第4話 荒れる

 それからさらに半年ほど過ぎたころだった。私はあの日から、本の差し入れをし続けておりドーファはすっかり文学好きの青年となっていた。もしも会うことがあればガスパルはさぞ喜ぶだろう。次はどんな本を差し入れようかなんて考えつつ、船着き場から家へ戻るとすでに村長が来ていた。母と、おそらく私のことを話していたのだろう。二つ上の姉が結婚したこともあり、あとは私を送り出すだけとなった母は、最近私の将来が心配で仕方がないのだ。

「母さんただいま。村長もおはようございます」

「ああ、クロエおかえり。今ちょうどあなたのことについて話していたのよ。あなたもそろそろ大人になるのだから、考えなきゃならないことは他にもたくさんあるでしょう。だから」

 母は隣の椅子を引き。私にも座るように促した。私は魚のにおいがする服をすぐに着がえたかったが、しょうがなく席に着いた。

「村長がね、あなたにいい話を持ってきてくれたのよ」

「いい話? ほんとうに?」

 私はなんとなく単純にいい話ではないだろうな、と嗅ぎ取った。大人のいういい話というのは、大抵私にとって現状に見合ったものではないのだ。そしてその予想は見事に当たる。

「クロエに仕事を頼んでから一年が経つが、どうだ」

「どうって。毎日楽しいわ。なんにも辛いこともないし」

「それでも終わり時の見えない仕事だ」

「そんなこと気にしなくっていいのに」

 終わり時なんて考えたこともなかった。正直な話、村長が私に何をさせたいのかこそ見えてはこなかったが、私はずっとこのままで良いとさえ思っていたのだ。村長がこんな事を気にするのは、母が心配して相談したことに影響を受けたに違いなかった。私が母を見ると、まじめに聞きなさい、と正された。

「若いうちの一年、二年というのは本当にかけがえのない時間で、その時期にどう考え生きるかで財産にも負債にもなりえる。今手に入らなかったものは、一生欲しいものになるんだ。そして、今奪われたものは一生心に鎖をかけ続ける」

 村長は苦いものが喉の奥にへばりついているような表情で、そこまで一息で話した。

「俺は今、クロエの時間を奪ってしまっているな。クロエが本当は見ることができた世界と触れる時間を犠牲に、俺の都合を押してしまっている」

 村長はもしかするとずっと悩んでいたのかもしれない、と思い直し私は背筋を伸ばして座りなおした。

「これはクロエが望むならなのだが」

 そういって村長は鞄から大きな封筒を取り出し、私の目の前に置いた。中身に全く見当がつかなかったので、手に取り中身を見る。

「山の向こうの大国に女学校があるんだが、行ってみたいと思わないか」

「女学校?」

 学校に行くなんて考えたこともなかった。村から片道で三日のその女学校に村長は伝手があるらしく、直々に私のことを話してくれたそうだ。封筒の中には、推薦状と学校について書かれた紙が入っていた。異国の裁縫や歌や料理が学べるというそこは、確かに私の見聞を広げてくれるのだろう。魅力的に思わないわけではなかった。

「これは、これまで頑張ってくれたクロエへのせめてものお返しだ。学長には貸しがあったのもあり、快くお前を受け入れてくれるといった。どうだ」

「クロエ、こんなにいい話はないのよ。母さんと父さんだけではクロエを学校に行かせてあげたりはできないんだから。それに、村長はわざわざあなたのために直接お願いしに行ってくれたのよ。ね、どうなの」

 本当にありがたい話だと思った。村長も母もとても私のことを大事に思ってくれていることも、申し訳がなくなるほど伝わった。けれども、私は答えを出すのを難しいとは思えなかった。

「村長、本当にありがとう。でも私行かない」

「クロエ、どうしてよ! こんな機会二度とないのよ」

「うん、でもね母さん」

 私は入り江に通う日々をとても気に入っていた。ドーファに会って、紅茶を飲みながらお喋りしたり、海を散歩したり、この時間は私にとって財産になるに違いなかった。一瞬一瞬が私の幸せを作っている気がしてならなかった。

「私、今の生活でとても満足しているの。時間を無駄にしてるなんて思えない。好きでいつも入り江まで行っているのよ。だから、大丈夫」

 母は私の肩を強く重く掴んだ。目を吊り上げて、でも至って冷静に説こうとしているかのように声を作る。

「自分のことなのよ! しっかり考えてちょうだい」

「私ちゃんと真面目だよ。だから、村長ありがとう、でもごめんなさい」

 私は村長へ封筒を返した。村長がいなかったら母は声を荒げていたかもしれないが、ぐっと飲みこんでため息をついた。村長もそうか、と息多めに呟き自分を納得させるかのように腕を組んだ。

