人獣血戦

カピバラ番長

人獣血戦

 静寂を示す木々。

森の深奥。

御伽噺のような木こりの家屋。

人界から離れ、足を踏み入れる者はごく一部という所に住む二つの人影。

一人はまごうことなき人間の男。

彼はまだ精神が発達しきっていない中・高生のような体躯。けれど、その目は既に世界を見、そのありようを少なからず理解している。

もう一人は獣人の女。

黄金のような体毛を有し、狐のような顔をしたマズルをもつ二足歩行の存在。頭部から肩甲骨よりも先に延びたモノは髪と言うよりは体毛に近く、輝きや滑らかさは人のそれよりも容易に凌駕している。

 「ねぇカナエ」

 「んー」

同じソファに腰かける二人のうち、男が獣人の女ーーカナエに声をかける。

理由はそう、ここ最近の悩みの種である……

 「この辺、もう動物いないよね」

食料難の事。

 「まぁー近くで戦争が始まったからねぇ」

 「逃げちゃったのかな」

 「まぁそんなとこだろうなー」

示し合わせたように同時に天井を見上げ、同じタイミングで鳴く腹の虫。

二人は本来、野性獣を狩る事で食料を得ている。

だがある時期から唐突に数が減少し、老いた獣ばかりを見かけるようになった。

仕方なく遠出をした二人はそこで小規模な戦争を目にした。

相も変わらない、人間対獣人の殺し合いを。

 「そろそろここもダメかねぇ」

 「かもねー」

切なく窮する腹を無視し、自身の住処を見渡す二人。

昔、偶然カナエが見つけてそのまま住み込んだとはいえ家自体はまだ綺麗だ。

トイレ、リビング、台所に風呂。必要な物は一通り揃っており、ベッドやソファなどの少し贅沢な物まである。

ここを捨てるのはどうにも惜しい。

 「……って言っても、命には代えられない、か」

 「だね」

言って立ち上がるカナエ。

彼女に僅かに寄りかかっていた男も押され気味に立ち上がる。

 「さて、ここで食う最後のご飯だ。美味いの頼むよ、シルベ」

 「はいよー」

カナエに言われ、男ーーシルベは台所へと向かう。

昨日、一日かけてようやく手に入れた猪の肉の余りを調理するためだ。

 「……で、アタシはその間に荷造りでもするか」

軽く伸びをすると、部屋の隅に置いてある二つの鞄を拾い上げ、ソファのクッション下に隠してある幾つかの戦闘用の道具をしまい始める。

 「備えあれば憂いなし、か。無茶を承知で旧戦地に行っといて正解だな」

独り言を溢しながら手早く詰め、用意を終える。

そうして、部屋の隅に置いてある二本の小銃の近くに置くと、台所からシルベが皿を持って戻ってきた。

 「出来たよー」

 「ん、ありがとう」

香ばしい匂いを放つ肉の塊を前に舌をなめずるカナエ。

その姿を見て何をおかしく思ったのかシルベは微笑む。

 「それにしても、火に弱いって不便だね。自分で料理すらできないし」

 「アタシは特別弱いだけだよ。耐性がちょっとでもあれば違うんだろうけど」

鼻腔を覆う肉の香りに目を奪われながらもカナエは彼の言葉に答える。

 「ま、俺がいるから料理は気にしなくていいよ。フォークとか持ってくるから少し待ってて」

 「ああ。

んで、これ食って少ししたら行こうか」

 「りょうかーい」

無骨に焼かれた肉の乗った皿をテーブルに並べ、二人はここでの最後の晩餐を始める。

決して前向きなだけではないひと時。

けれど、二人の顔から笑顔は絶えなかった。


                  ーーーー


 食休みを挟んで三十分後。

十数キロはあるバッグを背負い、右肩に小銃を掛けた二人は鳥の鳴き声も聞こえない森の中を進む。

踏みしめる土は一歩ごとに変わり、視界に映る草木は程度こそ低いが枯れる、腐る、焼ける、折れるなどしている。

 「やっぱりこの辺まで来ると顕著だね。残党がいるかもしれないから気をつけなよ」

 「分かってる。カナエも火には気を付けてね」

 「当然」

カナエのマズル先にある鼻が掴んでいるのは戦火の臭い。

鉄、血、火に水に土。

まだ遠い場所だが、確実に近づいている。

 ーー嫌だね。二度と嗅ぎたくなかったんだが。

煩わしさを抱える鼻を軽く拭い、シルベに一瞥したカナエは更に進む。

【警戒を怠るな】

彼に視線で示したのは、いつでも銃を抜ける準備をしておけという内容だった。

 「悪いけど、ここから先はアタシの鼻はあんまり役に立てないよ。戦場の臭いがキツ過ぎる」

 「分かった。後ろは任せて」

互いに背を預けるような態勢を取り、更に進む二人。

 「足元はアタシが気を配る。モグラみたいな奴も沢山いるからね」

 「助かるよ。雷じゃ分が悪い」

この会話を最後に、二人の口は開かなくなる。

ただ黙々と山を下り、安心して暮らせる次の場所を目指して向かう二人。

そうやって更に十五分ほど進んだ頃だろうか。

いよいよ草木の損傷が激しくなり、辛うじて隠れ場として使えるようなところまで彼らは来た。

 「(さて、こっからはより慎重に行くよ)」

 「(うん)」

小声で言葉を交わすとカナエは比較的無事な木の一つに隠れて遠くを覗く。

見えるのは荒野。

草すら生えていない土と砂埃の支配した場所。

だが、更に目を凝らして見えるのは凹凸。或いはコゲ目や水たまり。

自然にできたものだとすれば複数の神様でも降り立たない限りあり得ないありさま。

……だとすればそれは人工的にできたもの。

即ち、戦争の跡地だ。

 ーー見たところ人影はない。けど、まだ幾つかの簡易施設があるね。

注意深く観察して分かったのは恐らく誰もいないであろう事だけ。

 ーー終わってからどのくらい経ったのか確認するにはいかないとダメか。

頼りになるはずの鼻も嫌な臭いを嗅ぐばかりで人や獣人の体臭など分かるはずもない。

 「(……シルベ)」

振り向く事無く呼びかけるも求めていた返事はない。

どころか、返ってきたのは。

 「(カナエ、銃を)」

最悪の返事だった。

 「(何かいる)」

後ろの警戒を任せ、前方から周囲に目を耳を神経を尖らせるカナエ。

殺気、荒い息遣い、謀るような足音……今のところそれらしい気配はない。

 「(こっちは多分平気。そっちは?)」

決して集中を散らさずシルベに状況を問う。

 「(……多分、大丈夫)」

 「(……どういう事?)」

返ってくるのは何故か煮え切らない言葉。

どうやら、戦闘経験の乏しいシルベでは判断できない状況のようだ。

 「(シルベ、位置を変えるよ。アタシが見る)」

 「(うん、その方がいい)」

言って、二人は互いの呼吸を図る。

そして。

 「……なんだいこりゃ」

瞬き一つの間にくるりと位置を変えたカナエが目にしたのは、思わず頭を抱えてしまいそうな光景。

 「……う……ん………」

うつ伏せで倒れている、少女兵だった。




                   ーーーー




 「……あ」

 小さくも強い光を灯すランプのぶら下がった部屋の中で、倒れていた少女が目を覚ます。

 「……ここ、って?」

まだ怠いのだろう。ゆっくりと身体を起こし、彼女は辺りを見回す。

……と言っても、あるのは一人分の机と椅子。それに天井からのランプくらいで、恐らく民家ではない事しか分からない。

にも関わらず。

 「やっと起きたか」

少年が一人、立っていた。

 「あ、貴方が私を?」

 「俺とカナエが、だ。忘れるな」

 「は、はい」

明らかに嫌悪感を、それもとても強く示す少年。

よく見れば、足元には小銃が立てかけられている。

種類は恐らくアサルトライフル。型式が古いのか、少女の知らないタイプの物だ。

 ーー撃たれる……事は無いと思うけど。

 「悪いけど、目が覚めたなら容赦はしない」

ただの護身用だろう。そう高を括ろうとした矢先に少女は少年に銃口を向けられた。

 ーーセーフティっぽいのは外されてる。本気、なんだ。

彼女の口腔内に嫌な乾きが広がっていく。

 「う、うん。分かってるから、下ろして。ね?」

自分に敵意はないと示すため、少女は両手を上げる。

と同時に、彼がどんな存在なのかを見極めるため、彼女は全力で考えを巡らせた。

 ーー自分が配置された大隊に彼の姿は見当たらなかった。恐らくは自分よりも年下らしい彼が隊に居たのなら、少なからず噂になるはず。でも、それらしいのはなかった。……なら?

 「……どうだか」

 ーー本国から差し向けられた、逃亡兵を捉える部隊の一人……?

至った最悪の考えを振り払い、少女は再び少年を見据える。

 ーーあり得ない。もしそうならとっくに拘束されてるはずだし、話しを聞き出すためにあえてこうしてるんだとしても、さっきまでの口ぶりからはとてもそうは思えない。

 「あ、あの、君は……」

考えの行き止まりに足を踏み入れ、今の情報だけでは少年の素性に予想を付けるのは不可能だと判断した彼女は、残された手段を取る。

だがそれはあまりにリスクが大きい手だ。

それでも彼女が尋ねる事にしたのは、少なくとも自分を助けてくれた相手の善性を頼りにしてのものだった。

……しかし。

 「話す事はない」

取り付く島も無く拒否されてしまった。

 ーー分からない。なんなの、この子。

自分を助けたかと思えば目が覚めるなり銃口を向け、それどころか会話まで拒む。

 ーー怖い。

変わらず銃口を向けてくる少年に対し、少女に沸き上がってくる得体の知れなさは恐怖そのものだった。

 ーーな、なら、もう一人の方は?

そこで彼女が思いだしたのは彼の言っていたもう一人の存在。

 ーーもしかしたら、そっちの人の指示だったのかも。

鎌首をもたげるもう一つの最悪の事態を拭うように希望を見出す少女。

それと同時に、少年の背を預ける壁の隣のドアが開く。

 「ん、お帰りカナエ」

 「……あのねぇ」

何かを抱え、現れるのは毛皮らしき服に身を包む人物。その声は女性的で、どこか柔らかい感覚を抱いた。

 ーーこ、こっちの人なら!

覚えた違和感を無視してカナエと呼ばれた女性の来訪に期待を抱く少女。

……けれど、現れたのは。

 「はぁ。尋問の方法くらい教えるべきだったかね」

黄金色の毛皮を着こんだーー否。纏った、およそ人間とは程遠い顔の生物。

 「じゅ、じゅじゅ……」

獣人だ。



                    ーーーー



 「……お。起きたね」

 「………一生寝てりゃいいのに」

 「あのねぇ……。ホント、とんでもない子だよ」

 薄らぼんやりと明ける視界。

見えるのはーー見上げているのは天井。

 「……私、また」

 「いいさ。ゆっくり起きな。シクカ」

言われるがまま、ゆっくりと身を起こす少女ーーシクカ。

 ーーどうして、私の名前を?

考えながら、妙に身軽な事に気が付く。

下ろした視線が捉えたのは、軍服とは程遠い白く綺麗な服。

 ーーそっか、ドッグタグ。

記憶に残っている気絶する前の事を思い出し、安堵する。

 ーーそうだよね、ここに獣人なんかいるわけ。

胸を撫で下ろした彼女は静かに目を開ける。

見えるのはあの少年と、黄金色の毛皮を着たーー

 「…………狐?」

 「ははは。凍らせて埋めるよ」

毛皮を着たように見える、ーーいや、そう思いたかった、獣人の女性だった。

 「う、嘘!?どうしてここに獣人が!!??」

相手が人間ではないと分かるや否や、シクカはベッドの上で壁際まで身を寄せ、抱き込むようにして身体を丸める。

 「おいおい、そんなに怖がらなくてもーー」

カナエが一歩前に出て呼びかける。すると、途端にシクカは身体を震わせ、瞳に恐怖を浮かべた。

 「……って、まぁ、無理な話か」

彼女の言葉に対して返事はない。

 「しゃーない。後は頼んだよ」

 「分かった」

自分ではどうにもならないと考えたカナエはシルベに一言残すと、そそくさと部屋を後にした。

 「……で、お前誰だ」

部屋に残されたシルベとシクカ。

先程よりはマシになった様子のシクカに対して彼はそう問う。

 「わ、私は……」

緊張しているのか、それともまだ恐ろしいのか、シクカの口調はたどたどしく聞こえる。

 「その、荒野地区に配備されたほ、補給兵で、えっと……」

シルベは既に銃を構えてはいない。だから彼女はもう、少なくとも今ほどの自己防衛を見せなくていいはずだ。

それは分かっている。

それを分かってはいても、この少年の得体が知れない。

 ーーなんで敵対してる獣人と一緒にいるの……?

