最終話 海は水嵩を増していく
家へ帰るとボロボロになった私の姿を見て、母は悲鳴を上げた。あの時は気が付かなかったが私の体は小さな擦り傷だらけで、ふくらはぎは漂流物で切ったのかぱっくりと割れてしまっていた。父は村長へ詰め寄り、危険なことはないと言ったじゃないか、嫁入り前の娘になんてことをしてくれるんだ、と怒鳴った。村長は、返す言葉もないというように帽子を取り、頭を下げる。
「大丈夫、ちょっと波にさらわれただけなの」
「大丈夫じゃないわよ! こんな、こんな」
母は文章がまとまらないまま私に小言を言い続けつつも、傷口の一つ一つに手早く処置をしてくれた。
「いいか、村長。もう二度と娘にこんなことはさせられないからな。使うなら他の奴にしてくれ」
胸倉を今にも掴みかかりそうな父を母は何とか止めていたが、二人とも意見は一致しているようだった。
「待って、お願い。父さん母さん聞いて」
大人たちはそれぞれ私の顔を見て、言葉を待ってくれた。
「本当に大丈夫なの。それよりも」
言葉に出すのは少し抵抗があったが私は三者三様の表情を見つめながらはっきりと言った。
「ドーファに一緒に暮らそうと言われたの。だから、私あの入り江の城で暮らします」
真っ先に驚いたのは村長だった。見開いた両目はどこか嬉しそうでもあった。一方で母は意味が分からない、という間のあとですぐに甲高い声で私を叱った。父は言葉も出ない、という様だった。
「クロエ!あなた自分が何を言っているのかわかっているの!」
母は息継ぎもせずに次々と言葉を並べ、父が制するまで私に浴びせた。父は泣く母の肩を抱きながら冷たい視線を私に向ける。
「クロエ、自分の部屋に戻って一晩頭を冷やして来なさい。今すぐだ」
「分かった。……村長、明日も迎えに来てね」
私は言われた通りパッと両親に背を向け、自室へと速足で戻った。両親に何を言われようと、私は意思を曲げるつもりなどなかった。明日入り江へ行き、そのまま帰らずにそこで暮らそう。父にも母にも申し訳ないとも考えたが、私にはそうするしか選択肢はなかった。
私は両親に考えがバレてしまわないように、小さめの鞄に暮らすのに必要最低限のものを詰め、夜空に向かって心を決めた。
翌朝村長はいつも通りの時間に来た。母は私をぎゅっと抱きしめて、小さい子にするように頬を撫でた。父は依然として難しい顔で、私の手を握る。
「いいか、今日入り江へ行くことを許すのは、今日を最後にするためだ。お別れを伝えてくるんだ、いいな」
「……わかった、父さん」
私は父の漁で鍛えられた分厚い体も抱きしめた。村長に促され、馬車に乗る。もう後戻りはできないだろう。
活気が出てきた時間の町の喧騒が、馬の蹄の音が数を重ねるごとに遠のいてゆく。静かになるとすぐ、今度は森のざわめきが聞こえ、自然と初めて入り江に行ったあの日が思い出される。一年以上聞いてきた音が、特別に感じた。目を閉じて、一つ一つを噛み締めようと思った。きっとこの馬車に乗ることはしばらく、いやもしかするとこの先一生ないかもしれないのだから。
私は昨日の疲れが残っていたのか、いつの間にか眠ってしまっていた。それはどれほどの時間だったのか分からないが、馬車はまだ進んでいた。そのまましばらく馬車に乗って揺られていたが、一向に止まる気配がない。あまり長時間寝ていたわけではないのかもしれない、そう思いもしたが、すぐにやはりおかしいと感じた。
「村長、まだつかないの」
「……寄り道をしたんだ。まだかかるから寝ていなさい」
それからまたもう少しの間おとなしく乗ってはいたが、どんどん不安は膨らんでいく。とうとうランプの油が切れ馬車の中が真っ暗になったところで、私はおかしい、と声を上げた。
「村長、本当に入り江へ向かっているの?ランプが消えたわ。こんなにかからないはずでしょう」
やっと馬車は止まり、村長がランプに注す油を片手に扉を開けた。そこは山と山に挟まれた谷のような場所で、おそらく馬車や荷台が多く通るのだろう、土がしっかりと踏み固められた道ができている。初めて来る場所に私の不安はほぼ確信に変わった。
