恐ろしく退屈な日常…。
宇佐美真里
恐ろしく退屈な日常…。
『俺の名前は×××。職業は探偵さ…』
其んな出だしで始まる探偵小説が在った様な気もするが、其んな風に格好をつけるまでもなく、俺の仕事も探偵さ…。
明らかに時代遅れな建物の二階にある事務所。雑居ビルってヤツだ。事務所へと上がるコンクリートの階段や壁の至る処には黒く染みが浮かび薄暗さに輪を掛けている。時代遅れだが、所謂ドラマや小説に登場のハードボイルドな探偵が居る、イメージ通りの探偵事務所ではあるんじゃないか?
抑も、ハードボイルドって云うのは、"固茹で卵"のことを謂うワケだが、生憎と俺はスクランブルエッグ派なんだ…。朝食?朝食は勿論自宅で食ってから出て来るさ。トーストにスクランブルエッグとソーセージが二本。其れがお決まりの朝食だ。カミさん?居ないよ…。イメージ通りで申し訳ないが、数年前に出て行った…。緑のインクのペラペラな紙を一枚、まるでいつもの朝食を置く様にしてテーブルに置いてカミさんは出て行った。離婚届自体がポツンとやけに寂しそうだった。其うさ、其の頃から変わらぬ朝食だよ。スクランブルエッグを食ってから俺は毎朝九時半に出勤する。独りで時間に融通が利くからって、其れをやり始めたらキリがないからな…。自堕落の一途だ。其れは不味い。
よく「何故探偵に?」と訊かれたりもするが、此れと謂って理由もなかったね。勿論ドラマや小説の探偵に憧れたことはあったが、子供が正義のヒーローに憧れるのと一緒さ。まさか実際に職業にするとはね…。酷く地味で"しょぼくれた"職業さ…。
出勤すると先ず事務所の掃除だ。何処の事務所だって同じだろう?まぁ、デスク周辺を拭く程度だがね…。デスクの上のノートパソコンだって、結局掛って来ることも少ない貴重な電話を慌てて取り、舞い込んだ仕事を逃すまいと電話片手に手書きするメモを、改めてパソコンにデータ入力するのも面倒で、完全にオブジェと化している。
基本的に依頼人も証拠をあまり残したくはないのだろう。メールでのアプローチなど殆どない。仕事の大半は電話だし、建物の入口に立て掛けてある看板を偶然目にして、直接やって来る"飛び込み客"ばかりだ。
依頼内容と云えば、探偵とは名ばかりで"何でも屋"にほぼ等しい。同じことを小説の中の探偵もモノローグで語っていた様な気もするが、其れでも奴等には事件が舞い込んでくる…。いつだって突然に。俺に舞い込んで来るのは浮気調査にペット探し。其ればかりさ。腕は悪くないと思うんだがね…。
ともかく、ミステリアスな美女からの依頼なんて、事務所を開いて以来一度だって在りはしないし、マフィアやギャング、ヤクザが事務所に突然押し入って来てボコボコにされる様な経験も同じだ。陰謀に巻き込まれるなんてことは皆無だ。
浮気調査ならまだしも、ペットの捜索で大金なんて転がり込んでは来ない。其んなプロローグの探偵小説は知っているけどな…。ハハハ…。切実な問題として、常に金がない…。ペットの捜索で食って行けるのかって?いや、これが、実際"ペット探し"ってのは想像以上に多いんだ…。俺独りなら何とか喰える程にはね…。みんなもっとしっかりとペットに目を配ってやった方がいい。
実際ペットを探してみて、まぁ…犬よりも猫の方が圧倒的に其の数は多いんだが、依頼人に連絡しても、「其れはウチのコじゃない…」と突き返されることもあったりする。
事務所には、お目当てではなかった"違い猫"達が、もはや迷い猫ではなくなって出入りしていたりする。出入りする猫の為に窓ガラスはいつだって隙間風の通り道になってるよ…。入り浸ってる猫の名前?名前なんてつけてないさ。猫はネコだ。其れ以上でも其れ以下でもない。ただの『ネコ』だ。其う呼んでるよ。抑々、俺が飼っていた猫でもないんだぜ?間違って探し出した猫だからって、保健所に其のまま突き出すのは何だか可哀想でね…。かと謂って、事務所が猫の宿泊施設になるのは勘弁なんだけどな…。
ほら?窓の開いた隙間から、ご帰還だよ…。コイツ、絶対に他所でも上手くやってるんだろうね…。俺のやる餌だけじゃあ、あんなに肥えたり出来ない筈だ。彼方此方巡回して餌を食べ回ってるに違いない…。俺よりもグルメだよ…。まぁ、当てにされるのも悪い気分じゃないけどな…。
「エサの時間だ。早く寄越せ」って顔するんだよ…コイツが。
あ、この野郎…灰皿をひっくり返しやがった…。また仕事を増やしやがって…。
何だかんだやってるうちに、昼時じゃないか?飯は混み出す前に食べに行く。周りには其んなに店がある訳でもないから、何処も混む。行列に並んで…なんてまっぴらだ。昼飯は蕎麦屋が多いね。此処の蕎麦屋は其んなに混まないんだよ…何故か。いや、味は悪くないと思うんだがね…。常連の爺さんたちが何人か、昼からテレビ見ながら蕎麦を摘まんで日本酒をやってる訳さ。だから他の客も入り難いのかもしれない。常連同士、たまには話もしたりするが、基本的には皆独りでテレビを眺めてる。独りの客が好まれる。べらべらと職場の愚痴なんかのお喋りが無いからな。其の中の一人に俺も上手く参入出来た訳だ。天井近くに据えられたテレビで芸能人のスキャンダルが流れている。コメンテーターが好き勝手に話している。どうでもいいことだ。
テレビと謂えば、子供の頃に再放送で観た探偵ドラマの主人公。皆、格好良かったよなぁ…。お洒落な格好していたしな…。だが実際の探偵なんて、其んな格好良いモノじゃないんだよな…。普通にスーツ着て、ラッシュアワーの電車の中に居る奴等と何ら変わらない。第一、あんなドラマみたいな格好していたら、尾行なんかしていたって目立って仕方がないからな…。
まぁ、俺も遣り方が上手くないのは分かってる。
同業の知り合いは、もっとまともな場所に事務所を構え、パリッとスーツを着こなして…、事務所も今風な"オフィス"…と謂った感じでスタッフも何人か雇って事務仕事はソイツ等にやらせているよ。おっと、やらせている…だなんて言ったら問題になるんだそうだ…此のご時世では。
其う謂う面では、俺は気楽だ…独りだからな。人を雇う程の金の余裕は勿論ないからな…。
フィリップ・マーロウ?