何故獣人といるのか。何故あの時は銃を向け続けたのか。何故今はもう銃を向けていないのか。

幾ら考えたところで答えは出ない。

答えの出ない不安は、先程の獣人によって呼び覚まされた恐怖で後押しされているためにより増していく。

そんなシクカの目には涙すら浮かんでいた。

 「……獣人を殺し回ってたのか?」

 「え……?」

気が付けば止まっていたシクカの声。

それをどう受け止めたのか、シルベは言葉を口にした。

 「そ、それは」

 「別に驚きはしない。普通はそうなんだからな。お前は何もおかしい事はしてない」

シクカを遮り話し続けるシルベ。

その言葉に嘘はない。

代わりに、侮蔑の念がありありと読み取れるだけだ。

 「今回、お前を『助けよう』と言い出したのはカナエだ。裏なんて一切ない純粋な優しさをお前がどう受け止めるかは知らないが、これだけは約束しろ。

今日の事は、絶対誰にも言うな。そうしたらここから生きて出られる」

あまりにも一方的な物言いだった。

シクカには反論も質問もする暇はなく、言い終えたシルベは部屋を出て行ってしまった。

 「……何なの、これ」

ロクな情報も無く一人残されたシクカは何を言えばいいのか分からずに、ただそんな言葉を溢す。

異様なまでに冷たい少年と、何故か自分を助けてくれたーーと言う話の獣人。

現状、分かっているのは、今日の事を誰にも話さなければ生きてここを出られるという事だけ。

……それも、あの二人が嘘をついていなければ、なのだが。

 「……絶対、あり得ないよね」

ライトを見上げて言葉が漏れる。

見た目こそ若いものの、彼女とて軍人だ。相応に見てきている。知っている。

今この場に、自分と同じ境遇の人間がいたとしたら何と言うか。

答えは決まっている。

 「拷問される」

 ーー拷問され……

 「……え」

蝶番を軋ませて部屋に入ってきたのは獣人の女・カナエ。 

 「大方、そんなところか」

彼女は、シクカが思い巡らせていた言葉と全く同じモノを口にした。

 「……と、思ったらドンピシャだったか。これは失敗したかもねぇ」

部屋の中にある椅子に向かってカナエは歩を進める。

同時に身体を震わせるシクカ。

カナエが目指す机がある場所はベッドからそう遠くない。

恐怖を覚えたままの彼女が怯えるのは当然だろう。

それでも、カナエは椅子に腰を下ろした。

 「……私は何も話しませんよ」

やっとの事で振り絞られる拒否の言葉。

必死が故に滑稽にも聞こえるそれを、けれどカナエは何も言わずに受け止め、口を開き。

 「さっきはうちのが悪かったね。アタシ以外のと話すのが久しぶりだったのもあるとは思うんだ。大目に見てやってほしい」

あろう事か、頭を下げた。

 「それと、アンタの服は洗ってるとこだ。大丈夫、シルベに下着は洗わせないから」

薄く、口端を上げて微笑むカナエ。

彼女のその行動に、言動に、シクカは強い混乱を覚える。

 「食事はとりあえずあるから気にしなくていいよ。大丈夫。アタシとシルベだけで全部取ろうなんてしないから」

 「は、はぁ…」

優し気に紡がれる言葉。

無機質さしかない室内に於いて、彼女だけが暖かな熱を帯びている。

……そう、シクカは思ってしまった。

次の言葉が来るまでは。

 「で、この銃でアタシを殺すのかい?」

カナエの腰裏から取り出された、光沢を帯びた白金色のナニカ。

大きさはカナエのーー言ってしまえば、十代後半の少女の掌と変わらぬ大きさの物。

けれどそれは年頃のアクセサリーではない。

小さな持ち手と細長い筒が一体化したような、引き金の付いている道具。

 「ホント、人間の器用さには驚かされるよ」

それを一目見たシクカは己の失態を思い出し、理解した。

 「総装弾数一発の使い切りミニマムハンドガン。威力も射程距離もおよそ戦争には向かないが人は殺せる。弾は抜けず、セーフティもついちゃない。ろくでもない道具だ」

細めた眼で吟味するように銃を眺め、カナエは小馬鹿にしたような笑いを小さく浮かべる。

 「要するに、自決用なんだろ。全く、信頼関係の強い種族だこと」

一通り弄ぶと机の上に置き、カナエはシクカの座るベッドに腰をかけ直す。

 「ど、どうして銃を……!?」

 「どうしてって、お前の着替えをアタシがしてあげたからだろうに。良く鍛えられてるいい身体だったよ」

 「そ、そうじゃなくて!」

逃げ場など無い彼女は小銃の銃身程もない距離を取ってカナエと同じベッドに座る事を余儀なくされる。

恐怖に顔を歪め、距離を取りながらもそれでもシクカは猛た。

 「獣人は、人間の使う兵器を毛嫌いするのに、どうして!!」

その理由は、彼女が軍に入隊してからずっと耳にしていた噂が原因だった。

種族間で敵対する人間と獣人。

有史以前より争っていたと言われる両者間に於いて、獣人は長い歴史の中で一度たりとも【人間の兵器を使った】という記録が無かった。

理由は単純至極。

心の底より嫌悪する相手の使用した道具を使いたくないから。

ただそれだけの理由で、獣人達は人間側の武器を手に取らなかった。

……手に取らずとも戦えた、というのも大きな要因の一つではあるが、それでも近代化が進んだ現在でも徹底しているのは変わらなかった。

それ故にシクカは困惑していた。

あの少年が手にしているならまだしも、獣人自らの手で触れているとはその目で見ていても信用できなかったから。

 「……で、アレ使ったらどうなるか知ってるのか?」

けれど、カナエは答えなかった。

当たり前だ。敵かも知れない相手に、不用意に情報を渡す理由なんてそうそうない。

 「……知ってる。腕が無くなる」

改めて自分の立場を理解し、シクカは歯噛みしながら答えた。

 「………っは。やっぱそう言われてんのか」

彼女の想定していた通りの返事にカナエの中に沸き上がる強い嫌悪感。

見て取れるほどのそれは、シクカを更に壁に追いやる。

 「……間違っちゃいないが、当たっても無いってところが気に入らないねぇ」

 「ど、どういう事」

恐る恐る問うシクカに対し、カナエは僅かに俯き、答える。

 「正確には吹き飛ぶのは手だけ。勿論、[跡形もなく]ってところだけは共通してるんだろうね。

真実で嘘を包んで通す。気に入らないやり方だよ」

 「……な、なにそれ。どうしてそんな事?」

[自決用の銃を使えば、使った腕もただでは済まない]。そんな事はシクカも知っていた。

けれど、無くなるのは[腕]ではなく[手]だとこの獣人は言う。

恐らくはこの獣人も軍人だ。なら、戦場で自決した人間を見た事があってもなんら不思議ではない。

故に、彼女の言い分は真実なのだろう。

だが、それをどうして同じ人間が仲間に嘘を吐く必要がーー誇大表現する必要があるのだろうか。シクカにはそれが分からなかった。

 「……大方、踏ん切りを良くさせる為、だろうね。

[手が無くなる]のと、[腕が無くなる]じゃ、どっちが生き残った時に辛いか……って言えば伝わるかね。

要は、何がなんでも死んでほしいんだろうよ。そうさな……表向きの理由は【銃の技術が渡るのを防ぐため]ってところか。実際は拷問された時にもっと余計な事を話さないため、だろうけど」

 「そ、そんな……」

強張っていたシクカの表情が見る見るうちに虚無へと変わっていく。

彼女の筋肉を一瞬で弛緩させたのは絶望による脱力。

これまで信じ切っていたーー少なくとも、彼女にとってはその命を捧げても良いと思っていた組織による裏切りにも等しい事実が、これまで恐怖で緊張していた彼女の身体を一瞬にして無防備にしてしまった。

 「ま、情報を渡さないための約束事ってんなら正しいんだろうよ。少くなからず従う奴はいるだろうからね」

しかしそんな事をカナエが知るはずもない。

彼女はただ聞かれた事に答えただけ。それにどんな思いを抱こうが知った事ではない。

特に、敵同士であるなら。

……それでも。

 「本当に、アンタらは災難だよ。その信頼は殆どの場合が一方的で、相手によっちゃウザったく思われる。だからこそ信じずにはいられないんだろう?この人は違うんだ、って。

そういう所は同情するよ」

カナエは僅かに、彼女の事を慮った。

 「……どうして」

その心の機微に、シクカは更に強い疑惑を抱く。

 「どうして、私は……人間は敵なのに……?」

それは言葉となり、涙となってカナエの鼓膜を揺さぶる。

 ーー『どうして』、か。

シクカの目に嘲りはない。

あるのは本心からの疑問。先程の、嘘かどうかを問うた時と同じ真剣そのものの瞳。

 ーーなら、答えないわけにはいかないね。

 「アンタが知ってるかは分からないけど、アタシらは技を使うためには心の迷いが在っちゃいけない。

嘘を吐けば濁り、隠し事を造れば迷いが生じる。だから技に力が無くなる。

そういうのが強く出ちまうのさ。魔法にね」

 「……どう、いう?」

 「分からないかい?」

 「…はい」

抽象的にも聞こえるカナエの答え。

どうしてそう答えたのかと問われれば、本心のまま言ったところで納得してもらえないと考えたからだ。

 「なら、分かるまでアタシらといればいい」

 「え?」

今の彼女は何を言われたところで信じる事などできない。

なら、ここでいくら言葉を尽くして説明したところで意味はない。

疑心暗鬼に陥った人間にするべきは信頼を押し付ける事ではなく、信頼を見せる事。

 「何、嫌になったらこの銃でもその銃でも、アタシの頭を撃ち抜けばいい」

そう言ってカナエは自決用の銃を掌に載せてシクカに渡す。

同時に視線が向けられたのは机の下に置かれている小銃。

今はこの部屋にいないシルベが構えていたのと同じ銃だ。

 「けど、その時はあいつの事を先に殺しておくんだよ。じゃないと、アタシの次に殺されるのはアンタになるからね」

 「は、はい」

言われるがまま自決用の銃を受け取り、シクカはそれを見つめる。

 ーー分からない。この獣人の本心が全く分からない。

光沢に繰り返される自問自答。

その果てにあるのは、どこまで行っても疑問でしかなく。

 「……分かりました」

けれど、この場を生き残るために、シクカはカナエの提案を受け入れた。



                   ーーーー



 「これで全部?」

 「うん。多分そう」

 外はすっかり日が暮れ、獣人でもないなら明かりが無ければ出歩けないほどの暗闇が広がっている。

当然、人間と一緒にいるカナエは外には行かず、明かりのついた部屋で他の二人と一緒にテーブルを囲んでいた。

のっているのは幾つもの缶詰とレーション。

更に、量こそ少ないものの干し肉や黒パンもある。

 「パンと肉は先に食べるから問題ないとして、保存のきくのがこれだけあるのはいいね」

 「だね。暫くはもちそうだ」

面持ち柔らかに食料を手に取すシルベとカナエ。

その二人の様子を、恐る恐るシクカは見つめる。

 「……で、どうしてここにコイツが?」

 「まさか、ご飯も食わせる気なかったのかい……?呆れた子だよ」

 「…別に」

ギロリと睨むシルベに、なだめるように頭の上に手を置くカナエ。

行ってしまえば捕虜のような状況だ。シクカが食事に不安を覚えるのは当然だろう。

目の前で食べる姿だけを見せられるーーなんていう拷問もあるのだから、その心持は果てしなく重い。

 「……あのね、シルベは確かにこんなんだけど、アンタにも食わせるに決まってるだろ?拷問なりなんなりするなら、さっきの部屋に閉じ込めておいた方がしやすいんだから」

その重りを取り払うように、カナエはシクカの前に干し肉を一つ置く。

 「カナエ」

 「いいから。シルベは黙ってな」

もの言いたげなシルベを抑えての差し出された食料。

中でも特に価値が高く、特に大きな干し肉。

 「……いいの、本当に?私、何するか分からないんだよ?」

言い終えると同時に鳴るシクカの喉。

逃走する前、まだ彼女が戦争に身を置いていた時の食事は味気ないレーションばかり。

パンが食べれるのは稀。干し肉など以ての外だった。

そんな御馳走を目の前にしながらも彼女が手を付けないのは、この二人を信用しきれていないため。

 ーーこれがもし、毒入りだとしたら……

……けれど。

 「…………あ」

唐突に、彼女の腹部から切ない音が漏れた。

 「……何だよ。腹は減ってたのか」

 「え……?」

腹の虫の声を聞くと、シルベは途端にテーブルにのっていたパンの一つをシクカの目へと置く。

 「ちょ、ちょっと、これ」

 「食料は有限だ。食う気のない奴に分けてやるわけないだろ。けど、腹減ってるのを我慢してるって言うんなら話は別だ。

……必要もないのに殺すのはもう嫌だ」

 「そういう事。

大丈夫。毒なんて入って無いから、安心して食べな」

二人の言葉によって起きた何度目かも分からない困惑にシクカは頭を悩ませる。

二人の意図は何なのか。本当に仲間にしようとしているだけなのか、それとも人間側の情報を話させたら始末するつもりなのか。

 ーー分からない。どうすればいいの?

