第3話 歳月とボトル
村には本屋なんて呼べる大層なお店はなかった。果物屋のガスパルが隣町の大きな本屋で仕入れたものを趣味で店先に一緒に並べているくらいだ。私は朝の仕事が終わるとすぐにガスパルの店へ行った。
「いらっしゃい、クロエ今日は何が目当てだい」
「今日は本が欲しくてきたの」
そう言うとガスパルは身を乗り出した。
「とうとうクロエも文学の楽しさがわかったのか」
ガスパルは葉巻で黄ばんだ歯を見せてにっと笑うと、本を次々手に取り私にオススメのポイントを説明しようとした。私はなんとなく聞き流しながら、置いてある本の背表紙を眺める。先日くたくたに読み古された本を見て、新しい本をプレゼントしたくなったのだ。本を見るうちに、私はふと昨日見た本のことを思い出す。
「ねえ、ガスパル。『ナシオの旅路』っていう本はないの」
タイトルを聞いてガスパルは感心したようにわざとらしく口をすぼめた。
「随分と古い本だよ。たしかに面白いが説教くさかったからか流行んなかったらしい、ほとんど刷られてない。この俺だって持ってないんだからな。今手に入れようとしたら二百年ものしかないだろうなあ」
「二百年?」
私は頭の中身がひっくり返るのではないだろうかと思った。ドーファの話だと、先生はドーファのために新品の本を用意したと言っていたのだ。そうなると、ドーファの先生との思い出は二百年も前の話ということになってしまう。しかしドーファは私とそんなに歳は変わらないだろう、とてもおじいさんには見えなかった。あれやこれやと考えているうちにもガスパルは私に本を勧め、私は一体どこが優れた本なのかも分からないうちに三冊も購入することになった。
私が購入した本のずしりとした重さを抱きながら家へ戻ると、すでに村長は家の前で待っていた。私が本を持っているのを見ると、村長は目を細めた。
「偉いなクロエ、勉強していたのか」
村長は私がドーファの所へ行く合間の時間を使い、本を読んでいたと勘違いしたらしかった。
「違うの。ドーファに新しい本をあげようと思って」
村長は納得の表情で数回頷くと同時に、何かに気が付いたようにスッと眉間に力を入れた。
「クロエ、お前将来なりたいものとかあるのか」
「え。突然どういうこと」
「いや、なんでもない。早く準備をしてきなさい」
「変なの」
どれだけドーファの元へ通おうと、村長は決して入り江への行き方を教えてはくれなかった。帰りの馬車内では、今日はドーファとこんな話をしただとか、新しい発見があっただとかの話をしたが、行きの馬車内ではほとんど会話はなかった。しかし今日は違った。聞かないといけないことが明確にあったのだ。私は馬車の中で話を切り出すタイミングを見計らいながら、車輪のガタガタいう音を聞いていた。
「村長、聞いてもいい」
「……なんだ」
「ドーファって人間ではないの」
村長はしばらくの間黙ってしまい、また私は車輪の音を聞いているしかなくなった。
「……普通の人間では……ないだろうな」
村長はぼそりとそれだけを、重い岩を動かしたような声で言った。それに私はしびれを切らしてしまい、狭い馬車の中で思わず立ち上がった。
「ドーファが海の王様なの?」
「それは違う」
間を開けずに、きっぱりと否定する。その答えに私は怒らせていた肩をすっと降ろしてしまった。膝の力を抜き、もう一度座りなおす。
「それは違うが」
村長は歯切れ悪くもう一度言い直した。
「クロエはやはり頭がいい。話さないでおくことが難しいだろうとは思っていたんだ」
村長は深いため息をついた。私は心臓が鳴るのを自覚しながら、次の言葉を待った。
「村の昔話は知っているだろう。あれは完全なものではない」
「どういうこと」
馬車の揺れが止み、馬がブルっと短く鼻息を漏らした。姿は見えないが村長からは覚悟を決めるような雰囲気を感じた。村長は小さな子供に言い聞かすかのような声で誰にも反してはいけない、と私へ言う。
