第2話 名前

 あの日からこの美しい悪魔はいつだって光希の側に居た。特に何か約束や契約をした覚えはないので、おそらくただの気分で悪魔は光希と居るのだろう。ーーあのふざけた質問による会話の中で、実は契約されていましたなんてことはありそうだが、考えたくないので考えないことにしていた。

 ベッドに横になって読んでいた漫画から目を離し、ちらりと横を見る。悪魔も漫画を一冊手に取ってペラペラとページを捲っていた。一見読んでいるように見えるが、持っているのは何故か十三巻だし、目の動きがコマを追っているように見えないから、ただの猿真似だろう。

 悪魔と暮らし始めてまだ一週間程度だが、人間の娯楽に悪魔にとっては娯楽にならないこと、肉体の維持に必要なことは不必要であることなど、光希は少しずつ悪魔のことが分かってきていた。

 理解ができなくて必要ないものなのに光希と一緒になってポーズだけ取っているのを光希は可愛いと思うようになっていた。テレビを観ていれば隣の空いている席に座って一緒に観ようとするし、こうやって漫画や本を読めば見様見真似で読んでいるふりをする。

 悪魔は光希がそんなことを考えている間も、見開きを一気に見てはペラリと、リズム良くページを捲っている。そして最後のページを捲り終えると、また初めのページから捲り始めた。目次も後書きも細かいコマがたくさん詰まったページも、全て同じ速度で見ていて、読み終わっても次の十四巻には進まない。それがおかしくて、光希は思わず声を出して笑ってしまった。

 静寂を破る光希の笑い声に、悪魔は規則正しい動きを止めた。すぐに自分が笑われていることに気付いて不満そうに眉間に皺を寄せる。

「……なんで笑うのさ」

 なんでと聞きながらも悪魔は、自分の動作が所詮おままごとの域を超えないことを笑われていると分かっているようだった。

「ごめん、ごめん。十三巻が読み終わったなら十四巻があるよ。はい、どうぞ」

 ペラペラと捲るだけなら何巻でも一緒なのだが、光希は続きの巻を手渡した。悪魔は何か言いかけたが何も言わずにそれを受け取った。またペラリとページを捲り始めるのを見て、光希は自分の読み途中の漫画に視線を戻した。

 これで良いのだ。悪魔の読書はおままごと。そして自分と悪魔の関係もきっとおままごとのようなものだと光希は思っていた。このおままごとを辞める気は光希にはなかった。



 「ねぇ、どうして私の名前を呼ばないの?」

 いつものようにちゃっかりしっかり学校まで着いて来ていた悪魔に光希は尋ねた。人の気のない放課後の廊下は内緒話に最適だった。

「……知らないから。教えてもらっていないもの」

 少し考える素振りを見せた後に悪魔はそう言った。嘘ばっかりと光希は思った。思わずため息を吐く。

「学校でも家でも四六時中一緒に居て、名前を知らない? 無茶でしょ、そんなの通らないよ。学校じゃフルネームをよく聞くし、よく見るでしょ? 漢字まで知っているじゃん」

 悪魔は困ったように笑った。光希はその目をしっかりと真正面から見た。美しく惑わされるその黒は、悪魔の個性を一人の生き物して認識していく度に力を失っていき、今では目を離せなくなることは全くなくなった。

 悪魔の方が目を逸らし、床を見た。光希も同じ場所に視線を落とす。大きな窓から夕日の強い光が差し込むがそこに悪魔の影はない。光希の影だけがそこにくっきりとあった。

「……それでも私は知らない。盗み聞きはしないからね」

 この悪魔は、嫌がることはしないだとか、盗み聞きはしないだとか、本当に悪魔なのかと聞きたくなるような発言ばかりする。――そう言えば、悪魔だと名乗ったことはないから悪魔ではない可能性でもあるのだろうか。この見た目では考え難いが。

「私は聞き耳を立てるの得意だよ。だけど、あなたは自分の名前を喋らないから、私は本当にあなたの名前を知らない」

「知らなくて良いんじゃないかな。別に不便はないでしょ?」

「不便しかないよ」

 悪魔は困ったような笑顔のままだ。嫌な話題なのだろう。それでも光希は悪魔とは違って嫌がることをしないという約束はしていなかった。

「何て呼んだらいいの?」

 光希に一歩も引く気がないことを悟ると、悪魔は観念したように、「……悪魔って呼んだら?」と言った。

「人間はみんなそうやって私達のことを呼ぶでしょう?」

 悪魔は話しながらくるりと後ろを向いてしまったため、どんな表情しているのかは分からなかった。声は単調で、そこから感情を感じ取ることはできない。

「それは名前じゃないけど、まあ名前を言いたくないならいいよ。――佐藤光希が私の名前。私のことは光希って呼んで。今、教えたからもう知らないは通用しないよ」

 慌てたように勢い良く振り返った悪魔の顔色は最悪で、そんなに名前を聞いたのが嫌だったのだろうかと光希は思った。

「ごめん。名前はもう聞かないよ」

 許される我儘だと思ったものが許されない我儘だったようで予想以上に傷つけてしまった。自分の行動が招いたことだが、光希はそれがショックで、出来ることなら時間を戻すか自分が消えてしまいたかった。見たことないほど青い悪魔の顔を見ていられなくて目を瞑る。