恐怖に変わりつつある不安を抱き、シクカは視線を落とす。

その先にあるのはパンと干し肉。

言わずもがな御馳走のそれらの匂いや味の記憶に今のシクカの胃がこれ以上抵抗できるはずもなく……

 「………………いただき、ます」

疑惑に満ちた思考を捨て、干し肉を掴んだ。

 「あまり食べ過ぎるなよ。明日からの分が無くなる」

 「こら。今日はいいんだよ、今日は」

二人の会話がシクカの耳に届く事は暫くない無い。

 「ふふっ、そう焦っちゃいけないよ。飲み物も有限なんだから」

 「……どうもやり辛い」

彼女は今、懐かしき平穏に身を置いていた時の食事の味を思い出しているのだから。


                   ーーーー


 空腹が満たされ、ひと時の幸福に溢れた部屋。

テーブルの上には先ほどまで食べられていた食料の残骸が僅かに散らばり、それらを囲むようにして座っている三人の顔は満足げだ。

 「獣以外の物を食べるのは久しぶりだけど、案外悪く無いねぇ」

 「うん。レーションもたまに食べるなら悪く無いかも」

 「最近のは味も考えられてるから、実は結構美味しかったりするんだよ」

悦とした声色を漏らし、椅子の背にもたれ掛かったシクカは最早警戒の色など微塵もない。 

 ーー本当に、何もなかった。

ただその一点だけで、二人を信用するのに今の彼女には充分だった。

 「さて、食事も済んだことだし。そろそろちゃんとした自己紹介でもしようか」

 「名前知ってるし、良いんじゃない?」

脱力した身体を起こして告げたカナエに対し、シルベは[今更?]と手でも言いたそうな顔をして答える。

 「それじゃあ筋が通らないんだよ。いいからやるよ」

 「……はーい」

譲る気のないカナエは半ば強引に言うと席を立ちシクカの方へと顔を向ける。

 「アタシはカナエ。見ての通り獣人だ。使える魔法と耐性は……流石にまだ教えられないけど、アンタに敵意はない。

これからよろしくね」

言い終え、差し出される手。

それにカナエは二度視線を向けた後握った。

 「よ、よろしくお願いします」

 「あぁ、よろしく。

……で、こっちが」

 「シルベ。元前線部隊配置の幼兵(リトルソルジャー)。名字は棄てたからない」

 「リトルソルジャー……」

カナエと同様にして答え、同じように握手を求めるシルベ。

けれど、シクカはカナエの時ほど直ぐには握れなかった。

 「……しょうがない。この手はそうそう握るものじゃないから」

 「そ、そんな事!」

ひっこめようとするその手をシクカは急いで握る。

 「私達の国の為に最も貢献している人の手なんです!怖がるなんてそんな!」

 「…………そう」

硬く握られる手を、しかし直ぐにシルベは解き、ポケットにしまう。

 「……今日はもう寝るよ。

銃の手入れしとくから、預かるよ」

 「分かった。アタシもそのうち行くから。銃の事頼んだよ」

 「うん」

 「あ……」

それ以上は何も言わず、シルベは部屋を後にした。

 「……悪く思わないでね。あいつ、昔の話は好きじゃないんだ」

 「………そう、なんですね」

シクカは知っている。

幼兵がどんな存在なのかを、よく知っている。

 「あいつはね、逃げてきたのさ。これ以上、誰かを殺すのが嫌で」

戦争孤児の行きつくは孤児院を経ての使い捨ての前線部隊。

一足どころか、二足三足飛びで入隊する事になる彼らは、殆どの場合自分の土地を蹂躙した獣人に対する憎しみよりも戦争に抱く恐怖の方が大きい。

それを払拭させるため、更には戦場での迷いを捨てさせるため、入隊先で一つの訓練を受ける。

それが、対獣人模擬戦。

模擬とは名ばかりの、人間側だけが安全な実践だ。

訓練の目的は捕虜の獣人を介し、殺す事に慣れさせる事。

実践に近い模擬戦に幾度と身を置かせ、その上で殺傷させ続ける。そうする事で戦いーーひいては戦争への恐怖心を薄れさせ、殺す事に怯えない兵を作り上げるのがこの訓練の最終的な目標になっている。

 「あの子も何人か殺してるみたいでね。けど、それがどうしようもなく嫌だったらしい」

カナエはその事を知っているようだった。

 「分かっているのに、どうして……?」

 「だからさ」

『助けたのか』その一言を言えずにいたシクカに、カナエは憂う事無く答えた。

 「獣人殺しをあんなにも悔いる人間がいるんだと思って、だから助けた」

納得は出来ない。

どれだけ悔いようと、獣人をーーカナエの同胞を何人か殺した事実は消えない。

なのに彼女の目は嘘をついているようには見えない。

 「……そういう、ものなんですかね」

 「どうかね。アタシはそうだったってだけだと思うよ」

言って立ち上がり、カナエはシクカに背を向ける。

 「今日はもう遅いし寝よう。大事な話は明日にでも」

 「……分かりました」

 「部屋はさっきのところを使いな。心配なら鍵かけるといい」

 最後にそう残し、彼女も部屋から出て行った。

 「……本当に分からない」

一人残されたシクカ。

彼女は天井を見上げて溢すと、同様にして部屋に戻って行った。



         _________________________



  陽が昇り、差し込む太陽の光が室内を照らす。

陽光の眩しさに目を細めるのは二人。

先に身を起こしたのはシルベだ。

 「カナエ、朝」

光を避けて寝返りするカナエを一揺らしするも起きる様子は無い。

 「ここ基地跡だから起きた方がいいよ」

 「……いやだ」

 「いやだ、って……」

少なからず危険のある場所であるにも関わらずカナエは一向に起きようとはしない。

 「……まぁ、いいか。俺いるし」

言いながら二度ほど頭を掻くと、シルベはそれ以上起こそうとはせずに扉を開けた。



                  ーーーー



 「……おはよう」

 「お、おはようございます……」

 昨夜食事をした部屋に着き、先に座っていたシクカに声をかけるシルベ。

一先ず彼女から返事は返って来たものの、どことなく様子が変だった。

 「なんか、変だ」

 「そ、そうですか?」

シクカのおかしさの原因。シルベは知る由もないが、理由は明白だった。

 ーーなんだか、優しい?

昨晩までの彼のシクカに対する態度は明らかに嫌悪感に満ちているものだった。

けれど今はどうか。

確かに言葉自体は強いが、昨日ほどの嫌悪感は感じられない。

 ーー空腹で気が立ってた……わけじゃないよね。

 「……どうでもいいか。それより、朝食にしよう」

 「あ、はい!」

答えを見出す間も無いまま、シルベの提案に頷くシクカ。

 「今日からは節約する予定だから、昨日ほどは食べれないと思って」

 「分かりました」

テーブルの上にはまだかなりの食料がある。

それでも節約すると言ったのは、ここに長居をするつもりはないからだ。

戦争の跡地である以上、いつ備品の回収に軍がやってくるか分からないのだから、早急に移動した方がいい。

 「あ、あの」

 「なに」

手際よくーー恐らくは日数ごとにーー食料を分けるシルベに、シクカはおずおずと声をかける。

 「その、カナエさん……は?」

彼女の気になる事とは、彼の相棒らしき存在のカナエの居場所。

少なくとも油断の出来る状況じゃないのだから、どこかで見張りをしているのではとシクカは考えているのだが……

 「朝、弱いんだよね。カナエ」

 「え」

 「だからまだ寝てる。お昼前には来ると思う」

返って来たのはごく普通の返答だった。

 「そ、それは、大丈夫なんですか……?」

場所が場所なだけに戦力は一人でも多い方がいい。

にも関わらず、この中で唯一の獣人の目覚めが遅いのは戦力が半減どころの話ではなくなってしまう。

 「カナエさんも使えるんですよね、魔法」

その一番の要因は獣人のみが使える特殊な能力ーー魔法の存在だ。

何もないところから火を放ち、或いは水を湧かせて風を起こす。

その種類は四大元素の火・水・土・風に留まらず、状態変化の氷、天より下される雷がある。

更には、神代より生きる獣人の中には光と闇を操る魔法も存在するらしい。

加えて、獣人を強力足らしめているのは、魔法を理解する上で培われた耐性とでも呼ぶべき強靭性だ。

ある者は火に対して強く、ある物は水に対して強い……と言ったように、魔法の源となる力を身体に薄く纏わせ耐性を自身に付与している。

この二つが文明で勝る人間が彼らに事戦争で拮抗を余儀なくされる一番の理由である。

勿論、その耐性に無い攻撃を加えれば獣人と言えどひとたまりもないが、群であり軍である以上弱点は補われ巧妙に隠されている。

 「そんな大事な人が寝てたら、ここが襲われた時に大変なんじゃ…」

その為、今この場で最も戦力を有するのはカナエという事になるだろう。

彼女が何を使い、何に耐性を持っているのかはシクカの知るところではないが、少なくとも武装した人間数人分の戦力になる。

そんな存在がもう暫くの間アテにならないのは明らかに痛手だ。

 「それも多分平気。俺いるし、カナエが起きるまでは持つと思う」

けれど、シルベは不安な様子もなくそう言った。

 「多分……って、いくら腕前が確かでもあんな旧式の銃じゃ」

 「……まぁ、平気だから」

彼女の不安を慮るフリも無くシルベは言い切り、食事の分配に戻る。

 「平気って……」

どこからその根拠が来るのか分からず、シクカの不安はますます募るばかりだった。


                  ーーーー


 シクカが彼の妙な自信の理由を知ったのはそれから一時間ほど後だった。

 「……敵、来たよ」

 「え……」

部屋の扉が開け放たれ、その先に立っていたカナエが敵襲を告げた。

 「数は?」

 「人間が二。武装はしてるけど多分見掛け倒し。別の場所であった戦争で逃げてきた奴らだと思うよ」

 「……分かった。俺が行ってくる」

何が何だか分からないまま話しが進められ、シクカが意見を言う暇も無くシルベは部屋を出て行く。

 「い、良いんですか?」

 扉を閉めて完全にシルベが居なくなってからようやくシクカが口を開くが、カナエは心配する様子もなく席に着く。

 「心配なら見てきな。アタシは万一にも見られるわけにはいかないからさ、ここでご飯でも食べてるよ」

 「そんなご飯って……」

余程彼を信頼しているのだろう。そう言うとカナエは本当に食事を始めてしまった。

 「……見て来ます」

 「うん、行ってらっしゃい」

一口レーションを運んでからカナエが答える頃にはもうシクカはいなくなっていた。


                   ーーーー


 ーーこ、ここからなら……

 外の見える窓を探し当て、覗き込むようにしてシルベの立つ場所を見るシクカ。

丁度、シルベが武装している男二人と鉢合わせしている状況だ。

 ーー話……確認してる?

二人と一人。立ち向かい合っての硬直。

何かを話している。そしてそれは恐らく【ここに来た理由】。

 ーーどうするつもりなんだろう。

昨日の彼の行動を鑑みるにまともな会話は不可能にも思える。

それでもまだ戦いは始まっていない。

……いや。

 ーー銃……!

会話していると思しき人物ではない方の人間はシルベに銃を向けている。

 ーー電子小銃!!

レールガンの技術から発展して開発された電気そのものを弾にして撃つ小銃だ。

 ーーあ、あんなの耐性もない生き物が撃たれたらひとたまりもない!

シクカがそう思った瞬間だった。

何処かに、雷が落ちた音がした。

空間を裂き、地を焦がす、光を伴った乾いた音。

それは、もしかしなくてもシルベのいる場所からだ。

 ーー銃の音……?けど。

銃を向けられているはずのシルベは倒れてもいなければ流血している様子もない。

 ーーじゃあ、なんの……

そっと顔を出し、辺りを見渡そうとすると、再び雷の音が鳴る。

 ーー……今、シルベ君の手から何か出た…?