「では、学校へ行き辞退届を出してくるよ。こちらからの話だから少し言いにくいがね」

 村長は場を和ませようとしたのか、珍しく口角を上げて見せた。母は村長を止めたそうだったが、私の目を見て唇を一の字に結んだ。

「……クロエ、あなたが自分で書きなさい。あなたの決めたことなんでしょう」

「もちろん」

 母は弱々しく立ち上がり、タンスから紙とペンとインクを取り出す。その紙に私は『申し訳ないけれども、お断りします』と迷いなく書いた。書き終わると母は、馬鹿な子だよ本当に、と悲しそうに口を漏らした。

「……確かに受け取ったよ。来週学校へ向かうとしよう。……今日は入り江へ行くか」

「ええ、村長連れてって。お願い」

 私は手早く準備を済ませ、まだ若干放心している母を残して馬車に乗った。村長は母に一礼を入れ、馬車を出す。

 道中ではほとんど会話はなかったが、入り江の近くまで来たときに村長は一言、これは終わりのない話ではないことだけは覚えていてくれ、と私に言った。



 そんな話が早朝からあったともつゆ知らず、ドーファは分厚い本を膝に乗せながら物語の世界に浸っていた。真剣な横顔は視線で本を切りつけんとするかのようだった。ドーファに上げる本を私は全て読んでいるわけではなく、今ドーファが読んでいるものもどんな内容かは知らなかったが、おそらく相当面白いのだろう。ドーファは姿勢はそのままに視線だけ私に向けて、おはよう、と早口で言った。

「おはよう、ドーファ。ねぇ、聞いてほしいんだけど」

 私は今朝の出来事をどうしてもドーファに話したかった。私は学校には行かない、ドーファにこれからも会える、そう言いたかったのだ。しかし、ドーファはうーん、と足元に落ちていくような気のない返事をした。

「ごめん、クロエもうちょっとだけ待ってて」

 そのもうちょっとは長くなりそうだ、と思った。ドーファは何も知らないのだから仕方がないことなのだけれど、少し悲しい気がした。私が拳を少し握ったことにもドーファは気が付きようもなかった。

 待たされる時間が長くなりそうなので、私は少しでも爽やかな気分で時間を過ごそうと思い浜辺を散歩することにした。度々村長の迎えが遅れると一人で浜に降りることはあったが、少し久し振りでもあった。昨日の夜から風が強かったから波に運ばれ何か面白いものが落ちているかもしれない。

 今日の海は少し肌寒く、空はどんよりと今にも剥がれ落ちてきそうな重たい雲がかかっていた。案の定この前見たときにはなかった波に揉まれてすべすべになった流木や、ガラクタがいくつか波打ち際に転がっている。私はぶつけてケガをしないように気を付けながら、波の淵に沿って散策することにした。今日も海からの声は私に何かをささやいている。最近は慣れて来たのか、聞こうと思わないと気が付かなくなってきていた。時間は多くありそうだったので、耳を澄ませてみることにする。その声は波にさらわれる砂の音とよく似ており、聞きわけが難しいが女の人の声にも聞こえた。目を閉じ、感覚を耳に集中させてみる。その声は何かを心配し私を問い詰めているようにも聞こえた。でもそれはきっと、私の母の声に少し似ているところを感じたからかもしれない。もう少し集中すれば耳が慣れてきて聞き分けられるようになる予感はしていたが、それを妨げるかのように風はより波を立て声をかき消すようになった。

「なんて言っているの」

 こちらから声をかけるのは初めてだった。自傷気味に何かを期待している自分もいたが、案の定何も返っては来ず、気恥ずかしさに目を開ける。散策に戻ることにしたのだ。

 岩場近くまで歩くと、波の音はさらに大きくなる。岩の入り組んだ場所にはよく面白いものがいることを私は知っていた。カニや小さな魚を期待して覗いていると、見覚えのあるものが砂に半分埋もれているのを見つけた。

「私の瓶だ、戻ってきちゃったの」

 あの日海の向こうへ送り出したはずの瓶は、海流に弄ばれ短い旅の末入り江に返されてしまったらしい。少し見渡した限り、ドーファの瓶は帰ってきてはいなかった。どの潮に乗れるかは海の気まぐれなのだろう。それにしても、海を迂回し入り江へ戻ってきてしまう海流があるとは知らなかった。私が罰の悪さを感じながら瓶を掘り出していると、スッと誰かが頭の中に何かを放り込んだようにある可能性を閃いた。

 ドーファが見つけていない先生の手紙がこの近くに埋まっているかもしれない。

 二百年も前に流したものだ、そんなものを見つけられたら奇跡に違いないと理解はしていたが、私は砂を掘り返さずにいられなかった。手が汚れることも、スカートの裾が海に濡れていることも気が付かないまま、私はあちこちの砂をひっくり返す。そして、海はイタズラが好きだからか、奇跡というのは意外と起きるものだった。指先に当たる冷たく固いものに、私は興奮が抑えられなかった。爪に砂をいっぱい挟めながら、夢中で掘り返した。砂にまみれた一つの瓶の全身を取り上げる。割れてはいなかったが、中身はどうだろうか、中に水は入っていないようだ。表面を海の水で洗うと、ガラスの表面はすりガラスのように白く曇っている。スカートの裾を使ってコルクをねじ開けた。中の紙はところどころシミができてはいたが、時の経過にしては痛みが少なく、開くことができた。心臓が自我を持っているかのように鳴っている。指も震えていた。相変わらず芯の強い字に私は息をのんだ。

