第2話 先生
その日から私は村長に連れられ、時にはこちらから頼んでドーファのもとへ毎日のように遊びに行くようになった。
最初のうちは不愛想で、会話があまり続かないこともあったが、日に日に私たちは仲良くなっていった。ドーファは本当にこの入り江の外との関わりがないらしく、私が持っていくものは何でも珍しがった。この城には、小さい子が遊ぶようなおもちゃと古い本が数冊くらいしか時間を潰せそうなものはなかったのだ。それらはいくつもある部屋の中の物置のように使われている部屋にきれいに整頓されて置いてあった。
入り江へ通うようになってから半年ほど経った頃、その部屋へ連れて行ってもらった。部屋はあまり使われていないのか、隅に埃が積もっていた。棚の一段目に数冊置いてある本の背表紙を眺め、なんとなく一冊を引き出してみる。
「随分古い本ね。『ナシオの旅路』?聞いたこともない。面白いの」
「面白かったよ。何回も読んでいるからどのページにどんなことが書いてあるかまで全部頭に入ってる」
言い過ぎと思えないくらい、どの本もくたびれて、表紙も擦り切れていた。
「字は自分で覚えたの?」
「先生が教えてくれたよ。僕が小さいころ、一緒に暮らしていたんだ」
えっ、と思わず声が出た。根拠も何もないがただ漠然と彼は生まれてからこの場所で一人ぼっちだと思っていたのだ。
「どんな人だったの」
「おじいちゃんだよ。髭がフサフサしたね。クロエみたいにある日急にここに来たんだ。読み書きや、遊びや生活の仕方を教えてくれた」
その先生のことを話すとき、ドーファの顔は陽だまりの真ん中を見つめるときのように穏やかだった。きっと先生は多くの愛をドーファに与えたに違いなかった。
だが一方で先生の存在は私にとって、もっと大きな意味を持つものかもしれないのだ。
「先生にはもう会えないの」
「会えないよ。……僕に命の大切さを教えてくれたのも、先生だった」
先生はドーファが見守る中で静かに息を引き取ったという。柔らかな春風が吹く、朝の陽ざしが差し込む中、この城の先生が生活していた部屋で。時間に人は勝つことができない、でもそれは幸運なことでもある、ドーファは最期にそう教わったのだそうだ。
ドーファは本をパラパラとめくりながら、目元を拭った。本を通して元気だった先生の姿を思い出したのだろう。古い紙とインクのにおいが遠い時間を感じさせた。
いつしか部屋は西日に包まれていた。夕日に気が付いたドーファは本を閉じると、私に向かって得意げににやりとする。私も顎を引いて、何、と目を見開いてみる。
「クロエは浜に降りたことないだろ」
「崖を降りられるの」
「一か所だけ坂がなだらかになっていて降りられる場所があるんだ。ついておいで」
ドーファの言うように建物の真裏は、一か所だけ細くスロープのようになっていた。それでも結構な高さがある分傾斜はややきつめであったので、私は茶化してみたい気持ちもあり、ドーファの名前を呼んでパッと手を差し出してみた。ふうん、とドーファは鼻につくように首をかしげると、なんでもないかのように私の手を取る。そんなに長い時間ではないが、それは特別な一瞬だった。
とてもきれいな砂浜だった。周りを崖や岩で囲まれているので、なおさら自分たちの存在が特別なように思えてくる。私たちは靴を脱いで波打ち際まで走って行った。毎朝行く船着き場の海より水が透明で、小さな小さな魚が泳いでいるのまでよく見えた。
夕日の沈む真っ赤な海というのは、海沿いで暮らす私たちにとって見慣れたものではあるが、改めて見るたびに胸の奥が暖炉で温められるような感覚になる。
海はドーファが近づくと、潮が満ちるように見えた。ドーファが伸ばす手に擦り寄る猫のように波が寄せるのだ。そんなの気のせいかもしれないが、海が彼を愛している、そんな神秘さが美しかった。
私は村のお伽話を思い出す。昔はここも海ではなかったのだ。どんな場所だったのだろうか、遥か遠い遠い時間に思いを馳せる。
「先生はたまに声が聞こえると言っていたけれど、僕には一度も聞こえたことがない」
「声って」
「一人で歩いてると誰かが海から話しかけて来るって」
「それって、海の王様かも。ドーファは村のお伽話は知ってる?」
「知らない、教えてよ」
私はお母さんが寝る前に話してくれた優しい毛布のような声を思い出しながら、語り始めた。
夕日が沈んでいく。夜の闇が空を覆いつくす前の濃い紫色の空の下で、その音を私は最初波の音だと思った。しかし、耳を澄ますとそれは人の声にも聞こえた。なんと言っているのかまでは分からないまま、身体が冷えてしまう前に私たちは浜辺を後にすることにした。ドーファは声など聞こえなかったようだが、確かに名残惜しそうなか細い声は、波の隙間を走り、泡が弾けるのと同時に消えていった。
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