ほんの一瞬。

僅かな間ではあったが、二人と相対するシルベの右手の何処かから何かが見えたような気がした。

そうして三度鳴る雷鳴。

 ーーやっぱり。

シルベから視線を外さず、じっと目を凝らしていたシクカは今度こそ視界に捉える。

 ーー線が出てる。

見据えていたシルベの右手。

その指の何処かから白い歪な線が、確かに伸びた。

 ーーアレが音の正体?じゃあ……

白い線が何なのかに気が付くと同時、三人に大きな動きがあった。

さっきまでの男とは別の方が銃を構える。

恐らくは引き金を引いたのだろう。だが、弾は出ていない。

その証明にシルベは倒れていない。

それどころか、倒れているのは寧ろもう一人の人間の方だった。

銃を撃った男が倒れた方に慌てて駆け寄る。

そこで、男は窓越しでも聞こえるほど大きな悲鳴を上げて数歩後ずさった。

 ーーやっぱり。

倒れた男の目深に被っていたヘルメットが転げ落ちた事で、シクカもその顔を目する。

……と言っても、それは顔と呼べるほどのモノではなくなっていたのだが。

 ーー焦げてる。しかも真っ黒に。

火の点いた何かを押し付けたわけでもなく、火炎放射器の類を使ったわけでもない。

にも関わらず焦げているのなら原因は電流だろう。それも人体が焦げるほどの超高電流。

ならば考えられるのは一つしかない。

 ーーでも、どうしてシルベ君が手から雷を出せるの……?

確かに魔法を操る者ならばそれも可能だ。

けれどシルベは人間だ。

過去、幾ら人間が試そうと成功しえなかった、人が魔法を操るという行為。

シクカの知る限りでは、そもそも人間には扱えない能力だと上官達から聞いてる。

 ーーなのに、使ってる?

単なる見間違いの可能性はない。

少なくとも二度、彼の手から伸びる歪な白い線を目の当たりにしているのだから。

 ーーまた……!

四度目のは、今度こそ[魔法]だと確信しえる方法で雷を見る。

天に掲げた右手を振り下ろすと同時、紛れもない雷が生き残っていた男の頭上に降ってきたのだ。

人間が光速を躱す事など不可能。

男は成す術無く雷に撃ち焦がされ、その場に倒れた。


                    ーーーー


 「使えるんですね、魔法」

 「うん、使えるよ」

 「どうして、ですか」

 戦いを見終え、シルベよりも先に戻ったシクカは食事を終えたらしいカナエに問う。

 「どうしても何も、アタシが教えたからさ」

 「それは分かってます」

沸き上がる不可解な苛立ちを抑え、シクカは席に着く。

 「それは分かってるんですよ。私が効きたいのは、何で人間が魔法を使えるのかって事です」

怒るべき相手がカナエでない事は彼女も重々承知している。

それでも、何故か沸き上がるその苛立ちを完璧に抑え込めるはずもない。

 「人間には、魔法は使えないんじゃないんですか!?」

 「……むぅ」

テーブルを叩かんばかりに立ち上がり問い質すシクカ。

それをカナエは眉を潜めて数秒程悩むと、思いついたように答えた。

 「忘れたから……じゃないかねぇ」

 「わ、忘れた?」

 「うん。もう覚えてないだろう?それぞれの神の名前とか」

聞きようによっては間の抜けた答えに、しかしシクカには妙に合点がいってしまう。

神。それは人間が最初に存在を疑った神秘だ。

 「各地域によって元素を操る神の名は違う。だけど、元々はそれぞれ同じ神様なんだ。それをアタシ達は覚えてる。シルベにも教えた。

けど、アンタたち人間は忘れちまってるし、教えたところで根っこから信じる人はいない。挙句鍛錬も努力も嫌うんじゃ、まぁ使えるわけはない」

言いながら、カナエは傍に置いてあった小銃を取り出す。

 「アンタら人間は確かに進歩した。魔法にも劣らない力を、万人に配れるだけの汎用性を創り上げた。それ自体は凄い事だと思うよ。

けどね、お陰で神秘を信じなくなっちまった。そりゃあそうさ。科学の第一歩は神秘を疑う事から始まるんだから。

雷の神秘を静電気と言い、物が燃えるのは原子の結びつきだと言う。そしてそれは実際その通りだった。だから科学は発展したんだろうね。神の存在を否定しながら」

装填された弾を抜き、弾倉を抜き、ただの鉄の塊へと変化した小銃をカナエはテーブルの上に置く。

 「な、なら。カナエさんもシルベさんも神様は本当にいると思ってるんですか……?」

 「当り前さ。特にアタシは、見た覚えのあるっていう老人たちと話した事があるしね」

 「老人……って、神代から生きてるって言う……?」

シクカに言われ頷くカナエ。

けれど、理解は出来ても納得が行くはずもない。

 「で、でも、カナエさんは見た事無いんですよね!?じゃあ本当かどうか分からないじゃないですか!」

 「分かるさ、本当だってね」

 「な……」

一つの淀みのない目で、カナエは言い切る。

 「アタシら獣人は仲間にも敵にも嘘は吐かない。だから信用できるんだ。

……疑う事で発展してきた人間には信用できない話かもしれないけどね」

 「それは……」

他人が【見た】という、本当かどうかも分からない目撃談を。

 「おっと、そろそろあいつが帰ってくる頃だ。アンタもそのシケたツラやめてやんなよ。殺しをやった後のシルベは落ち込みやすいからね」

カナエの言葉に何も言えず俯くシクカに告げられるシルベの帰り。

言われて耳を澄ませば、確かに足音が聞こえる。

 「……シルベ君に、魔法の事聞いてもいいですか?」

 「構わないよ。……と言ってもあっちが良いって言えばだけどね」

 「はい……」

『疑う事で発展してきた』

その言葉にシクカは言いようのない猜疑心を覚えながらも、未だ蟠るやり場のない怒りの解決口をシルベから魔法の話を聞く事で埋めようとした。



                     ーーーー



 結論から言えば、シクカは魔法の事を教えてはもらえなかった。

理由は単純明快。

『信用してくれていない人間に話せばどんな風に扱われるか分からないから』。

それでも二度頼んでみた。だが返答は同じ。

けれど代わりに、見せてもらう事は出来た。

 「はい。雷の糸」

 「す、凄い……」

シルベの左右の人差し指の間に出来た真っ白く細い一本の線。

僅かに歪んではいるものの、間違いなく糸と呼べる代物だ。

 「で、ここに物を通すと、だ」

何処からともなくやって来たカナエが手にしていたのは食べかけのパン。

それを、糸を切るようにして真っ直ぐに通すと、静電気のはじけた音が三人の鼓膜を叩く。

 「カナエ。やるならやるって言って」

 「はは、ごめんごめん。焼いたパンが食べたくなってね」

衝撃音に顔を歪ませるシルベにからかい気味の笑みを溢してカナエは焦げ気味のパンを口に放る。

 「ん、焦げ臭い」

 「そりゃそうだよ」

そうしてもう一度笑みを溢し、席に着いた。

 「さてと。敵襲もあった事だし、いよいよここにはあんまり長居できなくなっちまった」

その口から発せられたのは先程の襲撃による事態の悪化。

 「そこで、明日からの行動を決めようと思う。当初の目的通り、アタシとシルベの暮らす場所を探す……ってのでもいいんだけど、状況が少し変わってきちまった」

言いながらチラリと、カナエはシクカに視線を向ける。

 「聞きたいってのは、シクカが今後どうしたいのかって事だ。

アタシらとしては、ここでの出来事や会った人物をきれいさっぱり全部忘れてくれるなら問題ないんだが」

僅かに鋭く感じられるカナエの目。

僅かに恐怖を覚えながらも、シクカは二人を見据えて口を開く。

 「私は……できる事ならもう少し二人と一緒に居たいです。理由は……」

そこまで言って彼女の口は言い淀む。

 ーーなんて言えばいいんだろう。

鳩尾の底辺りから湧いてくる妙な感情を、彼女は言語化できない。

そのせいで肝心の理由が口に出来なかった。

 「信じてみたいから」

 「……え」

 「信じてみたいから、ってのじゃダメかい?」

それを、カナエが代弁した。

 「別にいいじゃないか。確かに恥ずかしい言葉かもしれないけどさ、つまるところ生き物が求めるのは信頼だろ?それを同じ人間のこいつや、敵のはずのアタシで確認しようと思ったって何も変じゃない」

