海守の少女

夏倉こう

第1話 海は水嵩を下げ、クロエは出会う

 私たちの村は半島の先に位置しているため、村人の生活には潮風の香りとウミネコの鳴き声が染みついていた。生活を支えるのは主に漁業であり、味わい深い淡白な白身魚が特に有名だ。海岸近くの一番さわやかな風が吹き抜ける坂道には、きれいに開き内臓を取り除かれた魚が、段々に作られた大きなかごの上で干されている。村の男性たちはそれを馬車に乗せ、毎日毎日隣町まで運ぶ。そうして潮風厳しいこの地域では作ることが難しい野菜や穀物、あるいはさらに遠くの町で作られたきれいな糸なんかと交換してくる。そう、この村の生活は全て海から始まっているのだ。しかし、普通の漁村とはまた違う使命もこの村は背負っていた。海からの恩恵を受け取るだけではなく、海を見守り時に手入れをする使命を持った私たちは、近隣の町の人々からは「海を守る民」と呼ばれていた。



 毎朝、小さな船に乗って漁から帰る父親を出迎えるのが私の日課だった。とってきた魚の鮮度が落ちる前に開くのを手伝うためだ。同じ目的の女子供がこの船着き場には毎朝集まる。その年、私は十六歳になったばかりだった。まだ海から吹き込む風が冷たい朝に、波が陸に向けて重なり合いながら寄せるのを、毛布を被りながらぼんやりと見ていた。周りより少し遅れてやってきたマヌエラが私の横に座った。寝坊したのかマヌエラの髪はいつもより寝癖がひどく、顔色も悪いままだった。

「おはよう、クロエ」

「おはようございます、おばさん」

 マヌエラは少しだらしがないところがあるけれど、いつも周りに気を使っているし、話していて嫌味なところがないので私は好きだった。マヌエラは寝起きで固まった首の後ろをほぐしながら、人魚岩をじっと見ていた。

「それにしたって、やっぱりおかしい」

「なにが?」

「海さ。人魚岩を見てごらんよ。水かさが人魚の腹までしかないだろう。あんたが小さいときにゃ人魚はいつも肩まで浸かっていたんだよ」

「海の水が減っているってこと? そんなこと、まさか」

 その時私にはマヌエラの思い違いにしか思えなかった。大人はよく過去の思い出が頭の中で書き換わっていることに気が付かないことがあるからだ。

「村長が気づいていないはずないんだけどねえ。お、ほら、あんたの父ちゃん帰って来たよ。うちのも一緒だ。おーい、おかえり」

 私たちはすぐに立ち上がり、ナイフを持ってすぐに作業へ取り掛かった。


 当時の村長が私の家を訪ねて来たのは、それからほとんど日が開かないうちだった。

 村長は普段からにこやかな人ではないけれど、その時は特別に表情が陰っていた。家に母と父、それから私しかいないことを念入りに確かめると、深く息を吐き出す。

「クロエ、君に頼みたいことがあるんだ。これは誰にも言ってはいけないことだ。いいね」

 私から承諾も拒否も聞く気がないように、村長は私の両肩を分厚い手で掴んだ。私が呆気に取られている間に、母と父にも向き直り私にしか頼めないと繰り返す。その勢いに押されて私は頷いた。

「ありがとう。心配はするな、クロエを危険な目には合わせない」

 村長は私に外行の服を着てくるように言った。私は頭の中を乱暴にかき回されたような気持のまま、自分の部屋に逃げるように服を着替えに行った。村長があそこまで深刻そうに話すということは、海に関することに違いなかった。先日のマヌエラの言葉が浮かばないわけにはいかない。私は何を求められているのだろう。まったく見当もつかないまま、私はお気に入りのワンピースへ袖を通した。

 家から少しのところに村長は馬車を止めていた。その馬車はまるで真っ黒なただの箱のようで、窓すらなく恐ろしい乗り物のように見えたのだ。村長は自ら手綱を取ると私に馬車へ乗るように促した。私は周りに人がいないことを確かめる。それがまた私を不安にさせる。

「ねぇ、私はどこに何をしに行くの。教えて、じゃないと私行けない」

「乗りなさい。移動しながら話してやるから」

 村長にランプを手渡され、私は重い脚を何とか持ち上げて乗り込んだ。中は思った通り真っ暗だ。扉を閉めると昼だというのに光一つ入ってこない、孤独な空間。壁は案外薄いのか外の声も聞こえた。やあ、村長が馬車なんて珍しい、どこへ行くんです、そんな声が聞こえてくるのがなんだか心細さを一層掻き立て、私はどこかへ売られていくのだと思った。