《身を投げたこの海から、いつまでも我が子を見守るあなたは、わたくしに彼を幸せにできるか聞いているのですね。誓いましょうあなたの深い悲しみよりも深く彼を愛すると》

「あなたは!」

 私は思わず立ち上がり、海に向かって叫んだ。

「ドーファのお母さんなのね!」

 波はなおも高くなる。荒々しい波が目の前で散っていくその中に、目には見えない声の持ち主を感じた。飛沫が私の髪を、頬を濡らす。

 もう悲しませないで。声はそう訴えていた。

 先生は生涯かけて彼を愛し、幸せをたくさん教えたのだろう。ドーファの母親との約束をその生涯をかけて守ったのだろう。でも彼はドーファを残して逝ってしまった。時間に人間は抗えない。ドーファは深く悲しんだだろう。だから母親はもう幸せは願わない。ただ傷つけるなと訴え、私の存在を責めているのだ。

「私は、ドーファと一緒に暮らしていきたい! 二人で幸せになりたいの!」

 私は力一杯叫んだ。私たちの結末は、先生の迎えた結末と変えることはできるだろうか。それは、きっと。

「また、悲しませてしまうことになるかもしれないけれど……」

 水は海底の砂を巻き上げ濁り、波はうねりをあげて私に抗議していた。

「……それではだめ?」

 海は水平線から盛り上がり、水は塊のように岸へ押し寄せようとする。私の背丈ほどの高さになるかもしれない、なにもかもを飲み込む力を持った波が目の前まで迫る。怒る海に敵うものはいない、村で育った者なら誰もが知っている。次の瞬間私の全身は水の中にあった。

 視界はぼやけ、前後左右もわからない。すべてが冷たい肺が押しつぶされていく感覚の中で、私は声の持ち主をはっきりと感じた。

 気が遠くなるほど時間を遡った先に、彼女は生きていた。社会から逸れてしまった彼女は、王にももう見向きもされない。才能を持て余されてしまった赤ん坊を抱えたまま、大地の端に閉じ込められた。まだここは海ではなかった。若い彼女にとって心の支えは我が子だけで彼女の時間のすべてを与えた。すべてを与えたにもかかわらず、赤ん坊がつかまり立ちを覚えたころには、すでに彼女は老婆になっていた。目が霞み、支え無しでは立ち歩けなくなっていたある日、彼女ははっきりと己の死期を知った。城の中で腐りゆくよりは、いいだろう。彼女は日が明るいうちに何度も幼い我が子を抱きしめ、謝った。子供と会話することも叶わないまま、日が沈むと同時に海へ飛び、自らの人生を終わらせた。彼女の愛も悲しみも全て海の中に溶け出していく。そうして、赤ん坊は長い長い時間の中に一人放り出された。

 昔話の続きは、海の中に取り残されていたのだ。

 私は暗闇の中で、彼女の温かさを一瞬だけ見つけて抱きしめることができた。



 目に刺すような痛みを受けて、光を感じる。私を呼ぶ声と、日の光の温かさ、全身が軋むような痛みがひと思いに流れ込んでくる。目にはっきりと像が結べるようになったとき、目の前にいたのはドーファだった。

「クロエ!」

 ドーファが私を抱きしめる。私は寝起きのような心地でその背中に手を回した。

「急に海が荒れ始めておかしいと思って浜へ下りたら波に飲まれるクロエが見えたんだ。ああ怖かった。クロエがいなくなるんじゃないかと思った。クロエ、大丈夫?」

 私はドーファの服がぐっしょりと濡れていることに気が付いた。

「ドーファが助けてくれたの」

「ああ、そうだよ、必死だった。よかった、本当によかった」

 ドーファの真っ赤に腫れた目からは大粒の涙が次々に溢れだし、止まらなかった。ビー玉のような涙が、コロリ、コロリと頬を伝っては落ちていく。私はドーファの涙でも溺れてしまえそうな気がした。

「クロエ、僕と暮らそう」

 ドーファはさらに私を強く抱きしめた。

「クロエの一生を僕は幸せにしたい」

 今度は私の目を見てドーファは言った。涙は止まっていないし、目も腫れたまま、髪も服もボロボロで全く格好がついていないはずなのに、こんなに愛しいことはなかった。

 私はドーファの涙で濡れた唇にそっと口づけた。


 私の初めてのキスはびっくりするほどしょっぱかった。


  

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