 「そうだね。食料もまだあるし、とりあえずは平気じゃないかな」

彼女の言葉に頷き、共に行動した際の不安の一つを払拭するシルベ。

 「……ありがとう、ございます」

 「って事で、目的はアタシら三人の住む場所探し……でいいかい?」

一点の曇りもない二人の暖かさに触れたシクカはカナエの提案に小さく頷いた。



       ______________________________



 その日の夜、三人は基地跡地を後にした。

向かう先はここから東に離れた先にある大きな森。

もう一度棄てられた木こりの小屋を探す事になったのだ。

 「けど、そんなに都合良くありますかね?」

 「分からないけど、それしかアテが無いからねぇ」

 「見つからなければ建てればいい」

 「まぁ、そうなるよね。建築は専門外だから勘弁して欲しいところだけど」

会話を漏らしながら荒野を進む三人。

相変わらずの武装具合で行く彼女らだが、上辺だけの服装でいくと砂漠を進むアラブ人のように顔や素肌を隠している。

 「しかし、こんないいものがあるなんて思いもしませんでした」

ただの薄布にも見えるそれをつまみ、一度覚えた驚きをもう一度口にするシクカ。

 「……確か、【対索敵布】だったっけ?レーダーに映らず、ある程度の迷彩の効果もあるって言う」

 「そうですね。この布が自動的に周りの風景を投影して、比較的高い迷彩を施すんです。

非常に高価なので、指揮官等の位の高い方が逃げる際に使用するため数着だけ用意されるのが普通なんですが……」

 「数があったから、逃げた偉い人は少ないって事かな」

 「……多分、そうなります」

図らずも理解してしまったあの基地であった戦争の決着にシクカは表情を曇らせる。

 「あそこ、どうなるんですかね……」

 「まぁ、壊されるだろうね。方法は、焼くか埋めるかのどっちかだと思うけど」

 「……そうですよね、やっぱり」

自ら聞いた答えにも関わらずシクカは双肩を落とす。

 ーー辛いな。

あそこは自身の配備された場所ではない。

けれど、全く関係のない存在だとも言いきれず、どうしても寂しさを感じてしまうようだった。

 「次の場所は、長く住めるといいですね」

 「……ああ」

 「うん」

踏みしめる乾いた土に何かを想いながら、シクカはカナエ達の後に続いた。


                  ーーーー


 彼方に太陽の頭が見える頃になって、彼女達は目的の森に着いた。

鳥の声や獣の嘶きが聞こえるところを見るに、まだ戦火に追いやられていない場所のようだ。

 「とりあえずは大丈夫、かもね」

 「うん」

 「だと、思います」

各々目深に被っていたフードを外し、数時間ぶりに空の下に素顔を曝す。

その顔は夜間に行軍したこともあり、決して晴れやかなモノではない。

が、さりとて疲弊しきった顔というわけでもなかった。

 「さ、行こうか」

カナエの言葉を合図に森の中に足を踏み入れる三人。

青々とした緑が生い茂り、獣道らしきモノでない場所は歩くには向かない程に草木が群生している。

 「……うん、動物が沢山いる」

 「みたいだね」

変わらず先頭を行くシルベとカナエは付近の物音を耳にしながらそんな事を口にする。

 「もしかしたら、アタシらが住んでいた場所から逃げたのもいるかもねぇ」

 「だとしたら少しかわいそうな気もするけど」

 「ま、仕方ないさ。じゃなきゃこっちが死んじまう」

草や木を分けながら彼女らは速度を緩めず進む。

そうやって二十分ほど進んだ頃だろうか。

 「……ホントに、あった」

驚きに近い感想を漏らすシクカが目にしたのは、二、三人なら住めそうな大きさの平屋だった。

 「と言っても、気は抜いちゃだめだよ」

 「分かってる」

 「は、はい」

人の住まいがあるーーという事は、そこには誰かがいるかもしれない。

至極当然の考えにも関わらず、シクカは家を見つけた喜びで失念していた。

 「後ろは私が……」

 「ならアタシは前だね。シルベ」

 「うん。俺は奇襲に備える」

 恐る恐るの提案を、カナエとシルベは迷うことなく受け入れ簡易的に陣形が形成される。

 ーー本当に信じてくれるんだ。

 「(開けるよ)」

シクカの心の声が二人に聞こえるはずもなく、カナエは付帯に視線で合図を送ると勢いよく扉を開ける。

扉が壁にぶつかって響く大きな音と、同時に微かになる銃器を構えた音。

しかし三人の前に敵は見えない。

 「アタシとシルベは別室を見てくる。シクカはそのまま外を見張ってて」

 「分かりました」

手短に指示を下し、頷き合ったカナエとシルベは入り口にシクカを残して先へ進む。

 「アタシはこっち。あんたはそっちを頼むよ」

 「うん」

二手に分かれたシルベが向った先はリビングから扉一枚を隔てた先にある場所。

見えるのは流しや棚、ガスコンロだ。

 ーー台所か。人か獣人は……

注意深く辺りを見渡し、気配を探るが誰か居る様子は無い。

人型の生物が隠れられるところがない事からも、この部屋にはシルベ以外誰もいないだろう。

 「ここは大丈夫か。後は、カナエの方だけだな」

踵を返し、カナエの向かったもう一つの部屋に向かうシルベ。

途中、シクカに視線を向けると、彼女から『敵は来ていない』と合図を貰う。

 「カナエ、大丈夫?」

 「……ああ」

開けられていた扉を潜り、先に進むシルベ。

そこには銃をしまったカナエが居た。

 「ここは?」

 「見た感じ脱衣所、だね」

そう言われ、シルベは周囲を確認する。

あるのは網目状の木の籠が二つと、別室に繋がる扉だけ。

 「……そうだね。向こう側にも人影はないし、ここも安全そう」

 「だと、良いけど」

 「……?」

確認する限りでは人型の生物が隠れている様子は無い。

にも関わらずにカナエが妙に歯切れが悪いのは、何かを感じたからだろう。

 「臭いでもするの?」

 「……まぁね」

鼻先を軽くヒクつかせ、周囲の臭気を探るカナエ。

その顔は険しい。

 「……やっぱり臭うね。しかもこの先から」

 「……浴室」

カナエの視線の先は隣の部屋。

 「それも生きた臭いじゃなくて、鉄臭い血と焦げた肉の臭いだ」

そこにあるモノと言えばシャワーと浴槽がせいぜいだろう。

 「どうも死んでる臭いね。しかも、一人二人じゃない」

 「でも、だとしたら腐敗臭がしないのはおかしい」

カナエに続き臭いを確かめるシルベ。

獣人の彼女ほど鋭敏な嗅覚をしているわけではないが、死骸の腐敗臭が分からない程鈍感な鼻もしていない彼にも死臭を嗅ぐことはできない。

 「……うん」

彼の言葉を聞き、何かを覚悟した彼女は浴槽へと続く扉を開ける。

開かれた浴室。変わらず臭いはない。

……だが。

 「勘弁してくれないもんかねぇ」

カナエは鼻先を抑えてその場に屈んだ。

 「どうしたの?」

 「……いや、分からないんならそれでいい。ちょっと、これは刺激が強すぎる」

 「……?」

カナエの言葉の意味が分からないまま浴室の壁や浴槽を確認するシルベ。

しかし、やはり生き物の死骸や血など無く、埃がかなり溜まっているだけで異変はない。

 「こびりついてるんだよ」

 「……臭い?」

シルベのその行動に不快感を感じたのか、カナエは苛立ち交じりに口を開く。

 「ああ。ここで何度となく殺されてるみたいだ。それが人か獣人かまでは分からないけどね」

 「……そういう事」

陰鬱とした表情の彼女のその言葉でシルベは全てを理解する。

この部屋一帯に血の臭いが染みつくほど何かが殺されていたのだと。

 「……兎にも角にも、シクカのところに戻ろうか。この後どうするかはあの子も交えて決めよう」

 「分かった」

言いながら若干ふらつき気味に立ちあがったカナエは浴室の扉を閉めると、シルベと共にシクカの待つ部屋へと向かう。

 「……あ、どうでしたか?」

カナエの指示通り、外を見張っていたシクカは彼女達が戻ってきたのを見ると二人に駆け寄る。

だが、近づくにつれて二人の表情が曇っている事に気が付き、シクカはばつが悪そうに俯いた。

 「……悪いね。敵とかはいなかったんだけどさ」

 「良い場所ではない」

 「……そう、でしたか。残念です」

カナエの沈み込んだ表情を見たシクカは何を見たのかを薄っすらと予想できた。

 ーー死んでるんだ。ここで。

今のカナエのように、覆いかぶさる虚無を一身に受けて顔に出してしまう時があるのをシクカは知っている。

それは戦争をしているのなら日常的に目にしてもおかしくない、死に直面した時。

殺すでも、殺されるところでも、人・獣人・その他の生き物に関わらず、生き物は少なからず関心のある存在が死んだのを知った時、彼女のような顔をしてしまう。

 ーー臭いがしたんだ。死体か、何かの臭いが。

確証があるわけではないが、シクカは漠然とそう考えた。

 「……どうしますか?」

だとしたら、ここでの長期滞在はカナエにとっては悪影響になりかねない。

 「私は、今すぐここを出ても平気です」

脚にへばりつく疲労を無視して告げるシクカ。

それを聞き、カナエは一瞬目を見開くと。

 「……いや、大丈夫だよ。あっちの部屋にさえ行かなければ大丈夫」

小さく笑って答えた。

 「けど……」

 言って、けれどシクカは思い直して。

 「分かりました。じゃあ、とりあえず落ち着きましょうか」

彼女の言葉を受け入れた。

 「ああ。そうしようか」

もう一度笑い、カナエは部屋を見渡す。

あるのは四~六人分の、埃の被った大きなテーブルと四つの椅子。それらはどれも質素な木製の物だ。

その椅子の埃を軽く払い、それぞれ腰を落ち着けて背負っていた荷物を下ろす。

ソファなどの嗜好品は無いとても簡素な部屋だが、暮らす事自体は問題ないだろう。

 「別の部屋も見た感じ、ベッドだのは無いから、本当に一時的な住まいなんだろうね」

 「休憩所みたいな感じかな」

 「どうでしょう。こんな森の中なのであってもおかしいとは思いませんが……」

それぞれがあえて口にしない浴槽の話。

彼女達は言いながらもうすうす気がついている。

ここが【監禁所】だったことに。

捕虜にした敵兵をこの家に閉じ込め、複数人で尋問なり拷問なりを行う場所。

その為寝る場所など必要ない。必要なのは監視する人間と彼らが食事をするのに必要な食器類だけ。

万一にも捕虜が逃げ出した場合、寝首を書かれてはひとたまりも無いから。

幸いなのは、この家全体に埃が溜まっていた事だ。

あの量の埃があるのを見るに、ここは暫く使われていない事になる。

 「まぁ、寝床は寝袋があるからどうにでもなるからいいとして、問題は汗とかで汚れたこの身体をどうするかだけど」

 「一応、外に作れない事は無いんじゃない?時間は掛かると思うけど」

 「……まぁ、暫くは川とかでの水浴び、ですかね」

 「「……う~~ん」」

突き付けられた現実に額を悩ませるシルベとカナエ。

これまでが比較的文明的な生活だったために、入浴出来ないのはかなり思うところがあるらしい。

 「……けど、こればっかりは仕方ないね。とっとと新しい浴槽造りに手を付けた方が早そうだ」

 「そうなると今必要なのは川だね。水浴びはそうだけど、飲み水も確保したいし」

 「だねぇ」

何処か憂鬱とした二人の表情。

シクカはその顔に疑問を覚えた。

 「何かあったんですか?」

 「うん。前に住んでた場所で一番大変だったのが水場を見つける事だったのさ。本住まいでもない限り、水なんて引いてこないからね」

 「あそこは傾斜の上に川があったから引くのは簡単だったけど、見つけるのが大変だった」

 「あ、なるほど」

前回見つけるのが余程大変だったんだろう。口を開くたびに二人の顔が曇っていく。

 「今回も簡単に引ければいいんだけど……」

 「濾過の設備も作り直さないといけないから、思ったよりやる事は多そうだね」

 「あ、あの」

今にもため息を吐きそうなシルベとカナエを目に死、シクカは思い切ったように手を上げる。

 「でしたらとりあえず、私が探してきましょうか?」

そうして提案したのは、水場の捜索だった。

 「さ、流石に水を引くのは一人じゃ無理ですけど、見つけるくらいなら何とかなると思います。それに、手が空いてるのは私だけですから」

提案を口にしながら少しずつ自信が失われていく。

けれど、彼女の不安は杞憂に終わる。

 「本当かい!?助かるよ!!」

 「ありがとう!本当に探すの大変だったから嬉しい!!」

 「あ、へ……?」

弾けたように席を立って詰め寄る二人。

 「そうと決まれば早速始めようか!!」

 「だね!見つけてもらった時に準備が終わって無かったら申し訳ない!!」

そうしてすぐに、シルベは濾過装置、カナエは新しい浴室の構造を考え始めた。

 「……あ、あはは。じゃあ、行ってきます」

 「「行ってらっしゃい!!」」

家の扉を締め切るまで振られ続ける四本の手。

予想以上の二人の反応に、シクカは【信用してもらえて嬉しい】よりも、【そんなに辛かったんだ】という不安感を多く抱いたまま水場探しに向かった。



                 ーーーー



 シクカが水場を探しに森へ出てから十五分ほど経過した。

家を出てから一先ずは森の中を進んでいたのだが、現状、彼女はまだ水場そのものはおろか、それらしき場所の検討すらつていない状態だった。

 ーーた、確かに、大変だ……

草木が茂っているからか妙に蒸す中を汗を拭いながら進むシクカ。

 ーーこんな事なら探しに行くなんて言わなきゃよかった。

湿気による苛立ちと、見つからない事による焦りのせいで今の彼女の精神状態は限りなく極限状態に近い。

 ーー大丈夫。集中力はあるはずだから。

そんな気分を変える為、大きく息を吸い込み肺に空気を送り込み、煙のように鬱陶しいイライラや余計な思考を一気に吐き出す。

そうして明瞭になった心と頭、更には五感を使い捜索を始めた。

彼女が探るのは音と匂い。

研ぎ澄ました聴覚で水流を探り、感覚に近いとはいえ香る水の匂いを探る。

 ーー焦らない。獣が居て、木々や草々があるんから水源は間違いなくある。

自分に言い聞かせ、耳と鼻に意識を集中させるシクカ。

その中で感じるのは数匹の獣の声と風に揺れる草の音、程よく水分を含んだ土の濃い匂い。

けれど。

 ーーダメかぁ……

集中を解き、成果を得られずシクカは肩を落とす。

 「……仕方ない。もう少しだけ探してみてもダメだったら帰ろうか」

独り言ちながら見上げる空は、太陽がもうじき中天を過ぎる頃だ。

 ーーそう言えば、朝ご飯もまだだっけ。

気が付いた途端に切なく嘆く胃に頬を掻き、シクカはもうひと踏ん張りと歩き始める。

その時だった。

 ーー誰か居る……?

唐突に、甲高く響く音が聞こえた。

それは獣の鳴き声などではなく、シクカがまだ隊にいた時に日常的に耳にしていた音。

金属同士が擦れる、戦争の音だった。

 ーーどうしよう……

一気に早まる鼓動の音を鼓膜に強く感じる中、シクカは胸元の内側に潜めていたナイフに手を当てた。



                  ーーーー



 「あの子、遅いねぇ」

 「うん」

 あれほど埃の支配していた室内が見違えるように綺麗になり、三人分の食料が並んでいるテーブルを挟んでカナエは呆然と家の出口に当たる扉に視線を向けた。

 「もしかして、逃げちまったかねぇ」

 「どうだろう。そんな感じはしなかったけど」

 「アタシもそうは思うんだけど……」

二人が待ち望んでいるのは水場を探しに出かけたシクカの帰りだ。

彼女が家を後にしてから時間は既に一時間を過ぎている。

二本しかない小銃が部屋の隅に立てかけられているのを見るに、彼女は丸腰に近い装備で出かけて行ったのだろう。

持っているのはせいぜいがサバイバルナイフと小さな懐中電灯くらいか。

 「……信じきれなくて逃げるっていうなら、せめてライフルくらいは持ってくと思うんだけどねぇ」

 「怪しまれないように敢えて、とも考えられるよ」

会話を紡ぎつつも扉の開く音を心待ちにする二人だがやはり蝶番の軋む気配はない。

 「ま、どちらにしても待つしかないね」

 「だね」

そう言って、二人はひと段落したはずのそれぞれの仕事を再び始めた。

……それから数時間。

すっかり外に夕陽が満ち始めても、シクカの声は聞こえなかった。



                 ーーーー       



 その日の晩。

以前と同様に二人だけで夕飯を摂ったシルベとカナエは寝袋を並べて床についていた。

明かりはない。外へ続く扉も厳重に閉じられている。

 「迷ったんだろうねぇ」

その中でカナエは彼女の帰りを待っていた。

 「どうだろうね」

薄ぼんやりと確認できる天井を見つめ、溢したカナエの言葉にシルベは気を揉む様子もなく答える。

 ーー仕方ない。

彼女の想いを受け取りながらも、シルベの気持ちは固まっていた。

 ーー結局、人間はそうなんだよ。カナエ。 

落胆がないわけではない。

水場を探しに行くと言い出してくれた時は嬉しく思い、途中までは帰ってくると信じていた。

けれど、昼食時が過ぎてからは察する事が出来てしまった。

『もう、帰ってこない』のだと。

ただ、帰って来ないんだと、シルベは分かってしまった。

その理由が【疑いからくる諦め】なのだと分からない程彼は子供でもない。

 「今日はもう寝よう。迷ってるんだとしたら夜には多分帰っては来れないし、明日、シクカを探しに行こう。ついでに水場も探しに」

 「……そうしようか」

薄く沈んだカナエの返事。

 「うん」

初めて聞く彼女の寂し気な声に、シルベは寝返りを打ちながら答えた。




         __________________________  





 翌朝、シルベは妙な物音で眼が覚める。

まるで一個小隊を思わせる足音と、それに伴う兵装の擦れ音。

例えそれが聞き違いだったとしても、重い瞼が一瞬で跳ね上がるほどの異様さだ。

けれど、シルベは寝袋からは飛び起きられても、家の扉からは飛び出せずにいる。

【荷物纏めて裏口から逃げろ。アタシは大丈夫だ】

もぬけの殻になっていた隣に唯一残されていた置手紙に書かれているのカナエからの言葉。

しかも、尋常ではない状況を知らせる走り書きだ。

 ーー人間が来た……!?