「海の王は世界中の海底を悠々自適に泳いでいるかと思えば、不意に浅瀬から顔を出したりする。大きな魚の姿を好むかと思えば、気まぐれで手足を作ったりする。しかし海の王は海を離れることはできない。陸は決して海の王を歓迎はしないのだ。」
村長は馬車の扉を開け、中へ乗り込んできた。一瞬見えた外の景色はやはり森であったが、見たこともない花の咲く場所だった。すぐに扉は閉じられ、ランプのぼんやりとした光の中に深い皺の刻まれた村長の姿が浮かぶ。
「ある年、海の王は人間の女との間に子供を授かった。その子供は海を生む才能を持って生まれた。子供の周りの大地は潤い、海が生まれる。しかし子供は人間の姿をしている。海の底で人間の姿では子供は生きることはできなかった。どこか陸に居場所が必要だ。そんな時、海を欲しがる人間と出会う。そこで海の王は海を与える代わりに、子供の居場所を作り面倒を見ることを我々に命じたのだ」
「その、海の王様の子供といのがドーファなのね」
「ああ、そうだ」
「ドーファはどうやって海を生むの」
私の質問に、村長はうつむき、私の視線を遮断するかのように静かに目を閉じた。
「……それは、分からない。……そこまでは私にも伝わってはいない」
少しの間、馬車内は沈黙し息が重くなるような空気が流れた。しかし、私は想像よりも動じていない自分にも気が付いていた。なぜなら私はドーファは、優しくて好奇心が強く、少し格好つけたがりなのにすぐに泣く男の子だと知っていた。そしてそれが今後大きく変わってしまうことはないだろうと確信していた。海の王様の子供だろうと、ドーファは変わらない。ドーファが変わらない限り、私も、変わらない。
村長は顔を上げ、私を見ると申し訳なさそうに口を結んだ。
「大丈夫よ、私たちにはなんの問題もないことだもん」
「そうか……。なら良かったよ……」
私は心配をかけまいとそう言ったつもりであったが、かえって村長は何か考え込むように自分の足元を見てしまった。
入り江はその日も天気が良かった。ドーファは日当たりのよい場所に椅子を置き、静かな海を眺めていた。
「ドーファ、今日はあなたに贈り物があるの! 見てみて」
私は紙に包まれたままの本を差し出すと、ドーファは身を乗り出した。自分への贈り物だと聞いて、その目は光に当たる水面のように輝いている。それにも関わらずドーファは努めて落ち着いたような声をわざと使うのだ。
「うん? 中身は何かな」
細い指で紙袋を破き、ドーファは本と対面した。不思議そうに手に取ると、表紙と裏表紙を交互に見たり、ページをパラパラと流して見せる。
「本だ」
「そう、私が家へ帰っている間暇だろうと思って」
どうやらそれは図星だったらしく、ドーファは嬉しそうに三冊の本を見比べて、私にお礼を言った。その少し興奮した顔が、くすぐったいような気恥しいような気持ちにさせる。
「喜んでくれてよかった」
「ああ、とっても嬉しいよ。ありがとう。ところで、この世には本は何冊あるんだ」
ドーファがあまりにも純粋な顔で私に尋ねたので、思わず私はエッと声が出てしまった。本の数なんて考えたこともなかったけれど、
「えっと、面白い本だけでも一生かけても読み切れないくらいよ。つまんない本も入れるとその十倍はあるの」
これはガスパルの口癖だった。そして、言ってしまってから私はアレ、と思う。
「果たして僕は読み切れるかな」
ドーファはイタズラを仕掛けるときのように、歯を見せて笑いながら言ったから何とも思っていないのかもしれない。でも私はその言葉に悲しい意味が潜んでいることに気が付いてしまった。
ああ、きっとドーファなら読み切れてしまう。
どうか私の失言に気が付かないで。
ドーファは私の顔を見て、困ったように眉を寄せて驚いた。きっと私は変な顔をしていたのだ。
「クロエどうしたの」
「なんでもない。クッキーと紅茶も持ってきたからお茶にしよう」
「……わかった、お湯を沸かしてくるよ」
