私と将来と摩擦係数
多賀 夢(元・みきてぃ)
私と将来と摩擦係数
計算上ならば。
静止する箱は、少しの力を加えれば押し出される。そのあとは常に同じ速度で、床の上を延々と滑り続ける。これが等速度運動。
だけど実際の箱は、やすやすとは床の上を滑らない。思いっきり押すと動くかもしれないけど、大抵はすぐに減速して止まってしまう。摩擦力が働くから。
その摩擦力を計算するときに必要なのが、摩擦係数。
摩擦係数が小さいほど、物体は動きやすいんだ。
*********************************
(はあ、だめだー)
私は今日も、扉の前で石になってしまった。
いつもいつも、自分を変えたいとここに来るのだ。なのにいざ扉に手をかけようとすると、体が重くなり、頭が回らなくなり、自分に自信がなくなって、帰ろうという気持ちでいっぱいになる。そして、帰ってしまう。
この、やる気のない自分が嫌だ。勇気がない自分が嫌だ。
高校生になってから、周囲はやすやすと未来を決めていく。例えばピアニストだとか、画家だとか、絶対になれっこない夢を追いかけて進路を決めていく。「将来食べていけなかったらどうするの」とか心配しちゃうけど、それすらも言えない。余計な事のようで。
その前に、まず私が未来を決められていない。勉強していれば問題はないと思うけど、成績は上の中だし、自分の行ける大学じゃ就職もできないかもしれない。就職したって、私は会社で何をするのか分からない。そんな人間が社会に出てもいいのかと、更に自信を失っていく。
これじゃ駄目だっていうのは分かってる。
だから私は決めたのだ、まず働いてみようと。
この雑貨屋さんなら好きで何度も通っているから、やりやすいと思ったから。
履歴書も書いた、親も説得した。なのに。なのになのに!
「今日も無理だ……」
私は疲れ果ててしまって、とてもじゃないが入口の扉を開く力もなかった。気合を入れ過ぎてめまいもする。ガラスに映る自分の顔が、なんだかどす黒くて死んでいる。
今日も帰ろ。
そう決めてその場を立ち去ろうとした途端、目の前が白くなって倒れかけた。
「うわ、え、えっ」
慌ててすがったのが扉の取っ手で、そこからはよく覚えてなくて。
「大丈夫ですかっ!?」
気が付いたら若い男の店員さんに抱き起されていて、そこからじわじわじわーっと『ヤバい事になった』と気が付いた。
「あ、あ、ああああのっ」
最悪の状態でお店に入っちゃったー!
「ケガはない? ちゃんと見えてる?」
「は、はひ、だいじょうぶ、です」
ああ恥ずかしい、ここで働きたいとか言えない――
「あれ。君、履歴書持って来たの?」
「は? あわわわわ」
倒れた時に、バッグの中身を床にぶちまけたらしい。履歴書を入れたクリアファイルが、実によく見える位置まで滑り出して止まっている。
もうこうなったらしょうがない!私よ、人生最大の勇気を出せ!
「あの! ここで、アルバイトさせてほしいのですが!!」
店員さんは、ちょっと困った顔をした。
「僕に言われても……僕もアルバイトだし……」
「あ、ああ、そう、そうなんですね……ですよね……」
「ちょっと待って、店長に電話するから」
「は?」
店員さんは、その場でスマホを取り出し電話し始めた。
「店長、アルバイト希望の女の子が来ています。履歴書も持ってきていますが、どうしますか? ――え、今から? 分かりました、そう伝えます」
店員さんは電話を切り、私に笑顔を向けた。
「今から店長が来て、面接するそうです」
「今から!?」
展開早くない!?!?
おろおろしていると、店員さんが優しい目で私の顔を覗き込んだ。
「君、ずっと入口でウロウロしてたのって、ここで働きたかったからなんだね」
「……はい……」
見られてたなんて、もう恥ずかしい。
「大丈夫だよ、最初の勇気さえ出せたなら、そのあとは楽に進んでいくもんさ」
「はい……」
「とりあえず、休憩室に移動しようか。――そうそう、これは僕の持論なんだけどさ。『摩擦係数』って知ってる?」
*********************************
摩擦係数には二つある。
止まっているものを動かそうとする時にかかる、『静摩擦係数』。
動き出したものを動かし続けるためにかかる、『動摩擦係数』。
静摩擦係数は、動摩擦係数よりも大きいんだ。自転車をこぎ出すときって、すごく足に力が必要でしょ。だけど一度こぎ出してしまうと、とても楽に進むでしょ。
僕は人生にも、静摩擦係数や動摩擦係数ってあると思う。
何かを始める時ってさ、始めるまでの勇気ってとても大きいし不安じゃん。
だけど一歩踏み出しちゃうと、楽々と生きていけるものなのさ。
君はこうやって動き出したよね。だから、これからも立ち止まりさえしなければ、ずっと楽に生きていけるはずだよ。
ん? バイトに落ちたら?
落ちたって関係ないよ。だって君は、これからも生きていくでしょ。この運動エネルギーを別の何かにつなげればいいんだよ。
君の思っている『自信』の正体って、案外そうやって繋いできたエネルギーなんじゃないかな。
私と将来と摩擦係数 多賀 夢(元・みきてぃ) @Nico_kusunoki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます