頷いたアネモネの話
---わた雲---
第1話 カーテン
どうして私は私なのだろう、といういつものフレーズから始まる長くて生産性のない考察。
どうしてもクソもない。変えることのできない――ただの一つの事実だ。
何度も繰り返す、この自問自答に光希(みつき)は疲れ切っていた。本当は、こんなどうしようもない無意味なことをもう一秒だって考えたくない。それでもいつからか、何度も同じことで光希は悩み苦しんでいた。
お馴染みのフレーズが浮かぶに至る原因はさまざまだが、結果的に浮かぶフレーズはいつも同じ。原因となる悩みは、理想と自分の実力とのギャップ、家族関係、友人関係、教師との問題など、他の高校生のことなんか知りもしないが、おそらく高校生らしいものだ。
そんな独自性もクソもないようなしょうもない悩みもネガティブな光希の手にかかれば、毎度毎度自分の存在否定まで到達してしまうのだ。こうやってうじうじと悩み続けることになっているのは、自分の性格の問題だってことくらい幼い光希でも分かっていた。だからこそ何故自分が自分なのかと考えてしまうのだ。
光希は、自分が自分でなければ全く同じ人生であっても、もっと生きやすいと確信していた。何かに悩む度にその結論に至り、自分を少しずつ確実に嫌いになっていくのが常だった。
今日も今日とて同じように、自分に失望し否定するだけの長く無意味な考察は幕を閉じようとしていた。もう数十分間ずっと一人で泣いていたから頭が少し痛い。光希は雑に目を擦り、涙を服の袖に吸わせた。
ふわりと風が窓から優しく吹き込み、膨らんだカーテンがベランダのすぐ側で小さく体育座りをしていた光希の体を包む。カーテンの中に芯が通っているような、しっかりとした感触に違和感を持ち、ぎょっとしてカーテンから逃れるように立ち上がる。
少し距離を取って、ばっと勢い良く振り向けば、風はもう引いて行ったにも関わらず、光希が座っていた所のカーテンだけそこに止まっていた。ぼんやり人型を浮き立たせるカーテンに、ぞっとし冷や汗が背中を伝う。
春の陽気な日であった。カーテンは暖かな日の光を布越しに少しだけ通す。その人型に浮き出た箇所も光を通していて、そこに他に遮光物が無いことは明らかだった。
生き物ではない何かに怯えた光希は、そこから目が離せないままゆっくり一歩ずつ後退った。こんな時に限って家族は出払っていた。悲鳴を上げても誰も来やしない。
あまりの恐怖に先ほどまで止めどなく流れていた涙は止まっていた。
あと四歩くらいでこの化け物の居る自室から出られると思った瞬間、カーテンが無風の中動いた。脚も手も、なんなら頭も動かくなり、目はその動くカーテンから離せない。何も出来なくなり固まった光希は、ただただその人型が立ち上がるような動きをカーテン越しに見せるのを凝視していた。
「……そんなに怖がらないでよ」
人型から出たと思われる声は、やけに澄んでいて美しかった。落ち着いた声は何故か少しの安心感を光希に齎した。
少しだけ動き始めた頭で、光希はカーテンの裏に居るのは、女性の幽霊に違いないと思った。声は間違いなく女性のものだったし、カーテンに浮き出た人型はすらりとしていた。
光希は頭があると思われる所を見上げた。小柄な光希からしたら、百六十センチも百七十センチも同じで、この幽霊がどのくらいの背丈なのかは分からなかった。
「怖くないよ〜。私は君の嫌がることをしないからね」
幽霊はカーテン越しに、戯けて上半身を横にゆっくりと揺らしながらそう言った。わざわざ怖くないよと言われたら、警戒するのが普通だろう。だって、不審者はみんなそう言う。
その後、幽霊は数秒間、何も言わずに突っ立っていた。光希の反応待ちだったのだろう。そうだろうなと分かっていても、光希は幽霊との会話はしない方が良いと思い、無視を決め込んだ。幽霊が居る場所をばっちり見ていながら無視なんて無意味かもしれないが……。
光希が何も言ってこないことに痺れを切らした幽霊は、「じゃあこちらからいくつか質問するから答えて欲しいな〜」と言った。ほんの少しの苛つきが、その幽霊が発する美しく落ち着いた音に混じっていて、答えない方がやばいかもしれないと光希は思い直した。