 しょんぼりと落ちた光希の肩がガシッと掴まれ、驚いて目を開けると悪魔が屈んで光希の顔を覗き込んでいた。その切羽詰まった表情にツキンと心が痛んだ。

 何と言って良いか分からずまた「……ごめん」と言った。肩を掴む悪魔の手に力がこもり、指が肩に食い込む。痛んだが胸の痛みに負けて気にならなかった。

「……どうして名前を言ったりなんかしたの? 私はちゃんと悪魔だって、今言ったよね? ……化け物には名前なんか教えちゃダメなんだよ」

 至近距離で見る全てを呑み込む黒い瞳は、怒りや焦りを孕んでいて、その力の強さに絡め取られて逸らせなくなる。ああ悪魔なのだと思った。知っていたが理解はできていなかったことを光希は知った。

 しっかり悪魔だと認識し、この黒い瞳を怖いと感じた上で、光希はこの悪魔を美しく魅力的だと思った。そして愛らしいこの悪魔を守りたい、全てを捧げてしまいたいとも思ったのだ。

「教えたらどうなるの?」

 光希はもうこのまま魂が取られても肉体を食べられても、何をされても構わないと思っていた。冷静に考えたらそうはならないのかもしれない。でも、光希は冷静になりたくなかった。このまま瞳に魅入られて吸い込まれて――何も考えたくなかった。

 悪魔は何も言わなかった。困ったように視線を彷徨わせた。光希は一時も瞳を逸らさないで欲しかった。

「教えたらどうなるのかを教えなくても教えても結果は同じなんじゃないの?」

「――名前を知ると大抵のことができる。呪いとか……契約とか」

 尻窄みになっていった声に耳を澄ましていたが、何だか曖昧な言い方で要領を得ない。とりあえず名前をしつこく聞いて傷つけたわけではないようで光希はほっとした。この感じたと、光希が自分の名前を悪魔に教えたことを怒っているようだ。

 光希は名前の重要性くらい知っていた。漫画で知り得た知識ではあったが用心に越したことはないと、はじめころ悪魔の目につくところから自身の名前を隠していた。学校でも漢字を隠すためにミニテストの時は平仮名で記名した。

 そもそも今日呼び方の話題を出したのだってある程度の覚悟を持ってしたことだ。――悪魔の怖さの理解は不充分であったが、結果的に理解した上で後悔していないから問題ない。結果オーライなのだ。

「あなたになら食べられたっていい」

 それでも良いから名前を呼んで欲しかった。人間の中の一人ではなくて、個として認識して欲しかった。

「目の力に呑まれているだけだよ……。すぐに後悔することになる」

 悪魔の瞳の力が揺らぎ収まっていく。光希は緊張状態から解放されて強張っていた体が少し楽になる。瞳には代わりに哀しみや諦めが奥から滲み出るように溢れた。

「――本当は、名前を知っただけで即契約とはならないんだ。でも、君の名前を知ったら私はもう我慢できない。……自ら名前を言うなんて悪魔にとっては据え膳なんだよ?」

 悪魔は光希の肩からそっと手を離し、自身の顔をその寮の掌で覆った。そして力なくしゃがみ込み、俯いた。光希は目の前の夜空のような美しい髪が輝く頭を撫でた。二つの角に当たらないように気をつけながら。

「どんな契約でもいいよ」

「……先出ししないと本当に私の都合が良いように契約しちゃうよ?」

「いいよ」

 悪魔は顔を上げた。泣いているようなポーズだったが涙一つ出ていなかった。小さく「本当に?」と聞いてきたので、光希は「本当に」と返した。

「光希……」

 悪魔に呼ばれて驚いた。美しい声で紡がれる自分の名前の音は想像していた何倍も甘美なものだった。自然と笑みが溢れた。悪魔は静かに下からそれを見ていた。

「あなたのことは何て呼んだらいい? 悪魔は味気ないから嫌だな。あだ名を付けてもいい?」

 光希もしゃがんで、悪魔に抱きついた。悪魔はふらりと後ろに倒そうになったが不自然な軌道修正が図られて倒れずに元の体勢に戻り、光希をしっかり抱き止めた。

「いいよ。好きに呼んで」

 耳元で優しく囁かれた。光希は頭の中でいろいろな名前を思いついては却下した。どの名前もこの人間離れした美しさを誇る悪魔には合わない気がした。ふっと、先日図書館で借りた本を思い出した。

「カルミアはどう? 綺麗な花なんだけど」

 ピンクや白の小ぶりな花がぎゅっと集まっていて、蕾の鮮やかさとのコントラストが美しい、花束のような美しい花。花の一つ一つが小さいのはこの悪魔らしくないが花言葉がぴったりだと思った。

「優美な女性って花言葉を持つんだって。本に書いてあった」

 抱き合っていた体を少し離して、宝石のような黒い瞳に長い睫毛、光を受けなくも艶やかな美しい髪を見た。やはりぴったりだ。

「……その花言葉は知らなかった。カルミアは知っているよ。……いいよ、そう呼んで」

 微笑む悪魔は儚げで抱きしめなければならないと思った。強く強く抱きしめる光希に悪魔は、「光希に名前をもらえて嬉しい」と言った。

「カルミア、ずっと一緒に居てね」

「光希が望まなくても――永遠に」

 何の気まぐれか分からないが、光希の元に現れた光希にしか見えない悪魔はカルミアになった。カルミアの温もりのない体を抱きしめながら、光希は自分の鼓動の音を聞いた。

 誰も来ないのを良いことに、二人はしばらくそうしていた。窓から差し込む夕日は光希の影を伸ばした。

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頷いたアネモネの話 ---わた雲--- @---watagumo---

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