかった。よく見たら靴下もなくサンダルを履いていた。それでも私は川のそばを歩き続けた。どうして幸一が帰ってこないのか、私にはわからなかったが、必ず帰ってくると信じて疑わなかった。1ミクロンでも疑えば、彼は二度と帰ってこないと思う。周囲のみんなは全員、幸一が死んだと考えた。彼の両親は諦めていた。諦めるほどの月日が経っていた。けれども私は信じていた。幸一と最後に一緒にいたのは私だから、彼が死んだわけではないことを知っている。彼はほんの少しだけ、川に用事があっただけだ。
満月の美しい夜だなと感じた。川ばかり見ていて、空を見上げることはなかった。ずっと手入れしていない長い髪が邪魔で、私は頭をぶんと振り、夜空を見上げた。月の色は、少し青みがかっている。白い月の中に、蒼く昏い影がある。あれがうさぎだと言った人がいる。うさぎにはとても見えない。
「幸一、どこへ行ったの」
私は何年ぶりかで、声を出した。なんだかしゃがれた声になっていた。昔は合唱部にいてアルトのソロも歌ったことがある美声だったのに、まるでお婆さんみたいな声が出てきた。
「幸一、どこへ行ったの」
もう一度、声を出す。やはりしゃがれた声だった。そういえば自分は何歳になったのだろう。もう何年も何年も同じことを繰り返して、どれほどの誕生日を過ぎてきたのか、まったく思い返すことができない。
「幸一、会いたいよ」
しゃがれた声で、私はひとりごとを言い続けた。通りがかった人が、早足で過ぎ去っていく。月が青い。幸一が着ていたシャツみたいに青かった。私は空を見上げたまま、へなへなと地面に膝をついた。もう、疲れた。彼が川から帰ってくることは疑ってはいないけれど、疲れた。満月が笑っているように見える。
川の水面が、ちゃぷんと音を立てた。
私は立ち上がって、川沿いの手すりから身を乗り出した。そのとき、後ろから誰かにどん、と押された。私はあっけなく川の中に落ちた。冷たすぎる水の中でしばらくもがき、必死で浮き上がる。空気のあるところに出た。人影があった。手すりから私を見ていたのは、あの日と同じ幸一だった。
“美樹、久しぶりだな”
「幸一?」
水が冷たい。凍える。川の流れは意外と速かった。
“あの夜、美樹がやったことだ”
「幸一、助けて、溺れる」
“大丈夫、そのうちに俺に会える”
寒い。苦しい。口の中に、鼻の中に水が入ってくる。冷たい。気持ち悪い。咳き込めば咳き込むほど、水が襲ってくる。
“もう少しで、結婚できるからな”
なんで、こんな目に。なんで、私が。なんで、溺れなきゃいけないの。苦しい。助けて。誰か。助けて。
“一緒に死のうって言ったのに、美樹は一緒に死んでくれなかった”
そうだった。そうだった。私が川に飛び込もうとしたのを揉み合って、幸一が川に落ちた。私も逝こうとしたのに、勇気がなくて飛び込めなかった。幸一だけが、溺れて死んだ。結婚しようって言ってたのに。私の頭がおかしくなったから。死にたくなったから。死ぬ気なんかなかったのに、幸一は私を止めて。幸一が、死んだ。私が突き飛ばしたから、川に落ちた。私が、殺した。私は、狂った。
これは、仕返し、なの?
“まさか。もうお仕置きは終わりだよ”
水の中に、幸一がいる。にっこりと笑っている。変わらない笑顔で。
“もう美樹は、十分に苦しんだだろう。あとは二人で楽しく過ごそう”
幸一の手が、私を抱き寄せる。極寒の水の中のはずなのに、ふんわりと温かい。いつの間にか、息苦しさはなくなっていた。
「幸一、もう離れなくていいの?」
“もちろんだよ、一緒だよ”
水中から上を見上げると、青い月がぼうと丸く見えた。月明かりが川の中にいる私たちを照らしていた。
誰かが、川沿いの手すりから、こちらを眺めているように感じた。薄れていく意識の中で、私にはそれが、幸一の笑顔のように見えた。
ミッドナイトブルー・リバーサイド 鹿島 茜 @yuiiwashiro
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