私とドーファに与えられている時間は同じではない。ドーファがいつもより紅茶を少し濃く入れてくれたのは、甘いものを食べるときはそのほうが良いと私が言ったからだ。形がよいクッキーばかりくれるのは、話題が私にとって面白いと思えるものばかりなのは、ドーファの優しさだ。
そして、その優しさに私が気が付くことができるのは、私がおばあさんになったときドーファはどのような姿で私の手を握っているのだろうと考えてしまったのは。間違いようもなかった。私はドーファが好きなのだ。
最後まで幸せでいるにはどうしたらいいのだろう。先生は、ドーファとの時間をどのように向き合っていたのか知りたかった。
「ドーファ、私先生の部屋を見てみたい」
「もちろんいいさ。おいで、一番東の部屋だ」
ドーファに連れられて来た部屋は全く予想していた部屋とは反していた。時間帯的に日の光の入らない部屋はツンと冷たく、時間の流れがこの部屋だけ影響を受けないかのような空気感を持っていた。部屋はカーテンや家具が白っぽい色でまとめられており、天井には真珠がいくつもあしらわれた小ぶりのシャンデリアがぶら下がっている。大きなベッドの天蓋には見たこともないほど繊細なレースがあしらわれている。ドーファに聞いていなかったなら、この部屋を使っていたのがおじいさんだなんて考えもしないだろう。
「素敵、お姫様の部屋みたい。だけど本当にここに先生が住んでいたの」
「そうだよ。何か不思議?」
「だって、あまり、男の人の部屋に見えなくって」
「ふうん、そうなのかな」
ドーファはあまりピンと来ないようだった。
「でもこの部屋は、先生が来るずっと前からこうだったんだ。先生が持ち込んだのは、机の周りの物くらいだ」
そういってドーファは大きな窓の近くにある机を指さした。確かに机には麻色の紙の束や古びた木の柄のペンなどが猥雑に置かれており、一体感が出るようにまとめられた部屋の秩序を乱しているようだった。
「じゃあ先生の前にも誰か住んでいたってこと」
タンスの上に置かれた陶器のようなものでできた、イルカのオブジェを撫でてみる。
「いや。僕の知っているうちには先生以外は誰も住んでいない。……それとも、クロエもここで暮らす?」
「えっ」
頬が瞬間的に熱くなったのが自分でもわかり、思わずオブジェを倒してしまうところだった。目を見開いてドーファを見ると、本人はいつもの調子であっけらかんとしていた。それどころか今日のクロエはいつもより表情がコロコロ変わる、なんて面白がってすらいるので腹が立つ。
「先生はよく机で手紙を書いていたな……。朝日の中で机に向かう先生はなんとなく知的に見えてかっこよかった」
「手紙?誰へ」
村人とやりとりでもしていたのだろうか。
「海に流してたんだ」
「海に?」
「そう、瓶に詰めてね」
「なんでそんなことをしていたの」
「さあ、分からない。でもロマンチックだろ」
輝く水面に投げ入れた瓶が浮いたり沈んだりを繰り返しながら、陸を離れていく。僕とは違い、どこか遠い世界へ海を漕ぎ出していくんだ。一体どこの誰に言葉がとどくのかも分からない、もしかすると僕らとは全く違う姿をしているかもしれない誰かだ。そうドーファは続けた。
「たまに戻ってきちゃうのもあるんだけれどね。そういうのはここに並べている」
それは窓枠に沿って作られた棚にいくつかきれいに陳列されていた。コルクでしっかり密閉された瓶は、二百年前の言葉を守らんとしているようだった。ドーファにとっては先生の生きていた証拠で大事な形見だ。
「どんなことが書いてあったの」
「見ないよ。先生に悪いだろ」
そう言って一つ瓶を手に取り、大事そうに撫でた。
「私も流してみようかな」
なんの気なしに呟いた一言に、ドーファは思いのほか食いついた。もしかすると心のどこかで憧れがあったのかもしれない。善は急げとばかりに、ドーファは紙とペンと瓶を探してくるといって小走りで部屋を出ていった。