「どこなのここは。入り江に向かっているんじゃなかったの」
村長は観念したように、しかし感情なく淡々と言った。
「違う、向かっているのは女学校だ」
私は村長の言っていることがすぐには理解ができなかった。
「どういうこと。学校は辞退するって話したじゃない。私、手紙もちゃんと書いたのに。今すぐ入り江へ戻ってよ」
「手紙……。あれは昨日の晩に入り江へ置いてきたよ」
私はなにも言葉に出せないまま、ただ息をのんだ。頭が真っ白になって指が冷たくなっていく。では、ドーファはあのお断りの手紙を自分宛だと思い読んでしまったということだろうか。
「なんで、ひどい、どうしてそんなことをしたの、ねぇ村長……」
頭の中が滅茶苦茶だった。嘘だと言ってほしくて、私は村長に縋った。頭が熱くなって、次から次へと涙が止まらず、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。
それでも村長は私の背中を摩るばかりで、ちっとも冗談だなんて言ってはくれなかった。
「クロエ、道はまだ長いからね馬車に戻りなさい」
私は村長を突き飛ばすようにして馬車に戻り、顔を覆った。扉が閉められ、馬車が再び動き出す。私はもうひたすら泣くことしかできずに、自分の考えの甘さを悔いた。どうしてもっと早く気が付かなかったのか、馬車の中で眠ってしまわなければ、まだ自力で引き返せるところで気が付けたかもしれない。それとも、昨日家に帰らなければよかったのか。
悔しくて、悲しくて何も考えられないまま、非情な馬車は進んでいく。
日が沈んだころ村長はもう一度馬車を止めた。そのころには私の涙はすっかり枯れ果て、ただただ体に力が入らず動けなくなっていた。村長は持ってきている干した魚でご飯にすると言ったが、私は今食べると吐き出してしまいそうで断った。村長の顔など見たくもない。視線を逸らした先、山を背にして木々の隙間から海が見えた。見たこともない海だ。
「今から行く国に海はあるの」
「ないよ。山で囲まれた大国だ」
「……そう、じゃあ最後に海を見せてよ」
「分かった。連れて行こう」
「やめて、一人で行かせて」
私は村長をその場へ残し、海を目指した。そこの海岸は砂浜などなく、ごつごつとした岩でできた岩場に直接波がぶつかっている。海水に手を浸すと、出し切ったはずの涙がまた溢れてきた。海にはドーファとの思い出が多すぎた。どうすればまたドーファに会えるのか、そればかりを考えて、自分がなんの力も持ってないことに気が付き、また涙がでる。
雲に覆われていた月が顔を出したとき、視界の隅に何かが光った。私は目を疑った。濡れてしまうことなど気にせず、海の中に足を付けそれを拾い上げる。間違いがなかった。それはドーファの流した瓶だった。あの時見せてくれなかった手紙もしっかり入っている。私は少しでもドーファに触れたくて、必死になって瓶を開けた。
《海の向こうの誰かへ。僕には最近とても大事な人ができました。その人は、今までの日々が嘘かのように僕を幸せにしてくれます。あなたにもそんな人がいますように》
思わず海の中に膝をついた。私は年甲斐もなく叫ぶように泣いた。
ええ、私にもそんな人が確かにいたの。
ドーファはどんな顔でお断りの手紙を読んだの。きっとドーファのことだから、怒ったりはしなかったのでしょう。ただただ悲しい顔で泣いたのでしょう。
私はドーファの泣くところを想像し、ごめんなさい、と何度も何度も謝った。私はドーファの涙を拭ってあげることも、抱きしめることもできない。その資格もない。
そして私は残酷にもこの時に気が付いてしまったのだ。もう二度とドーファに会わせてはもらえないことを。
そしてドーファの海を生む才能についてを。
なぜならドーファの涙はこの海のようにしょっぱかったのだから。
海守の少女 夏倉こう @natsukura
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