「まず一問目、私は何でしょう?」
これは質問というよりクイズではないかと思ったが、そんなことを面と向かって幽霊に言う度胸は光希になかった。
外したら呪い殺されるとか、取り憑かれるとか、そういったことがありませんように。光希は震える体を両腕で抱きしめるようにして抑えることしかできなかった。
「……幽霊」
何年も喋っていなかったのかってくらい声が出なかった。なんとか音は出せたと思うが、言葉になっていたかは分からない。
「ああ、違うよ。はずれ」
一問目から外してしまったことに焦ったが、幽霊――ではない何かの声色は特別怒っているようには聞こえなかった。それでも何か起こるのではないか、と光希はますます体を硬くしたが、幽霊ではない何かは、「じゃあ二問目ね」と軽い口調で言っただけだった。
「私の好きな食べ物は何でしょう?」
魂とか人間とか、そういった回答が頭に浮かぶ。よく聞くような怪談では、答えた瞬間パクりと食べられてしまっていた気がする。外しても何もなしっぽいのなら、外しに行くのが正解に思えた。
「りんご……とか?」
「りんご! 良い選択だね〜。でも違う。私は食べ物を食べません。だから好きな食べ物なんて無いよ」
何故りんごにこんな反応をしたのかは分からないが、急に興奮して大きな声を出されたことで光希の心拍数は質問に答える前より確実に上がっていた。
そんな光希の様子を無視して、幽霊ではない何かは、「りんご。りんごねぇ。面白いな、りんごかぁ」と独り言を呟いている。光希はドキドキする心臓に右手をあてながら、二つの質問に満足してどこかに消えてくれないかなと考えた。
そんな光希の希望は通らず、幽霊ではない何かは、「次は三問目」と言って、この質問という名のクイズを続ける気のようだった。
「……さっき泣いていたのはなんで?」
寄り添うような優しい声で発せられた、先ほどまでとはテイストの違う質問。
「……私でいるのが嫌になったから」
気付いた時には勝手に答えていた。ぎょっとして両手で口を押さえる。こういった質問には黙りを決め込む気でいたのに、答えてしまったことに動揺した。化け物に弱みを握らせて良いことが起こるとは思えない。
「どうして?」
優しく尋ねられると、私の両手は口を抑えるのを辞めてしまった。答えたら楽になれる気がした。全て話して分かって欲しいと思ってしまった。相手は化け物なのに。
「……私が、私で居ると……生きづらいから。……普通が出来なくて、普通なら、気にしないような……ことで、勝手にしんどくなって……。それは、私が……私だから、で」
ぽつりぽつりと頭でぐるぐると考えていたことを化け物相手に零していく。纏まらない思考を表すように途切れ途切れになって、言葉が遅れる分、代わりに大粒の涙が溢れた。
幽霊ではない何かは、静かに私の意味不明な話を聞いていた。私が喋れなくなって、涙だけがひたすらに出てくるようになったところで、「君は自分のことが嫌いなんだね。……でも私は君のこと好きだよ」と言った。
その言葉を受けて、人型を凝視するが涙でぼやけた視界ではカーテンの色くらいしか分からない。それに見えたところで先ほど同様、人型にカーテンが浮き出ているだけだ。どんな表情でこんなことを言っているのかは分からない。
「……さっき会ったばかりで、私のこと……なんて、知らないくせに」
思わず沸いた怒りのままにそう言った。相手が怖い化け物だってことは泣きすぎてぼーっとした頭では、大して重要ではないとされた。
「知らないけど、その激情はさっき独りで泣いているのを見かけた時も感じたし、今も見た。大荒れな海のような、雲がうねり風が唸る空のような――どうしようもない激しいその感情にちっぽけな人間の体で振り回されているのが凄く良いと思ったんだ」
幽霊ではない何かはそう語って、「それじゃ、不充分かな?」と小首を傾げて見せた。