過ったのは敵襲だった。

それも数日前にもあった二人などと言う腑抜けた数ではない。

 ーー本物の、軍……

獣人は生身の戦闘を好む事からも、敵襲は複数人の人間で間違いない。

 ーーでも、何でここが?

書置きの通りにするため、手早く荷物を纏めたシルベは窓から覗かれないよう屈みながら別室へと向かう。

 「(……いつの間に)」

台所の方へと向かい彼が目にしたのは成人男性でも屈めば通れるくらいの小さな扉だ。

 ーー兎に角出ないと。

逸る気持ちを抑え、荷物を押し出しながら進むシルベ。

後方からーー家の外からの音は聞こえない。

銃声も、悲鳴も、足音すらも今は聞こえない。

 ーーカナエ……

それでも、[何もないだろう]と楽観視は出来ない。

今は、ひたすら彼女の無事を信じて進むしか彼に出来る事は無かった。


                 ーーーー 


 衣擦れと金属、そして不安を煽る鼓動の音に耐えきったシルベはやっとの事で外へと出る。

僅かに上がる呼気と微かに痛む腰に顔を顰めながらもシルベは急いで来た道を戻る。

【逃げろ】とあった書置き。

その意味を理解しながらも、彼は戻らずにいられなかった。

 ーーどれだけいても、別方向から魔法と銃を使えば……

限りなく薄いが勝算自体はある。

シルベがまだ人間だけと住んでいた頃に教えてもらった、【不明瞭な敵との戦闘は避けろ】という考え方。

これを利用すれば、或いはどうにかなるかもしれない。

人間達は、獣人は銃を使わないと思い込んでいる。

そこを突き、シルベが銃を撃ち、魔法も使えば如何に群れでいるとは言え、余程大人数でもない限りは作戦続行の考え直しを図れるだろう。

そのためには、シルベ側も複数人であると思わせなければならないが、彼の持つ雷の魔法を用いれば、雷を扱う者と火を扱う者の両者を演じつつ銃を扱う者も用意できる。

天から雷を落とし、この間に手から伸ばした雷で木や草を焼き、混乱している間に銃声を響かせる。

シルベの演じる二名の獣人と一人の人間、更に先に対峙していたもう一人の獣人であるカナエと合わせれば計四人。

獣人一人で武装した兵数人分の戦力になり得るのを十二分に理解している軍相手になら、これだけの数を匂わせるだけで撤退指示を引き出せる可能性はある。

 ーーなんとか持ち堪えてて……!

迷う事なく固まった決心を抱き、シルベは駆ける速度を更に上げる。

聞こえ始めるのは銃声の音。

二重や三重どころではない。四重五重にも重なる軽快な音。

こんなもので生き物の命などとれるのだろうかと、疑ってしまう程の軽い音だ。

けれど、シルベは知っている。どんな生き物であれ、こんな音しか出ない武器で殺せるのだと、嫌と言うほど理解している。

脚が早まる。

最悪の事態を思い巡らせない様にとひたすらに走る。

肩に当たる草木や枝に気を留めず、背負っている重みも鑑みずの全力疾走は、抜け穴から出るのにかかった時間の半分以下で家へと彼を辿り着かせた。

急いで家の陰に隠れ、戦場を覗き見るシルベ。

全体の把握は不可能でも、断片的な戦力なら分かるだろう、と。

……だが、そこで見たのは想像していた出来事を遥かに超える状況だった。

 「(なんだよ、これ)」

思考に留まらず漏れてしまう声。

それをかき消すのは放水の音。

つい昨日までは求めてやまなかった水が、今は相棒であるカナエに牙を剥いている。

その上で鼻腔を覆うのは焦げ臭い香り。

その時に、カナエの使用する魔法を知っている彼は理解してしまった。

小細工を弄する暇など無いと。

彼女が用いるのは土と氷。耐性があるのは雷と水と風。

使用する魔法の種類と耐性が自身の弱点に直結する獣人の大半はこの二つが補い合えるようになっている。

だが、カナエは氷に対して優位を取られてしまう兵器の耐性が無い。

だからこそ、火にはめっぽう弱い。

銃の掃射をされた可能性があるとはいえここまで明確な焦げの臭いが感じられる以上、火炎放射器を使われたと考えた方が無難だ。

となれば、カナエの状況を楽観視する事は出来ない。

 ーー行かないと。

蟠る思考を振り払い、シルベは小銃を手にする。

 ーー大丈夫だ、俺とカナエの二人で魔法を使えばちょっとくらいの数!!

意を決し、銃を構えたシルベは振り向く。

 ーー不意を突ければ状況が変わるはずだ。

そう考えながら。

ーーだが。

 「やめときな!!!!」

 「……!!」

カナエの怒声がシルベの耳を突き刺した。

 「出る幕じゃあないんだよ」

 ーーやっぱり、気付いてた。

土の魔法を操るカナエは、その応用としてある程度の情報を地面から得る事が出来る。

範囲こそそれほど広く無いものの、今日の敵襲に真っ先に気が付けたのはこの能力のお陰だろう。

その為、シルベが戻ってきた事にも気が付いたのだろう。

 「こんな程度、どうってこたないさ」

自信を思わせる言葉は、けれど悲痛さを内包している。

 「アタシを仕留めるんなら、この倍はいないとね」

その上で語られる言葉は、明らかに嘘だ。

けれど、だからこそ、シルベは理解してしまった。

 ーー死ぬ気なんだ。俺の為に。

なんとしてでも、自分を逃がそうとしている事に。

 「ほら、続きをしようじゃないか。生き埋めと氷漬け、どっちがいいか聞いてやるよ」

嘘を吐けば濁り、隠し事をすれば迷いが生じる。

獣人の中では当たり前で、戦場では最もしてはいけないはずなのに、彼女が禁を破ったのはそうまでしても守りたい事があるから。

そんなモノ、これまで二人で生きて来ていた彼女達の間にはお互い一つしかない。

 ーー俺だって、カナエの命は守りたい……!!