先生の部屋で取り残された私は、その戻ってきたという瓶を一瞥した。ドーファはこれを中身を開けずに大切に持ち続けていた。その先生を思う気持ちを尊重したいと思う半面で、私は先生への好奇心を抑えられそうになかった。先ほどドーファが触っていた一つを手に取り、開けないまま中に入っている紙に目を凝らす。インクが若干透けてはいるが、とても内容がわかるほどではなかった。
部屋のドアを少し開けて、廊下を少し見渡す。物音もしないので、ドーファは近くで探しているのではないのだろう。ドアを閉め直し、瓶に向き直る。胸に手をあて息を吐き切り、一思いにコルクを抜き取った。ぽん、と軽快な音が響く。私は変な折り目が付かないように、破かないように気を付けながら紙を引き抜いた。柔らかすぎて脆くくずれそうなそれをそっと広げる。そこには綺麗とは言えない、芯の太い文字が並んでいた。
《素敵な部屋を使わせていただきます。綺麗に使ってくださりありがとう。余生にいい時間を過ごせそうです。》
その中身は何を言わんとしているのかがちんぷんかんぷんだったが、少なくとも、遠い国の誰かになんて宛てられたものではなかった。明らかに誰か特定の人へ当てられた内容だ。
私は元の通りになるように紙を折りたたみ、瓶に封をする。そうして自分を抑えきれずに、そのまま二つ目の瓶、三つ目の瓶へと次々手をかけた。
《ドーファサーシュは今日も勉強熱心で良い子です。なにも心配なさることはありません。わたくしは彼に少しでも幸多き人生を歩んでもらえるよう尽力いたします。》
《最近は体調が優れず、あまりドーファサーシュと遊ぶことが叶いませんでした。彼はずっと私を心配してくれる、心優しい少年に育っています。》
《ここへ来てまだ少ししか経ちませんが、暮らしにも慣れて来た頃、あなたの存在に気がつくことができました。これからどうぞよろしくお願いします。》
四つ目の瓶へ蓋をするのに苦戦しているときに、廊下より足音が聞こえて来たので私は慌てて瓶を元の場所に戻した。蓋は若干他の瓶より浮いてしまっていたが、ドーファは幸いにもそれに気がつかなかった。
「おまたせ。いい瓶がなかなか見つからなくって苦労したよ」
私たちは机に横並びになり、筆を取った。
「何を書いたらいいんだろう」
あんなに乗り気だったドーファは、いざ紙に向かうと顎に手を当て眉を寄せた。
「知らない誰かに届くものでしょ。返事のない片道の手紙。そうしたら、近況報告とか、ドーファの聞いてほしいことを書けばいいんじゃない」
そうだなぁ、と天を仰ぎドーファは真剣に悩んでいる。そのまま私の方へ視線を移したかと思うと、何か閃いたようだ、目が笑う。
「自慢話にしよう。クロエは見ちゃだめだ、恥ずかしいだろ」
そして背中を壁にして私から手紙を隠すような姿勢で書き始める。私は何度かわざと覗きこもうとしてみたが、ドーファは笑いながらも決して許さなかった。
私たちは手紙を書き終わるとすぐに浜辺へ向かった。今日は適度に風が強く、波は瓶をより遠くまで運んでくれそうだった。ドーファは遠く、海の向こう側を見ようとしているようだった。
「どこまで行くかな」
大きく腕を振りかぶると、身体をねじって瓶を思いきり遠くへ投げた。瓶は大きく弧を描き、太陽の目の前を通過して細い水柱を立て水中へ潜った。すぐに水面へ浮かび上がり、その姿は徐々に徐々に遠のいていく。私も真似をして自分の瓶を投げてみたが、ドーファほど遠くへは飛ばなかった。ぽちゃん、と落ちた瓶は、ドーファの瓶についていくかのように漂っていた。
「どんな人が読んでくれると思う」
「僕のは優しくてきれいな人に読んでほしいな」
「ふうん、一体何を書いたのよ」
「内緒だよ。クロエは」
「私も内緒よ。ドーファが教えてくれないならね」
私たちは瓶が小さな粒になり遠く水平線に吸い込まれていくまで、眺めていた。
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