この化け物は光希を欠点を好ましいと言った。そこに魅力を感じる人は稀だと思うし、人間では居ないかもしれない。自分以外に自分の欠点を受け入れて肯定してもらえたことで、心がすっと軽くなるのを感じた。それは光希がこの化け物に惹かれるに充分な出来事だった。
涙も体の震えも止まっていた。目に溜まった涙を拭って、クリアになった視界でカーテンに浮き出た人型を見た。
「一問目の質問、正解を聞いてない。……教えて欲しいんだけど」
「……それは答えたくないかな」
「そっか。じゃあ良い。……姿は? 無いの? 透明なの?」
この化け物は初めに光希に対して、光希の嫌がることはしないと言った。それが適当な口から出まかせであったとしても、ここまでには嫌なことをされていないから、光希もこの化け物の嫌がることはしたくないと思っていた。一問目のことは深く追及せずに、気になっていた姿について聞いた。
少しの間があって、化け物は小さく「それも見せたくないなぁ。……ダメかな?」と言った。
見たくないなら仕方がないと思ったが、光希は知りたくて仕方がなかった。顔が無いなら無いで良いが、あるならどんな表情で話しているのか見たかった。
「……どうして見せたくないの?」
これくらいは聞いても良いだろう。納得できない理由であっても、無理強いはしないつもりではあるが、何も聞かずに諦められるほど興味なかったら初めから質問しない。
「怖がられたくないから。人間から見たら不気味かもしれない」
化け物は思いの外、簡単に理由を教えてくれた。
「血だらけだったり、大怪我をしているの?」
「いや、そういうわけじゃないよ。幽霊じゃないってのは分かっているんだよね? 血は出ないし怪我も基本的にはしないよ」
痛そうな見た目だったなら見た瞬間に悲鳴をあげてしまうかもしれない。でも、そうではないなら多少は驚くかもしれないがーーたぶん大丈夫ではないかと光希は思った。普通に生きてきた高校生が想像できる怖くて不気味なものはたかが知れていた。
「少し驚いちゃうかもしれないけど、怖がらないって約束したら見せてくれる?」
「……いいよ。逃げないでね」
化け物はそう言ってカーテンから出てきた。カーテンに浮き出ていた通りすらりとしたスタイルで、美しく長い髪は太陽光を無視しているにも関わらず怪しげな艶で光り風に靡いた。そうあるべきであると言い切れるほど美しい顔は、宝石のような黒い瞳が魅力的で一度目を合わせたら目が離せなくなる。
その美しすぎる女性は困ったように微笑んで目を瞑った。はっと正気に戻り、全身を見れば美しい髪の間から頭には角のようなものが、背中には羽のようなもの、お尻の辺りからは尻尾のようなものが生えていた。そこで察して、細部をよく見て見れば美しい指の先には尖った長い爪、肌の色は青白いほど白かった。
美しい女性である化け物は長い睫毛を持ち上げ、目を開けた。
「無理しなくてもいいよ。怖い?」
寂しそうに微笑みながらそう言う口には、八重歯では通用しないほど尖った犬歯があった。
悪魔だ、と思った。しかしそれを口にはしなかった。この化け物は、一問目の質問の正解を言いたくないと言っていた。
「……全然不気味じゃないよ。綺麗でびっくりしちゃった」
半分本心で半分嘘。人間にはないパーツが付いている体はやはり違和感があった。それでもその違和感を無視できるほど綺麗だと思った。
「ありがとう」
微笑んだ悪魔はやはり美しかった。美しい花には棘があると分かっていても、触れたくなるような美しさだった。
そんな光希の心中を知ってか知らぬか、悪魔は「じゃあもう一度抱きしめてもいい?」と聞いてきた。光希は頷き、その時についでに視線を下に落とした。あの瞳をずっと見ているとその美しい黒に呑み込まれて溶けてしまうような気がした。
少し俯く光希の体をふわりとした何かが優しく包む。背中に回された腕や目の前にある胸は確かに感触がある。しかしそこに温かさや鼓動はなく、不思議な感じがした。
このまま時が止まれば良いと思うくらいに、早くも光希はこの悪魔に心酔していた。
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