叫びたくなる衝動を必死に抑え、小銃を固く握る。

カタカタと震えるシルベの手。

死ぬのが怖いからではない。

これまで何度も命を奪ったのに、今更死に怯えていいはずがない。

彼が怯えているのは、カナエの想いを裏切る事だ。

絶対にあってはならない戦場での嘘を吐いてでも守ろうとした自身の命。

それをもし、ここで戦いに赴き自らの手で裏切ってしまえば、自分はもう彼女の仲間だと名乗れないのではないか。

仮にここを凌いだとしても、【逃げろ】という書置きを裏切った自分を彼女は許してくれないのではないか。

彼が最も恐れている彼女を裏切る行為。

これはもう、彼女を見殺しにする以外に回避する手段はない。

ーーだったら、と。

 ーー俺は、裏切る。

シルベは、意思を固めた。

彼女を裏切って信頼を失う。

彼女を見捨てて存在すらも失う。

二つを天秤にかけた彼は、信頼を失う事を選んだ。

 ーーいいさ。一人で暮らす事になっても。謝る機会さえないよりはマシだ。

シルベの手の震えが治まる。

迷いなど、もうあるはずもない。

 「カナエ、今……!!」

叫ぶ、最中だった。

 「……本当に、呆れた子だよ」

振り返り、前線に出ようとした瞬間シルベの前に大きな壁が現れた。

 「な、なんだよ、これ」

壁を叩くシルベ。

材質は間違いなく土だ。だがその密度は異様に高く、鉄と変わらない強度をしている。 

 「おい!!ふざけんな!!何でッ!!」

シルベは強く壁を叩く。

けれど声はない。

恐らくはドーム状に囲まれていて、中に音が届かないようになっているのだろう。

 「俺も戦うって!」

そんな事はシルベも百も承知している。

それでも叫ばずにはいられなかった。

 「また、俺だけ助けられて……!!!」

無機質な壁に阻まれ、成す術無くその場にへたり込むシルベ。

彼が今思い出しているのは、初めて彼女と出会った日の事。

激しく降り続く雨空の下、森の中で倒れていた幼い日のシルベ。

そんな彼を、カナエは見つけた。

その時の事をシルベは今でも強く覚えている。

鋭く無慈悲な眼光で見下ろしてくるカナエに対し、彼は謝り続けていたと。

『殺してごめんなさい』『意味もなく殺してごめんなさい』『何回もごめんなさい』『なのに、今日は逃げてごめんなさい』『責任を負う気も無いのに殺してごめんさい』

何度も。

何度も何度も謝った。謝り続けた。

二度と誰も殺さずに済むようにと願いながら。

もしも殺す時が来れば、意味と覚悟を持って殺すようにすると誓って。

ーーだが。

 「こんなの、責任も意味も何にもないよ……。覚悟だってしてないのに」

自分の意思を介在する余地もなく、殺した。

最も信頼し、失いたくなかったはずのカナエを見殺しにしてしまった。

 「……何で、あの時に家から逃げたんだよぉ……。一緒に戦ってれば……戦ってれば………!!」

込み上げてくる自己憎悪と涙。

だがそれをシルベは決して外には出さなかった。

出せばあの頃と同じになってしまうから。

己の感情大事さに逃げ出した子供の頃の自分と同じになってしまうから。

……だとしても、彼は口にせずにはいられなかった。

 「ごめん、なさい」

あの頃と同じだったとしても。

 「ごめんなさい」

なんの進歩も無かったとしても。

 「ごめんなさい……!!」

これ以上、彼女を裏切ってはならないと。

 「……仇は、取るから」

涙が霞むほどの怒りを面に出し、何としてでも壁に穴を空けたい気持ちを押し殺し、シルベは駆け出した。

当初の約束を守るため。

彼女の信頼さえも裏切らないため。

シルベは、カナエを見捨てた。




         __________________________





 その日の夜から明け方まで、シルベは考えていた。

ただ一人、木のうろの中で考え続けていた。

隣にカナエが居ない事の意味を。見殺しにしたのは本当に間違っていなかったのかを。

たった一人で、考えていた。

巡らせる思考の行きつく果ては己の無力さ。

指示された通りに動き、結果として大切な相棒を、友人を、失ってしまった。

怒りが沸き上がってくる。胃の中を全てぶち撒けんばかりの怒りが延々と湧き上がってくる。

同時に、悲しみも溢れていた。見る者が居れば、涙で眼球が押し出されないかを不安に思うほど溢れている。

 ーー俺達はただ……

抱えていた膝を強く抱きしめシルベは想う。

最愛の友人の死では泣いてくれない青い空を見つめて、思った。

 ーーただ、一緒に暮らせる場所が欲しかっただけなのに。

覚悟は決まった。

荷物を捨て、うろから這い出た少年は立ち上がる。

手にしているのはカナエの使っていた小銃だけ。

寝袋も食料もこまごまとした利便な道具も持たず、駆け出した。

向かう先はカナエが死したあの家だ。

 ーー意味なんて、多分ない。……だとしても。

これから己が取る行為を否定をしながらも、シルベの脚は止まらない。

その行いがカナエの望んだ結果には繋がらないと理解していても、あの時、裏切らないためにと駆け出していたとしても。

 ーーやっぱり、意味なんて無いよ。

全てを失った時点で、己の中に生きる信頼など何の意味も感じられなかった。見いだせなかった。

 「そっちに行ったら謝るから」

叫びそうになる想いを押し殺しての意志は、脚を止めさせる事無く彼の口をついた。




                    ーーーー




 木のうろを飛び出して三十分。

そうして到着した家から更に三分

行軍の後を見つけたシルベは難なく人間の軍の基地を見つけた。

走り、走り、走り続け、家を超えてからは雷の魔法の力を両足に帯びさせ稲妻の如き速度を手に入れた彼の靴裏は擦り切れている。

それでもなお走り続けていた彼の脚跡には滲む血痕が残っている。

なのに、彼の顔は穏やかだった。

……いいや、無表情と言った方が正しい。

何も面に出ていないのだ。まるで街中を歩く人々のように、平凡で当たり前な表情なのだ。

足裏の痛み、破裂寸前の肺と心臓。

そして、目にした黒焦げのカナエの遺体。

肉体的・精神的にそれら激痛を浴び浸りながらも、少年の顔には何も浮かんでいなかった。

ーー否。

浮かべようがなかったのだ。

怒り、悲しみ、絶望、憎悪、後悔、痛み。

彼が今理解できている感情だけでもこれだけの数がある。

それでもまだ明瞭化できない感情が彼の心には蔓延っている。

或いは怒りと悲しみだけが色濃く充満しているのなら、彼は楽に事に及べたのかもしれない。

けれど、シルベは少なからず理解してしまっていた、

人間と獣人の間にある大きな亀裂と、それ故に両者が行っている悪逆を。

だからこそ、人間側が獣人であるカナエに対して徹底的な行為をする事を、充分以上に理解してしまっている。納得できてしまう。

獣人側もまた、捉えた人間を虐殺しているのだから。

カナエが特別だっただけだ。彼女が優しかっただけだ。

敵とは言え、戦争を優位に進められる武器の一切を己たちの物にしようとしなかった種族がどうして憎悪を抑えられる。

捕虜に浴びせられる怒りの度合は、人間側の比ではない。

場合によっては、何の意味もなく生きたまま焼かれる事だってあっただろう。

その事を、シルベは知っていた。

彼女に拾われたその日に聞いていたから。

『アタシにも謝るべき事がある』

そう言って話してくれていたから。

 ーーああ。

鉄柵を飛び越え、シルベは敷地に踏み入った。

瞬間に鳴り響く警報器は、しかし即座に落ちた雷で黙りこくる。

 ーーなんで。

遠くで一人、三人、八人と増える人影。

彼らは皆、武装している。

だが【重】ではない。

迷彩服に身を包み、最も信頼の於ける銃火器を一つ抱え、予備の弾倉を腰に携えているだけ。

見えない所を鑑みてもせいぜいナイフを隠し持っているくらいだろう。

 ーー何で、人はこうやっていられるのに。

一斉に銃口がシルベへ向けられる。煩わしく響くセーフティが外される音。

だがまだ放たれない。

あちら側が気付いたのだろう。

侵入者が人間の子供だと。

【戦争孤児か?】

敵側の共通認識はそんなところか。

浮かんでいる。

困惑する思いがその顔に浮かんでいる。

シルベは彼らの顔を一人ずつ眺めた。

皆、殺し合いを経験している険しい顔つきだ。

だが、マズルはない。

獣人の半数以上に見られる、カナエにもあった犬や狐に見られるあの鼻はない。

 ーーそんなに顔が大切なのか?

身体を見る。

銃を撃つ為に、重い装備を身に着けられるように強く鍛えられた身体だと一目で分かる。

だが、体毛はない。

殆どの獣人に見られ、カナエにもあった体毛はない。

 ーーそんなに見た目が大切なのか?

彼らを見終えたシルベは歩き出した。

進む先は敵しかいないにも関わらず、恐れもせずに進む。

 「と、止まりなさい!!」

余程恐ろしく映ったのだろう。

迷彩服の一人が野太い声で彼の静止を促した。

銃口を向けながら。

 「聞きたい事がある」

けれどシルベは歩みを止めず、寧ろその男に尋ねた。

 「どうして殺した」

幾ばくか慌ただしかった人間側は、途端に静まり返る。

『殺した』とは何のことか。

或いは誰の事で、いつの事か。

直近であれば山に住む獣人の事だろうか。

それともいつぞやの争いで捕虜にした敵獣人の事か。

静かになった人間側にとって、【殺す】という行い自体が日常的過ぎて、『いつ』『どこで』『誰を』と、聞き返して当然の言葉さえ出なかったのだ。

 「怪しかったから」

膠着していた沈黙の中で唐突に上がったのは女性の声。

その声を、シルベは知っている。

 「結束が固いはずの獣人が、仲間達から外れて暮らすなんておかしいでしょ?」

 「……お前」

迷彩服を押し分けて出て来た、一人だけ服装の違う兵士。

ーーシクカ。

 「だから怪しかった。だから言ってることが全部怪しくなった。だから仕留める準備をして向かった。それだけ」

水場を探しに行って以来、行方の分からなくなっていた彼女だ。

 「なんで……」

これまで何一つとして顔に出ていなかった感情が、一つだけ露わになる。

 「なんで信じなかったッ……!!」

基地全域に行き渡るほどの怒声と、同時に鼓膜を叩く雷鳴。

 「アイツは、お前を!!!」

細くて白い歪な線が幾本もシルベの身体の周りに浮かんでいる。

それは、例え知識の無い者だったとしても一目で魔法と分かる現象。

なれば、と。一斉に引き金が引かれた

……はずだった。

 「うわっ!?」

 「な、何!?!?」

いつの間にかシルベを囲むようにして立っていた人間達から上がる悲鳴に近い驚き。

原因は、引き金を引いたにも関わらずに発射されない銃だった。

 「知ってんだよ。今の銃は電気で動くって。昔使わされてたしな。だから回路をショートさせた。もう弾は出ねぇぞ」

 「……だからあんなに古い銃を」

 「ああ。なんでかカナエもそれに付き合ってくれたんだけどな」

一体何人にその言葉が届いているかは分からない。

が、そんな事シルベには一切関係ない。

 「全員殺してやるよ。人間も、獣人も関係ない。他人の幸福を奪い取ったんだ。文句は言わせない。柵の外にいる奴らも、全員だ」

彼は警告をしているわけではない。

 「人間の言葉で言う漁夫の利を狙ってるんだろうけど、そうはいかない」

ただ覚悟を口にしているだけだ。

己の中での迷いが生じたときに、嘘を吐いた時に魔法の力が出なくなるように。

 「漁夫の利……?」

 「気付いてないのか?もう獣人に囲まれてるぞ」

一度腹にした覚悟を見失わない為に。

 「気付いて、って」

シルベの言葉に疑いを持ったシクカは柵の外を見渡す。

あるのは後方の平野と前方の森。

後方にはまず間違いなく生き物の影は無いが、確かに前方の森になら潜んでもおかしくはないが……

 「何で、分かるんですか……?」

そちら側から来たとはいえ、道中で眼にしていれば獣人側が黙っているはずがない。

……それとも。

 「まさか、引き連れてきたんですか。獣人を、仇討ちの為に」

唯一獣人と暮らした人間として、仲間と認められたのでは、と。

だが、それでは先ほどの言葉につじつまが合わない。

なら、考えられるのは別の事。

 「違う。アイツらは見てたのに助けなかったんだ。俺よりも、助けられる瞬間が多かったはずなのに」

雷鳴を伴い、天空より稲妻が森へ落ちる。

数は一。しかし、威力そのものは充分に高い。

木の薙ぎ倒れる音が響く。

……と、同時。

 「見くびったか。人間が魔法を使うなんてな」

十数人以上の数の獣人が森から現れた。

彼らは、カナエのように獣としての特性が高い者から、獣の耳が生えた程度の者まで様々いるが、皆一様に人間を仕留めようと身構えている。

 「な……!!」

 「だから言っただろ。俺はアイツらも殺さなきゃならないんだよ!!」

怒りの込められた言葉がその場にいる人間と獣人の数十人に向けて放たれる。

しかし、その半数は彼の言葉に耳を貸している余裕などなかった。

突如として現れた本来の敵と、疲弊したところを狙うつもりだった側。

両者が脅威とみなすのは、間違いなく最初に狙っていた方だ。

魔法を扱い獣人の仇討ちを旨とするとはいえ所詮は人間の子供。

生かすも殺すも結局は容易だと考えているのだろう。

ーーけれど。

 「違うだろ!!!」

シルベの叫びに合わせて降る五本の雷は、無差別に生き物を撃つ。

たちどころに上がる悲鳴。

直撃する、掠めて重傷を負う者は人間と獣人を問わない。

 「今の敵は俺だろうが!!昨日の敵に恐れてどうする!!」

更に落ちる雷は、やはりどちらと関係なく殺傷していく。

 「何故武器を向けない!何故肩を並べようとしない!!俺は、同族だろうが相棒の仲間だろうが関係なく殺すぞ!」

言うや否や大きく横薙ぎに振るわれるシルベの右腕。

その真正面にあたる敵地に、幾本もの雷の柱が降り注ぐ。

 「お前らもだよ!!」

振るった力の余力を用いて背後に身体を向け、シルベは更に右掌から光を三度放つ。

それらはそれぞれ別の木の頂点に当たり、傍に立っていた獣人達に電撃を浴びていく。

 「側撃雷だ!死にたくないならこっちに来い!!」

 「テメェ!!」

目の前で、隣で、死傷した仲間を見、獣人達は揃えて怒りを口胃に死、鉄柵を乗り越えてくる。

 「最初からそうしてればよかったのにな」

 「どけ!野郎は俺らが殺す!!」

シルベを囲む迷彩服の人間になど目もくれず、獣人達は我先にと彼へと歩を進める。

 「ダメだ!!我々だって仲間を殺されている!」

 「あぁ!?」

自分達より先んじて彼を打とうとする獣人を拒む人間。

それぞれの間で、再び引き金の引き絞る音が聞こえ始める。

 「だからッ!!」

それをかき消したのは辺り構わず叩きつけられる稲妻の音。

 「今の敵は誰か忘れんな!!」

 「こ、この野郎……!」

 「これ以上はやらせないぞ!」

この言葉を皮切りに、彼を囲んでいた人間と獣人達は一斉に敵勢力をシルベに固定した。

人間の殆どはナイフを手に持ち或いは素手で、獣人はそれぞれ魔法を使う準備を始め、彼に攻撃を仕掛ける。

 「そうだ、そうだよ!!」

多方面から迫り来る白刃を避け、いなし、掠めてやり過ごし、すれ違う人間に指先からの電撃を浴びせる。

室ではなく数に特化した彼の攻撃は、威力で言えばスタンガンかそれよりも僅かに低い程度しかダメージを与えられない。

だが、人間相手にならそれでも充分だ。

問題は、倒れた人間の影から飛んでくる火の玉や風の刃。

 「クソッ!」

実物が見えるのなら避けられる、パターンが分かれば予測もできる。

けれど、無作為に攻めてくる人間と、抜けた穴を埋めるように飛来する魔法を避け切る事などできず、致命傷のみを受けないようにするのが精一杯になりつつある。

 「このッッ!!」

勿論、シルベは反撃を試みている。

あらかじ魔法が飛んでくるだろう位置に相殺或いは威力の減少を狙っての雷を放って。

結果としてそれらは成功しているが、幾ら的確に放とうと向こうの数が多い。

右を見れば左、前を見れば裏から、攻撃が飛んでくる。

 「よ、良し!少しずつだが確実に当たってるぞ!」

 「ええ!」

人間と獣人が互いに攻撃の命中に喜ぶ。

その間にシルベは雷を撃つ。

 「舐めるな!!」

 「な!?」

二撃、三撃と、次々に余裕表情を浮かべ始めている敵に向け放たれるシルベの魔法。

 「クソ、このガキ!!」 

 「まだ殺し足らねぇってのか!」

それらは違う事無く命中し、相手の怒りを助長していく。

 「うるせぇ!頭に来てるのは俺なんだよ!」

猛攻と呼ぶにふさわしい攻撃が再びシルベを襲う。

飛来する火の玉に鎌鼬。それに被せられるように振るわれる幾つものナイフ。

けれど、シルベは決死の覚悟で飛び上がり、複数のかすり傷だけで収める。

 「俺は!ただ、あの人と一緒に暮らしていたかっただけなんだ!!」

図らずも包囲網から逃れたシルベは一斉に向き直る敵に向け叫ぶ。

 「放っておいてくれればそれでよかった!勝手に山で暮らして、勝手に獣を狩って、勝手に暮らしてたのに!お前らはどうしてそうやって構うんだ!」

掌を勢いよく合わせ、離す事で両手の内に発生し数えきれないほどの雷の糸。

それを広げながらシルベは両手を空へ掲げる。

 「お前らだってそうだ!仲間が敵に襲われてたんだぞ!!どうして助けなかったんだよ!!お前らの言う信頼は、一度どっかに行ったらなくなるほど薄い言葉だったのか!?」

アーチ状に広げられていく雷の糸の束。

鼓膜を破壊せんばかりの轟音を立て、一本の柱にも見える雷の糸は輝きが増していく。

 「カナエは違ったぞ!あいつは、いつまで経っても戻ってこなかった人間を、最後まで帰ってくると信じて待ってた!!敵なのに、ずっと敵だって言ってたはずの人間だったのに、一度疑わないと、信じると言ったから最後まで信じてた!!

