私と将来と摩擦係数

多賀 夢(元・みきてぃ)

私と将来と摩擦係数

 計算上ならば。

 静止する箱は、少しの力を加えれば押し出される。そのあとは常に同じ速度で、床の上を延々と滑り続ける。これが等速度運動。

 だけど実際の箱は、やすやすとは床の上を滑らない。思いっきり押すと動くかもしれないけど、大抵はすぐに減速して止まってしまう。摩擦力が働くから。

 その摩擦力を計算するときに必要なのが、摩擦係数。

 摩擦係数が小さいほど、物体は動きやすいんだ。


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(はあ、だめだー)

 私は今日も、扉の前で石になってしまった。

 いつもいつも、自分を変えたいとここに来るのだ。なのにいざ扉に手をかけようとすると、体が重くなり、頭が回らなくなり、自分に自信がなくなって、帰ろうという気持ちでいっぱいになる。そして、帰ってしまう。


 この、やる気のない自分が嫌だ。勇気がない自分が嫌だ。

 高校生になってから、周囲はやすやすと未来を決めていく。例えばピアニストだとか、画家だとか、絶対になれっこない夢を追いかけて進路を決めていく。「将来食べていけなかったらどうするの」とか心配しちゃうけど、それすらも言えない。余計な事のようで。


 その前に、まず私が未来を決められていない。勉強していれば問題はないと思うけど、成績は上の中だし、自分の行ける大学じゃ就職もできないかもしれない。就職したって、私は会社で何をするのか分からない。そんな人間が社会に出てもいいのかと、更に自信を失っていく。


 これじゃ駄目だっていうのは分かってる。

 だから私は決めたのだ、まず働いてみようと。

 この雑貨屋さんなら好きで何度も通っているから、やりやすいと思ったから。

 履歴書も書いた、親も説得した。なのに。なのになのに!


「今日も無理だ……」

 私は疲れ果ててしまって、とてもじゃないが入口の扉を開く力もなかった。気合を入れ過ぎてめまいもする。ガラスに映る自分の顔が、なんだかどす黒くて死んでいる。

 今日も帰ろ。

 そう決めてその場を立ち去ろうとした途端、目の前が白くなって倒れかけた。

「うわ、え、えっ」

 慌ててすがったのが扉の取っ手で、そこからはよく覚えてなくて。

「大丈夫ですかっ!?」

 気が付いたら若い男の店員さんに抱き起されていて、そこからじわじわじわーっと『ヤバい事になった』と気が付いた。

「あ、あ、ああああのっ」

 最悪の状態でお店に入っちゃったー!

「ケガはない? ちゃんと見えてる?」

「は、はひ、だいじょうぶ、です」

 ああ恥ずかしい、ここで働きたいとか言えない――

「あれ。君、履歴書持って来たの?」

「は? あわわわわ」

 倒れた時に、バッグの中身を床にぶちまけたらしい。履歴書を入れたクリアファイルが、実によく見える位置まで滑り出して止まっている。


 もうこうなったらしょうがない!私よ、人生最大の勇気を出せ!

「あの! ここで、アルバイトさせてほしいのですが!!」

 店員さんは、ちょっと困った顔をした。

「僕に言われても……僕もアルバイトだし……」

「あ、ああ、そう、そうなんですね……ですよね……」

「ちょっと待って、店長に電話するから」

「は?」

 店員さんは、その場でスマホを取り出し電話し始めた。

「店長、アルバイト希望の女の子が来ています。履歴書も持ってきていますが、どうしますか? ――え、今から? 分かりました、そう伝えます」

 店員さんは電話を切り、私に笑顔を向けた。

「今から店長が来て、面接するそうです」

「今から!?」

 展開早くない!?!?

 おろおろしていると、店員さんが優しい目で私の顔を覗き込んだ。

「君、ずっと入口でウロウロしてたのって、ここで働きたかったからなんだね」

「……はい……」

 見られてたなんて、もう恥ずかしい。

「大丈夫だよ、最初の勇気さえ出せたなら、そのあとは楽に進んでいくもんさ」

「はい……」

「とりあえず、休憩室に移動しようか。――そうそう、これは僕の持論なんだけどさ。『摩擦係数』って知ってる?」


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 摩擦係数には二つある。

 止まっているものを動かそうとする時にかかる、『静摩擦係数』。

 動き出したものを動かし続けるためにかかる、『動摩擦係数』。

 静摩擦係数は、動摩擦係数よりも大きいんだ。自転車をこぎ出すときって、すごく足に力が必要でしょ。だけど一度こぎ出してしまうと、とても楽に進むでしょ。


 僕は人生にも、静摩擦係数や動摩擦係数ってあると思う。

 何かを始める時ってさ、始めるまでの勇気ってとても大きいし不安じゃん。

 だけど一歩踏み出しちゃうと、楽々と生きていけるものなのさ。


 君はこうやって動き出したよね。だから、これからも立ち止まりさえしなければ、ずっと楽に生きていけるはずだよ。

 ん? バイトに落ちたら?

 落ちたって関係ないよ。だって君は、これからも生きていくでしょ。この運動エネルギーを別の何かにつなげればいいんだよ。

 君の思っている『自信』の正体って、案外そうやって繋いできたエネルギーなんじゃないかな。

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私と将来と摩擦係数 多賀 夢(元・みきてぃ) @Nico_kusunoki

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