ウグイスが鳴く時

七瀬空

ウグイスが鳴く時 全編

 「では、数十分後に名前を呼びますのでよろしくお願いします」

 「はい」

 ここの大病院は真冬なのに暖房がよく効いているな、そんなことを思いながら椅子に腰をかける。

 今から約30分後くらいに名前を呼ばれるのだが、この時間では中途半端に家に帰ることも近くのショップモールに遊びに行くこともできない。

 なので、椅子に腰をかけて時間を潰しているのだ。

 「ねぇあなた、ここに新しく入院するの?」

 後ろからそんな話し声が聞こえてくる。そういうことをズカズカ聞く人はあまり得意ではないのだ。

 「ねぇあなたに聞いてるんだよ?」

 ふいっと目の前に顔を出して話しかけてくる。周りを見ればこの後ろにいる同い年ぐらいの少女以外、誰もいない。

 「僕のこと?」

 「今目と目を合わせて喋ってるのに逆に違うと思ってるの?」

 「たしかに…」

 「ここに入院するの?」

 急に本題へ話題を切り替えてくる。初対面でここまでズカズカくる人は珍しい気さえする。

 しかしなぜだか、この人は初対面で話すのをちっとも人見知りしていないようだ。

 「そうだよ。ちょっとだけ入院する」

 「体のどこか悪いの?」

 「…体じゃない」

 この話題は出来ることならあまり話したくない。秘密にしているわけでもないが、胸を張って言えることでもないからだ。

 「そっか。私は体の病気なんだよ」

 何かを察したのか自分の話に変える。しかしここまではっきり言われると何か奇妙な感じだ。

 「…そう」

 これ以上話してもどちらの為にもならないので、興味がないように話題を打ち切る。

 「私ね、癌なんだ。16歳で末期の一歩手前って感じ。夏の終盤まで持つか分からないってお医者さんに言われてるんだ」

 「…は?」

 「え、癌は知ってるよね」

 「そりゃ知ってるけど…」

 聞いてよかったのか、そんな疑問が頭の中を駆け巡る。

 「ヤバいよね、まだ子供なのに癌なんて。もっと生きれると思ったんだけどな」

 こんなことをハキハキ言う方がヤバいと思うのだが、ぐっと抑え込む。

 「僕は鬱だよ。なんか病院の人曰くかなりひどい状態で少しの間入院した方がいいって」

 「言いたくなかったんじゃないの?」

 「そっちが言ったから僕も言うのが道理かなって」

 「言わなくてもよかったのに」

 ケラケラと笑いながら小馬鹿にするように少女は言う。

 相手が言うならこちらも言うのが道理では無いのだろうか。どうやらここの道理とは違うものを持っていたらしい。

 「んじゃこれからちょっとの間仲良くしようね。入院するのは私とあなたの2人だけだから」

 少女が握手を求めているように手を差し伸べてくる。

 「あ、あぁ」

 仕方なく便乗するように握手する。

 「七瀬さん」

 「あ、はーい」

 握手を交わしたところで、受付の人から呼び出しが入る。

 「ちょっと行ってくる」

 「うん」

 少し変わった人だな、なんて思いつつ受け付けに向かう。

 「では、お部屋は2階の一番手前、201になります」

 後ろの棚から鍵を取り出し渡してくる。鍵に201と書いたキーホルダー付き。なんとも病院という感じだ。

 「ありがとうございます。あ、少し聞きたいのですがここに入院しているのは僕合わせて2人なんですか?」

 千葉県はそんなに人が少なかったのか、などと思わされる。

 「そうですね。さっき話していらっしゃった人とあなただけです」

 「み、見てたんですか…」

 何故だか見られていたらしい。少し恥ずかしい感じもするが、見られていたのなら今更もう変えようがない。

 「あの人人見知りしない子でね、どんな人にでも声かけに行くのよ」

 気づけば看護師さんの敬語が外れている。

 「そうなんですか…」

 「いい子だから仲良くしてあげてね」

 優しい笑みを浮かべながら話しかけてくる。どうやら話の内容的にあの少女は長い間いるらしい。

 「はい。ありがとうございました」

 会釈をし、スタスタとカバンなどを置いていた椅子へ歩く。

 「ちょっと長話してたね」

 ずっとこの少女は待ってくれていたらしい。普通は部屋に戻るだろうに、それほど喋りたいのだろうか。

 「まぁね」

 「部屋は二階?」

 「なんでわかったの?」

 鍵はポケットに入れていて決して見せていない。なのに2階とわかっている。

 「いや、精神的な病気の人は2階、身体的な病気の人は1階って決められてるの」

 そのような決まりがあるなんて初耳だ。それを聞いて少し納得できた気がした。

 病院に入院しているのは現在2人だけ、なのに別々の階層なのだ。

 「そ、そうなんだ…」

 しかし、何故そんなことを知っているんだろう。普通そんなことは教えられないし、分からないはずだ。

 「部屋まで案内するね。ついてきて」

 元気な笑顔をして、振り返った少女は歩き出した。

 「ちょ、ちょっと…!」

 カバンを背負い後を追いかけるように小走りをする。

 スタスタと階段を上る彼女を追いかける。

 「げ、元気だね…」

 出た言葉はそれだけだった。末期ならもう動けなくなってもいいはずだ。

 なのに普通の人のように歩いている。変な話だ。

 「もうすぐ歩くのも困難になるかもしれないけどね」

 「え…」

 「あはは、ごめん気にしないで」

 乾いた笑いをした彼女。ダメなことを言ったんだと悟った。

 「ごめん…そういうつもりじゃなくて…」

 「全然いいよ?分かってるし」

 乾いた笑みを浮かべたと思いきや今度は悪戯好きのような声だ。

 しかし、彼女が振り返ることはない。

 「ちょっと疲れちゃうね」

 階段を登り切ると彼女は少し息を切らしてこちらを向いた。

 それでも少し無理をして息を整えているように見える。

 「そうだね」

 別に息が切れるほどではないが、意見を合わせておく。

 元気なように見えて全く元気ではないのだろうか。いや、そうなのだろう。

 「やっぱり癌だとこれでも疲れるね」

 乾いた笑みを見せて無理に笑いを作っているのが目に見えてわかる。

 「…反応に困るからやめてくれないかな」

 なんと反応しても間違いな気がする。

 素直に可哀想だねと言えば嫌味になるし、頑張れなんて言ってもほとんど治ることがないと言われている癌を患っている相手に失礼だ。

 「あはは、ごめんごめん」

 そんなことを言いながらもやめる気はないのだろう。そんなことも気にしていないかのように廊下を歩き始める。

 「201だからここだよ」

 1番手前に見える部屋を指差す。

 「あ、鍵…」

 ポケットに入れた201号室の鍵を取り出して、部屋を開ける。

 「すっごい!きれいな布団じゃん!」

 ハイテンションに彼女は布団に飛び込む。ずっと一人で同じ病室だから新しい布団は少し新鮮なのかもしれない。

 初めての入院だが、部屋のきれいさに圧倒される。窓の隅々までホコリが見えない。

 「はしゃぎすぎだよ」

 彼女は布団に寝転がり新しい布団を堪能している。

 「よいしょっと…」

 近くにあった椅子に座る。別に身体が悪い訳じゃないので寝転がる必要もない。

 「そういえばなんで鬱になったの?」

 「それ聞くの…?」

 少しデリカシーの無さに圧倒される。それがここの常識なのだろうか。

 「いいじゃんいいじゃん」

 恐らくここで答えなかったらずっと聞き続けられるだろう。

 「学校だよ」

 「学校?学校って辛いところなの?」

 しまった。瞬間的なそう感じた。長い間入院しているということは恐らく学校に行っていないのだろう。

 「あ、なんかごめん…」

 「全然気にしてないから話して?」

 明らかに顔が暗くなったのが分かったのだろうか。気を使わせてしまった。

 「僕、窓を眺めるのが好きでさ。休み時間も授業中も暇があれば窓を眺めてて…。そしたら知らない間に失恋したらしい。だとか虐められてたらしい。とか変な噂が流れて」

 「うんうん」

 「初めはそれを聞いたクラスの人たちが僕を心配してくれて励ましてくれてたんだと思う…でも僕はそれになかなか答えることができなくって…いつしか反応を求めたみんなが悪戯を初めてさ」