 膝を抱きしめながら、ランプの光を眺め心をごまかしているうちに、町の喧騒は聞こえなくなった。カパッカパッと馬のひづめの音だけが沈黙を許さない。

「クロエ」

 急に声を掛けられ、肩が跳ね上がった。村長が外から話しかけてきたのだった。

「聞こえているか」

「聞こえる。なに?」

「そう子供みたいに拗ねるんじゃない」

 私はむっとしながら、村長の説明とやらを待った。馬の手綱をぴしゃりとしならせ、短く濃く息を吐きだすのが聞こえた。馬車はややスピードを上げる。

「この地には昔、海などなかった。資源を何も持たぬ我々に海の王様が海をくださったのだ」

 村長が始めたのは、遠い昔母がよく枕もとで語ってくれた昔話だった。村長は続ける。

 この場所に大海原が生まれたことで塩が取れ魚が取れ、生活に困らなくなった。さらに、村人の努力の末には隣国と渡り歩けるようにもなった。ただし、なんの見返りもなく王様が私たちに海を与えたわけではない。王様は私たちに海の面倒を見るように、そう命令した。もちろん喜んで引き受けた。それから私たちは毎日毎日海の管理をするようになったのだ。

「昔話なんてみんな知ってる」

「ここまではそうだな。……ここはもともと海のなかった場所だ。長い間ずっと放置しておくとここはまた海ではなくなってしまう。少しずつ少しずつ、水が減っていってしまうんだ。水が減ってしまったら、私たちにはやらなければならないことがある」

「それが、私が連れてこられた意味なの」

「クロエに頼むのは、とても重大な仕事だ。といっても君には簡単なことかもしれないな。今向かっている場所に人が住んでいる。そいつと仲良くなって欲しい」

「どんな人」

「それは俺にもわからない。男か女か、子供か老人かもな」

「なにそれ!」

 村長の責任感のない言動に私は憤慨した。例えば屈強な二の腕が丸太のような大男が出てきたとして、私にどう仲良くなれというのか。そんな私の心配をよそに、馬車はどんどん進んでいく。たくさんの葉がザアッと一斉に風に従う音からすると、西の森の中だろうか。町の西側にある森の中にはよく木の実やキノコを採りに行くが、馬車の通れるような道などなかったはずだった。もうしばらくすると、馬車は止まり扉が開けられた。久しぶりの光に目の奥がつんと痛くなる。そこはまだ森の中だったが、見たこともないレンガを敷かれた道が一本始まるところだった。その道の先を村長が指さす。

「この道の向こうに、家があるはずだ。そこのドアを叩きなさい。いいかい、どうやって来たのか聞かれたときに、俺に連れてこられたことは言ってはいけない。森を探検していたら偶然たどり着いた、そう答えなさい。日が暮れ始めた頃に、この場所まで迎えに来るよ」


 人の手を加えられている姿が森と調和できていないその道を辿ると、すぐに森を抜けることができた。初めて来る場所だった。

 三方が森に囲まれたそこは小さな入り江だった。入り江の南側はごつごつとした岩場のようになっている。一方で北側は海に突き出した崖になっており、そちらへ道は続いていた。道の終点には豪邸が建っていた。乳白色ですべすべとした壁は磨き上げたサンゴのようで、窓の淵は深い青色の貝殻を細かくモザイクアートのように並べ縁どられている。その窓から中を覗くも薄暗い廊下が続いていることしかわからなかった。全体的に涼やかにまとめられた、貴族の別荘のような建物。この場所に存在するのは、空と海とその建物のみであった。私のことを不思議そうに遠くから眺め鳴きかわすウミネコのほか、人の気配もない。

「きれいな場所……。お城みたい」

 こんなところに住んでいる人ってどんな人なのだろう。

 私は思い切って、閉ざされている両開き式の重たそうな扉を叩いた。

「こんにちは、どなたかいらっしゃいますか」

 しかし、少し待っても中から反応がなかったので、私は恐る恐る戸へ耳を押し付ける。こんなに綺麗で立派な城にも関わらず中はしん、としており時折心なしか潮の引くような音がするのみだった。さっきよりも力をこめてもう一度戸を叩いてみようと、腕を振り上げた時だった。

「こんにちは。君、ぼくの家になにか用?」

 風の少ない晴れた日の波の音のように、身体が包み込まれてしまうような心地の良い声だった。いつの間にか私の後ろに立っていた青年は、私のせいぜい二つか三つ年上だろうか。地平線まで続く海と白い雲を浮かべる空とを背に、まっすぐ立っていた。青みがかった黒い髪が海風に柔らかく揺れ、二つの深い海色の瞳はどこか疲れが見えるけれど、しっかりと私を見ていた。

 思わず言葉に詰まった。

 青年は優しい顔つきをしていたけれど、その表情から薄いガラスのような冷たさを感じたのかもしれない。

「森の中を探検していたらここまで来てしまったの。立派なお城ね、あの」

「ありがとう。でも、ここはすぐに冷えるから、はやく帰ったほうがいい」

 少年は私の肩を掴んでくるりと後ろを向かせると、自分は城の中へと入っていこうとした。冷たい手だった。ここで逃したら、青年は二度と私の前には現れてくれない気がして、慌てて彼のシャツの裾を握った。

