夜の星空は脳細胞

椎名めぐみ

夜の星空は脳細胞


YouTubeに存在する全ての動画のうち、およそ9割は再生回数が1000回に満たないという。つまりほとんどの動画はゼンゼン見られていないということだ。このデータの教訓は、人はみんな流されて同じようなモノばかり見たがる、ということになるのかもしれないが、私としては再生回数1000回未満の9割の人々が気になった。多分似たようなデータは、あらゆる類の投稿サイトに言えることだろう。例えば小説投稿サイトにも。


コンテンツというものは、実は見るよりも作るほうが面白いのだろうか? そうでもなければ、一、二件のコメントしかつかないような作品が大半を占めるサイトなんてやっていけるわけがない。見る喜びよりも作る喜びが優先されてしまった結果、読者の立場として目に入るのは作品の個性などではなく他と比べてどれだけ『マシ』かという下らない取捨でしかない。マシな作品が一部に偏るのは当たり前である。変わった作品にはよほど潜らなければそもそも出会うことができない。好みや哲学の違いはその後で出てくる問題だ。


なんとなく流される人々と、なんとなく流されたくない人々が、適当にぐちゃぐちゃっとし続ける、そういった環境がネットには定着してしまったように思える。せっかく凄い人に出会えると思ってスマホを手に入れたのに、こんなことなら居酒屋のボケたジイさんと話していた方がまだ面白い。実際社会はそのことに気づきつつある。


それでも「クリエイター」達は「作品」を発表し続ける。これは恐ろしいことだ。小説は読むものであり、動画は見るものだという当然の前提が崩れてしまった。小説は書くものになり、動画は撮るものになってしまった。このなかに普通と違う作品が現れても、もはやそれらを消費する基盤はどこにもない。埋もれて届かないという意味においてもそうだし、誰とも感動を共有することができないという意味においてもだ。作品は、読者のためでもなければ、実は作者のためにさえ存在しない。表現の欲望のために、つまり露出狂者のためにあるのだ。


これを読んだ時びっくりしたのだけど、精神医学によると、露出狂の快楽は自分の性器を他人に見られた恥ずかしさにあるのでは"ない"らしい。むしろ、自分の性器を見てしまった他の人々が、戸惑ったり、怒ったり、無視したり、恥ずかしがったりするその『表情』を快楽に変えるのだという。自分の性器を見られたという事実は、露出狂者にとってほとんどどうでもよく、肝心なのは目撃した人々がどのように驚いたかという反応の部分なのだ。

この感じ、何かに似ている。そう、ひん曲がった内実の伴わない『クリエイター意識』に振り回され、大したことないコメント一つを異様に拡大解釈する底辺あーてぃすと達だ。彼らは作家ではなく、実は単なる露出狂なのだ。ここに、座り心地の良い観客席はない。全ては突発的に路上で行われる。


露出狂者にとって、作品が何であるかは完全に"どうでもいい"ことなのだ。そんなことがありえるだろうか? 自分の作品がどうでもいいアーティストなんてこの世に居るだろうか? いやそもそもそれ以前に、彼らはおそらく媒体にさえ関心がない。自分がそこに居れば、自分の影響がそこに感じられれば、あとのことはまったく関係がない。だから彼らは執拗に「コメント」を求める。あるいは「相互フォロー」を求める。強制的に見せつけ、反応を引っ張り出しさえすれば、それで露出の欲求は満たされる。そこには作品としてのクオリティや質の問題など入りこむ余地がない。しかし読者からすれば、作品の読み心地ではなく「コメント」を急かされる作品になど一切の存在意義は無いのだ。


もちろん、露出の欲望によって作られた名品はいくらでもある。リリー・フランキーの演技などはそうだろうし、(私は好きではないが)ヨコオタロウのゲーム作品などは、そのようなユーザーの顔色を伺う感じが上手く滲み出ているといえる。むしろ露出の欲望は表現の基礎だとさえ言えるかもしれない。だから欲望そのものを批判したいわけではないので、ちょっと語気が強くなり過ぎたかもしれないが、ネットに期待したホンモノの表現の自由がこんな顛末に至っているわけだから、その点はどれだけ言っても指摘し過ぎるということはない。露出狂者にとっては、作品よりも作者のほうが大事なのだ。


サディストにマゾヒストが対応しているように、露出狂にも対応する性向がある。それは窃視症(覗き魔)だ。だから、窃視的な才能というものがもし存在するとしたら、露出的な表現が散見され幅を利かせている今のネット上で、もっとも不利益をこうむっているのは彼らだということになるだろう。

窃視についての詳細な分析はあまり見当たらなかった。そこで考えてみたのだが、もし窃視症者が露出狂者に対応しているのだとしたら、窃視症者の嗜好は、ターゲットの性器を見れたことを喜ぶことでは"ない"のではないだろうか? むしろ、ターゲットの性器に気づかれていない『自分』を快楽に変えているのではないだろうか? 


覗く対象ではなく、覗いている自身を喜ぶような表現。これらのリクツは哲学っぽい話で抽象的なので、フォーカスをより具体的にしてみよう。誰もいない従業員用の通路に一人しゃがみ込んだり、何も催されていないイベント会場を歩いてみたり、テナント募集中の空きフロアに一人佇んでみたりする喜びは、確かにコンテンツとしてほとんどまともに追求されたことが無い。孤独の苦しみを露出する作品は星の数ほどあるが、世界に取り残される喜びを(主題に)描いた作品など、商業作品でもほぼ見たことがない。かろうじて三秋縋の恋愛小説や、西村悠の乙女ゲームなどにその片鱗が見られる程度だ。それも頑なに、恋愛小説や乙女ゲームなどのジャンルの縛りに矯正された形でしか存在を許されていない。

理由は単純で、そうでもしなければ人気を獲得できないからだろう。実際、一二三スイの「世界の終わり、素晴らしき日々より」や、有沢まみずの「銀色ふわり」などは、同種の才能を抱えていたにも関わらず、売り上げを飛ばせず流れ星のように消えていった。孤独へ突き飛ばされる喜びがポピュラーさを獲得できないのは当たり前と言えば当たり前だ。そして当たり前としての不人気に、当たり前に続きは書かれなくなった。


私がネット小説に期待したのは、ゴミのような異世界転生小説などではなく、迫害された窃視の才能による未来だった。神から放置された世界、宇宙に気付かれない自分・・・なにか独特の、完璧に新しい美しさの予感がしないだろうか? ネット上には、確かに同種の才能が、曇り日の夜空のように離れて孤独に光っている。それらはあまりに孤独で、読者層というものを形成していない。窃視の才能が、キャラクターという概念をどう処理するのか? エンタメ性のなさをどのように取り繕うのか? そこからどのような物語、多様性、テーマ、ホスピタリティが立ち現れるのか? 読者として、まだそんなことを考える土壌にはない。作家がもし小説を削除すれば、それだけでこの世からジャンルが消滅する。極端に言えばそんな切迫感さえひしめいている。



窃視の才能は、商業によってもWEB環境によっても着目されないポイントにある。このエッセイで言いたかったのは要するにこのことだ。


かつて初音ミクが微かに見せた未来の感覚、ゲーム世界の街並みに感じる妙な感慨、おそらくそんなものも、窃視の才能へと連なっている。こんな感動的なものを、知らないフリして生きるのはつまらない。似たようなことを考えている人が居たら共感したい。とりあえずは、Twitterでもコメントでもなんでも話しかけて来て欲しい。

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