なのに、お前らは……!!お前らは!!」

そう言って、シルベは両手を大きく天上に掲げた。

刹那。

それこそ誰の目にも捉えられぬ光速で、雷の糸の束で出来た柱は姿を消した。

ーー否。

空に向かって放たれた。

 「俺には、もう何も無いんだ!!帰りを迎えてくれる声も、料理を喜んでくれる声も!!

朝、起こすと嫌がる声も!なんにも!!」

途端に空に雲がかかる。

真っ黒く、重苦しい雷雲が所狭しと空を覆う。

瞬間的に暗黒に満ちた世界で人間と獣人が空に見たのは、雲の中で潜る龍の尾のような稲光。

 「お前らに分かるか!?唯一無二の友人を、唯一無二の家族を、唯一無二の相棒を失う事の意味が!!

だから!!」

一際大きな雷鳴が轟く。

それは天空でとぐろ巻く雷龍の尾を示す音。

大地に落ちれば辺り一面が焼け焦げるほどの超高電圧。

そんな自然の暴力が、彼の掛け声一つで降り注ぐ。

……瞬間だった。


 バンッ。


その場にいる生き物なら全員が知っている音が鳴った。

 「……お前」

 「後ろががら空きなのよ」

火薬の詰め込まれた雷管が破裂した音……射撃音。

 「悪いけど、これは電気仕掛けじゃないの」

そう言ってシルベの見せられた少女兵のーーシクカの右手首は綺麗になくなっていた。

 「……本当に、腕までは飛ばなかったんだ」

次第に溢れ出す血液に見向きもせず、地面に倒れたシルベの傍に彼女は屈みこむ。

 「お前、いつの間に……」

 「あそこから助かるには飛び出るか掻い潜るしかないんだし、外で待ってても変じゃないでしょ?」

右脇腹から溢れ出る血と堪えがたい激痛に顔を顰めるシルベ。

けれど、彼はどうにかして起き上ろうとする。

 「やめた方がいい。動けば動くだけ血が出るし。死に急ぐだけだよ」

 「だからだよ……!」

 「…………」

忠告も聞かず、シルベは身体を起こそうと両手を地面につける。

同時に脇腹から吹き出す大量の血に、だが彼は一切気を払わずにシクカへと顔を近づける。

 「死に急いでるなら、それだけ早くカナエに会えるって事だ」

 「…………そう、だね」

 「そうすれば、直ぐに謝れる」

目と鼻の先まで顔を近付け彼女の襟首を掴み上げようと身体を支えていた片手を離す。

 「……お前の事も、待ってるからな。裏切者」

 「うん。なら待ってて。私にもカナエに言いたい事があるから」

けれど今の彼では片手で身体を支えられるはずもなく、手が届く前に地面に身体が戻ってしまった。

 「(……私も、謝りたいから)」

その日。

ただ一度、初めて口にした彼女の言葉は、しかしシルベに届く事は無かった。

 「……………。

皆さん!!」

未曽有の殺人鬼が起き上らない事を確認したシクカは声を張り上げて立ち上がる。

 「侵入者は今無力化されました!!もう、魔法で雷が落ちてくることは無いと思われます!!」

勝鬨ともとれる、戦いの終わりを告げるために。




          __________________________




 人間側が保有する第四荒野基地での[事故]が起きてから十余年が経った。

 「失礼します」

ノックの音を遮らずに口された挨拶の後、無機質な扉を一人の人間の女性が扉を開ける。

その先に居るのは、同じく人間の男性一人と、獣人の女性が一人。

 「園町 シクカ一等少尉、参上致しました。手袋を嵌めている御無礼、お許しください」

 「楽にしてください、シクカさん」

 「はっ」

二人に向け、真っ白な手袋をつけたままの右手で敬礼を取った彼女に対し、獣人の……タイプとしてはマズルが無い、比較的人間に近い犬型の女性に緊張を崩すよう

言われるシクカ。

彼女は言われた通り敬礼をやめ、気を付けの姿勢に変わる。

 「こちらが、あの日侵入者を無力化した兵です。その際に右手首を失い、現在は本人の強い意向を受けて簡易の義手を付けています。手袋はそれを隠す為ですので、どうかお気を悪くされぬよう」

 「ええ、勿論です」

 「……では」

シクカの事を簡単に説明すると、男は女に対して軽い会釈をしたのちに部屋を後にする。

 「……それじゃあ、こちらに座ってお話をしましょうか」

 「分かりました」

促されるまま、シクカは彼女の正面に当たるソファに腰を下ろし、お互いに面と向き合う。

 「自己紹介がまだでしたね。私はヌワ。獣で言うと、犬型の獣人になります」

深く頭を下げ、シクカに礼をする女ーーヌワ。

それに倣い、シクカも頭を下げた。

 「人間式の挨拶をしていただき恐縮です。僅かばかりですが、貴女のことは存じています。

確か、同盟を結ぶために奔走してくださった方、だとか」

 「えぇ、まぁ。世間的にはそうなっていますね」

少しだけ頬を染め、照れ気味にヌワは答える。

と、同時に。

 「それにしても、人間の軍人……?というのはこんなにも窮屈に話されるのですね。先程の方もそうでしたが、もう少しこう、砕けていただく事は出来ませんか?

少し……いえ、かなり話し辛くて」

幾ばくか溜まっていた不安を、彼女に打ち明けた。

 「それが良いのなら、大丈夫ですよ」

言葉を受け、シクカは直ぐに親しい先輩と話すような軽めの口調に変えた。

 「はい、そのくらいの方が好ましいです。先程の方は融通、と言うのでしょうか。それが利かなくて」

 「まぁ、軍人の大半はそうですね。どうしても上下が厳しいですから。

命令の違反者が出ないように、とか、色々理由があって」

 「……ええ。本当に難しいですよね」

それまで室内に漂っていた緊張が僅かばかりだが霧散していく。

 「それで、お聞きしたい事なんですが」

 「はい。アタシに分かる事でしたらなんでも答えますよ」

 「………あの日、私達の同胞だった者が殺された時の話をしていただきたく思っています」

だからこそ、ヌワは本題に切り出せたのだろう。

あまりに重苦しい雰囲気のままでは言い出せない事もあるだろうと思って。

 「……カナエさんの事、ですか?」

 「はい」

彼女の問いに、シクカは明確な名前を示して尋ねる。

そうして返って来た言葉を受け、直ぐに話し出した。

 「その前日から、アタシは彼女とその御友人の……いえ、相棒であり家族であったシルべ君と一緒に人間の基地跡で一晩を過ごしました。

そこで二人は私に信頼を示し、私はその場をやり過ごすために信頼を受け入れました。

翌日、人間の逃走兵二名の襲撃を受けて同日の内に基地跡を後にしました」

 「尋ねてもいいですか?」

 「大丈夫ですよ」

 「どうして、ついていこうと?」

 「私も、二人を信じたいと思ったからです」

 「……成る程。すみません、続けてください」

 「……深夜から明け方にかけて歩き通しした成果もあり、一先ず森を見つけた私達は、二人の目的である【この三人が安心して暮らせる場所】を見つける、もしくは作るために森に踏み入り、思っていたよりも早く一軒の空き家を見つけました。

後日知った情報によると、あの家は獣人が捉えた人間を拷問……いえ、隠し事はいけませんね。虐殺するために作られた家だったそうです」

 「……はい。存じています。他にも、各地に点々と建てられていると認知しています」

 「かなり血の臭いがこびりついていたのか、カナエさんは難しそうな顔をしていましたが、二度も見つかるとは思わなかったのかそこで暮らす事を決めました。

それに伴い、生活時の便利さを得るために水の確保……この時は、水場を探す事が第一目標でした。

その捜索をしたいと、願い出たのが私です。……本当に信じてくれている二人に、私もそれに見合う成果を出したいと考えたのが理由でした。二人は……少なくともカナエさんは、疑っていなかったはずです」

 「……えぇ。獣人は仲間の事は何があっても信じますから。彼女もそうだったでしょう」

 「そうして捜索に出て、暫くしてから草木の影から物音が聞こえました。原因は人間。それも、私が所属していた部隊の、友人の一人でした。

嬉しさのあまり、自分の役目も忘れた私は少しの間その人と話をしました。でも、役目を思い出した私は、バカな事に口を滑らせてしまったんです。

『仲間が待ってる』と。

逃走兵である私に仲間などいるはずがありませんし、森の中をナイフを持っていたとはいえ着の身着のまま出て行くなど普通有り得ません。

追及され続け、言い訳が出来ないと考えた私は正直に話しました。獣人と一緒に暮らすんだと。

その瞬間から友人の態度が一変し、まるで質の悪い宗教に洗脳された、もしくは幻覚でも見ている人間として扱われ、有無も言わさず基地に連れていかれました」

 「例の、獣人と暮らしていた少年が襲ったという?」

 「はい。その基地です。

その後、嫌味でも何でもなく人道的な尋問をされました。私は決して話しませんでしたが、どうやら友人が見つけ出したらしく、急いで基地に戻って隊の出動を要請したらしいんです。

……後は、恐らく知っている通りだと思います」

 「……分かりました。ありがとうございます」

ヌワに尋ねられた事に全て答え、シクカはソファの背もたれに背を預けた。

 「……貴女は、優しい方なんですね」

それとほぼ同時に、ヌワは彼女の心を言葉にする。

 「……自分では分からないですけど、部下にはよく『厳しい』と言われますよ」

 「はい。それが私には優しいと感じるのです」

 「……よくわかりませんが、ありがとうございます」

 「いえいえ。死者の為に涙できる方は皆心の良い方ですから」

 「……はい?アタシが、泣いている、と?」

まるで当たり前のように口にするヌワに、シクカは思わず聞き返してしまう。

彼女が望んでいるとはいえ国賓級の要人。不覚な態度を取れば問題になるのは必至だ。

ーーそれでも。

 「アタシが二人を裏切ったのは間違いないのに、どうして泣く権利があると?」

強い言葉で聞き返してしまった。

 「……泣く事に権利などいりませんよ」

にも関わらず、ヌワは落ち着いた様子で立ち上がり、言葉を返す。

 「心から楽しければ笑い泣き、心底から苦しければ悶え泣き、忘れられないほど悲しければ咽び泣く。これは命ある生き物なら誰が行っても誰も咎められない事です。

仮に権利が必要だとすれば、嘘や疑いを持っていない事、でしょうか。

でも、貴女はそれを持っていない。なら、泣く権利は充分にあります」

そうしてシクカの元まで歩み寄った彼女は手を取ると、強く、握りしめる。

 「貴女のような方がいるのなら、その少年と獣人のように暮らせる方々がいるのなら、きっとこの同盟は上手くいきます。何十年何百年かかるかは予想もできませんが、一緒に、両種族間の亀裂を埋めていきましょう。

私は貴女とならその一歩を踏み出せると信じています」

 「……そう、でしょうか」

 「えぇ、そうです。友人になりましょう、シクカさん。それが嫌なら、仲間でも、相棒でも。

家族は……本当の意味では無理だと思いますけど、でもそのくらいの信頼関係で。私は貴女と付き合いを持ちたいです」

 「そう、ですか……」

告げられるヌワの言葉は、聞きたくても雑音が酷くてシクカの耳には全てが届かない。

その雑音が、自分の鼻を啜る音だと気が付いた時、シクカはどうにか言葉を振り絞り、ヌワに頼んだ。

 「でしたら、少しだけ胸を貸してもらえませんか……?出来れば抱き締めていただけると、とても嬉しいです」

 「えぇ、勿論。信頼する貴女のためなら、幾らでも」

そうしてシクカは、暫くの間ヌワの胸の中で涙を流し続けた。

 ーーごめんなさい。私は知っているのに、こんな事を二人が望んでいたわけじゃないのを知っているのに。

胸の内に溢れるこの想いもいつかは話せる日が来る事を信じ。

 ーーでも、私に出来るのはこれだけ。もう二度と、誰にも同じ悲しみを味合わせない為に動くしかないの。だから。

必ず、二つの種族が共に暮らしていてもおかしくはない日が来る事を信じ。

 ーーだから、必ず謝りに行くから。

シクカは泣き続けた。




end.

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人獣血戦 カピバラ番長 @kapibaraBantyou

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