そりゃあ、探偵を始める前から知ってるさ…。事務所を開いてからも暇を持て余して改めて読んだしな。ひと通り読んだよ…チャンドラーにハメット。確かに格好良いよな…。マーロウと云えば、映画で演じたボガートのイメージが強かったりするが、俺はボガードよりも…グールド、エリオット・グールドのマーロウの方が好きだったな…。だけどなぁ…現実にはあんな風に名言なんて出て来やしないし、其れを言う様な場にも出くわさない。
やっぱりフィクションなんだよ…。フィクションだからこそ、魅力的だったりするんだろうがね…。憧れるんだ…。其れに何よりも俺は生憎と、ギムレットが嫌いだしな…。
ボガートと云えば、『三つ数えろ』に出て来た本屋の店員、ドロシー・マローンは綺麗だったよな…。眼鏡を掛けた美人と云うのは、そそられるね…。眼鏡の美女がペロリと舌なめずりしちゃうんだぜ?あれにやられない男が居るんなら見てみたいもんだ…。他の映画に登場する彼女は其れ程そそられたりしなかったんだがね…。
蕎麦屋から戻ると、いつももうネコは何処かに行っちまってるよ。何処に行ってるんだろうね…。愛人との昼過ぎの密会とか?いいもんだね…。一度くらい"する"側になってみたいもんだよ…。いつだって俺は"見る"側だからね…。
今日も依頼の電話は掛かってこない…。せっかく話に出たことだし、グールドの『ロング・グッドバイ』でも観てみるかね…。DVDが何処かにあった筈だ。整理整頓が出来ないせいで、二枚も持っているからな…。一枚は家に、もう一枚は事務所の中にある筈さ。まぁ、ディスクを探すのに何時間も掛かっちまうんだろうがね…。
たかだかDVD一枚に事務所内でてんやわんやしていると、「いるんでしょ?」と、入り口の扉が開く。近所のおばちゃんだ。以前、おばちゃんの飼い猫を探したことがある。其れ以来、依頼人・飼い猫共々、度々此の事務所に顔を出す様になった。
「親戚から、いっぱい届いちゃったからお裾分けするわ」
其う言って手にしていた段ボール箱を、応接用のソファの上に置く。
「何かいつもすみませんねぇ…」
愛想よく応対するのが秘訣だ。近隣の住人とは仲良くするに限る。其処からまた新しい依頼に繋がるなんてことはよくある話だ。
「随分とひっくり返したわねぇ…」
「えぇ…。ちょっと探し物を…」と薄っすらと滲む額の汗を拭いながら、俺は答える。「お金になる探し物をしなさいね!」と笑い、おばちゃんは出て行った。おっしゃる通り…。
段ボールの中味を確認する。色取り取りの野菜が中に収まっていた。独り者の俺には随分な量だが、兎に角、貧乏探偵の俺に取っては救いだ。
結局、事務所の思いつく範囲にDVDは見つからなかった…。此れ以上探すのは無駄だと諦める。近いうちに大掃除をしなければならないと改めて言われた気分だ。タイトル通り『ロング・グッドバイ』にならなければいいんだが…。
事務所に寝泊まりすることは自分自身ご法度にしている。探偵小説の中の主人公は事務所で酒を飲み、其のまま眠り込んでしまうなんてシーンもよく在ったりするが、俺は帰るようにしている。まぁ、事務所と自宅は歩いて十分も掛からない距離ではあるんだがね…。其れに…雑居ビルの上階にはスナックがあって、事務所で眠るには煩過ぎる。
事件になんて巻き込まれない。後ろから銃を突き付けられることもない。
殴られてボコボコになることもなく、美女とのキスもない。ある訳もない。
平和なもんさ…。平和ってのは退屈で…恐ろしく退屈で、欠伸を何度したって消えやしない…。恐ろしく退屈な日常…。そいつが俺の日常さ。
明日もきっと同じ様な一日。大して変わり映えない明日。まぁ、変わり映えしたならば其れは其れで困ったりするんだろう…。事件になんて巻き込まれたくない…。俺は街の探偵さ。何処にでも居る"しがない"探偵。事件なんてのは、小説の中だけで充分さ。
さぁ、家に帰って、シャンディ・ガフでも飲んで寝るよ…。
シャンディ・ガフだなんて気取ってみるけれど、要するにビールとジンジャーエールさ。
「飲むのなら自尊心を忘れないようにして飲みたまえ」
チャンドラーの原作に此んな台詞があったっけ。
飲みながらDVD鑑賞ってのも悪くないな。深酒しない様に気をつけよう…。
それじゃあ、おやすみ…。良い夢を…。
-了-
恐ろしく退屈な日常…。 宇佐美真里 @ottoleaf
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