「私、クロエって言います。森の中をずっと歩いてきたからくたくたで。お茶の一杯だけでも頂けませんか」

 とっさに私は精一杯の演技をした。

 青年は私の演技を信じたのか、それともこのまま帰る気はないという本心を感じ取ったのか呆れた、というように眉尻を下げた。

「じゃあ、一杯飲んだら帰るんだよ」


 城の中は薄暗くひんやりとしていた。長い廊下には所々何か物が置けそうな台が置いてあったが埃が被っているのみで、花でも活ければいいのにとクロエは思った。

 通されたのはだだっ広い客間だった。ほとんど使われていないのだろう、座った椅子は芯から冷えており蝋燭台には一本の蝋燭も立っていない。

「お茶を入れてくるから、ここで待っているといい。あまりキョロキョロしないで。部屋から出てもダメだ」

 こんな大きな建物に住んでいるのに使用人の一人もいないらしい。

「わかった。本当にありがとう」

 そういうと青年は私を残し出て行った。キョロキョロするなと言われても、村からほとんど出ない私にとってここはあまりに刺激的だった。壁は青や緑などの貝殻でタイルのように飾られていて、大層豪華なパーティを開いても雰囲気が劣らないように作られているようだったが、大きな額縁のなかに絵は飾られていなかった。人が大勢入って楽しい時を過ごしてほしい、そんな建築家の考えと裏腹に、あまりに寂しい空気で満たされた場所だ。大きく息を吸うと、背中がスースーして涙が出そうになる。

 しばらくして青年は薄い黄緑色のハーブティーが入ったカップを二つ持ってきた。さわやかな鼻に抜ける香りは私も嗅ぎなれたものだった。

「いいかい、これを飲み終わったら必ず帰るんだ」

 青年は一つをわたしの目の前へおき、もう一つを持ったまま窓際へ行った。口に含むと、やはり森で取れたハーブを使う飲み慣れた味だった。得体の知れない青年と共通点が私にもある、というのは歯がゆい嬉しさがあった。私はカップを持ち、青年の隣へ移動する。青年はこっちに視線もやらない。

「お名前を聞いてもいい?」

 青年は何も言いたくなさそうだった。ねぇ、と私が催促するとグイとカップのお茶を流し込んでいく。

「ドーファサーシュ」

「不思議な響きの名前ね」

 帰れと言われないために、カップの中身を飲み干してしまわないよう気を付けながら、もう一口含む。

「こんな大きな家に一人で住んでいるの」

 この質問にはムスッとした表情のほかは何も帰ってこなかった。

「ね、普段何をして過ごしているの」

「……別になにも。海を眺めたりさ」

「たしかに、こんなに海がきれいに見えるとこってなかなか無いもの。すてきな場所、私とっても気に入っちゃった。ドーファはずっとここにいるの」

 ドーファは私の顔をやっと見た。細めた目が私を責めるようだった。きっと彼はここに好んで一人でいるわけではない。たくさんの寂しい時間がドーファの目に映っているようだった。心が引きつるような空気を破るためにも、何か、言わなければいけない。それなのに、そうそう気の利いた言葉を私は知らない。

「私、明日も来てはだめ?」

「だめだよ」

「明後日なら、明々後日なら?」

 ドーファは私の顔を見た。そして決まりが悪そうに下唇を噛む。

「どうして来たいの」

「さっきも言ったけれど、この場所がとても気に入ったの。秘密の場所って感じで。それと、あなたのことももっと知りたい」

 村長に仲良くするように言われたことは関係なく、本心だった。声か、容姿か立ち振る舞いか分からないが、ドーファには何か惹かれるものがある気がした。

 ドーファは少し考えると、窓の外を見ながらはにかんだ。

「全部来るなら、来てもいいよ」

「ほんとう!」

 ドーファはいたずらっぽく笑った。その年相応の笑顔がくすぐったく、私もつられた。


 日が落ち始めた頃、森の道へ戻ると村長は馬車をつけて待っていた。村長の顔を見ると今朝の態度を思い出してしまい、少し腹の底がもやもやする。

「どうだった。誰がいたんだ」

「少し年上の男の子」

 男の子と聞いて、村長は眉を寄せる。

「仲良くなれそうか」

 大丈夫、と私がうなづいてみせると村長はホッと胸を撫で下ろした。その表情に思うところがあり、私は半分意地の悪いことをしてやりたくなる。

「彼と仲良くなると、どうして海の水が増えることになるの」

 村長は何も言わなかった。ぎゅっと口を結び、何も聞くなと表情で嗜められる。節の目立つ手が黙って馬車の扉を開く。私はおとなしく馬車へ乗った。帰り道の村長はいつもよりずっと無口で、とても時間が長いように感じた。

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