 「いじめに発展したの?」

 「…そう」

 察しが早い。学校に行っていない彼女からすれば分からない問題のはずなのに。すごいものだ。

 「なんかバカバカしいね。私は学校に行ってないからわからないけど」

 彼女の歯切れが悪くなる。少なからず彼女も自分が学校へ行けたないことは不満を抱いているのだろう。

 「バカバカしいけど…あの人たちのしたことも理解できるんだよね」

 「どういうこと?」

 「誰だって人とか関わったら相手の反応を見たくなるものだからさ」

 「確かに…」

 本当に納得したかのように頷き、真面目に話を聞いている。

 「だから仕方ないのかも」

 「だから仕方ないってのは違う気がするなぁ…どうなんだろ…やっぱり学校に行けてないからなんとも言えないや」

 申し訳なさそうにあはは、と笑う。

 「どれくらい学校に行ってないの?」

 「んーとね…」

 こんなことを聞くのは野暮だと分かっている。しかし、こちらはある程度答えたのだ。これくらいは答えてくれてもいいだろう。

 「小学2年生のころからかな」

 「すごく昔な感じする…」

 年齢を知らない以上なんともいえないが、ほぼ同年代だろう。

 「私が今17歳だから…」

 「17?!年上…タメ語でごめんなさい…?」

 「なんで疑問形なの?」

 おかしそうに笑って言葉を続ける。

 「今更敬語なんて嫌だからタメ語でお願い!」

 「う、うん…」

 「まぁだから7歳から17歳までだから10年間だね」

 「そんなに…」

 「あ、ちなみに君は何歳なの?」

 「16歳だよ。高校一年生」

 彼女は17歳とは思えないほどおさなく、無邪気に見える。

 「ならあんまり変わらないじゃん!もう同級生みたいなものだよ!」

 高校で後輩に言われると物凄く嫌な思いをしそうな言葉を発する。

 「そ、そうなの…?」

 あまりにも聞き慣れない言葉に戸惑いを隠せない。

 「そうそう!だから気にしちゃダメ!」

 「う、うん…」

 どこか幼さが残っている彼女は、先輩や後輩という上下関係を気にしないらしい。

 初めから少し違和感はあったのだ。妙に人見知りしないだけではなく看護師さんとも仲が良さげな様子だからだ。

 「…でも君を見てる感じ鬱になんて見えないけどね」

 「なんなんだろうね。僕にも分からないんだ」

 「別に何かに悩んでいる雰囲気もないしね…」

 「まぁすぐ退院できるんだし深くは気にしないようにするよ」

 「そうだね…」

 気がつけば夕焼けがあたり一面に広がる。

 窓からはオレンジの光が二人の姿を照らす。

 「もう夕方かぁ」

 話していると1日とは早いものだ。などと実感させられる。

 「また明日も話そ!」

 一方的に喋っている彼女に無感情に

 「うん」

 と答えた。

 別に退屈だった訳じゃない。しかし、決して楽しかったわけでもない気がする。

 「じゃあね」

 彼女はバイバイと手を振って1階に降りていく。

 少し疲れた七瀬はベッドに寝転がり、そのまま意識が遠のいていくのを感じた。






 彼女と別れたあと、一人静かに時間を過ごす。気づけばご飯が運ばれてきていて、気づけば食べ終わっていて、気づけば寝る時間だ。普段何気ない行動と言うのは何も意識せずに暮らしていればここまで無機質なものなのだろうか。そんなことを思わされる。

 そして気づけば寝ていて、気づけば

 「起きてよー」

 彼女が目の前の椅子に座っていた。

 「どうしたの?」

 「今日は朝から私のやりたいことに付き合ってもらいます!」

 「…え?」

 寝ぼけた頭でまともな思考はできない。絶賛、頭の中は混乱状態だ。

 「七瀬君!私に勉強を教えてください!」

 突然、名前を呼ばれる。彼女には初めて名前を呼ばれた気がする。

 「あれ、名前教えたっけ」

 全く名前を教えた記憶なんてない。自己紹介すらしていない気がする。

 「部屋のドアの横に書いてるよ?」

 「あ…」

 見逃していた。確かにそこに名前が書いてある。

 「じゃあ代わりにそっちも名前教えて」

 知られた側だ。当然教えてもらえる権利はあるはずなのだ。

 「私は東野だよ」

 「なら東野さん…?」

 「さんはあってもなくてもいいけどね」

 クスクスと面白そうに笑う。先輩ということで少し距離を取ったのが面白かったのだろうか。

 「慣れるまでは付けようかな」

 「なら慣れたら外してね!あ、じゃなくて!勉強!」

 「なんで勉強なの?」

 少なくとも高2の東野に後輩が教えるのは少し違和感を感じる。

 「私小2から学校行ってないじゃん?しかも癌だから治る可能性すらもないから勉強一切してないんだよね」

 「つまり小2までの勉強だけしか出来ないってこと?」

 「って思うじゃん?!」

 自慢げに笑みを浮かべる。

 「え?」

 「小6までの勉強は暇だったから終わらせましたー!」

 「暇だったからで出来るものなんだ…」

 高2で小6までの勉強しか出来ないと聞くと、凄くないように聞こえてしまうが暇だったから自主的にすると言うのはすごいことだ。

 「だから中1からの数学を教えてもらいたくてさー」

 「なるほど…」

 中1なら教えてあげられるはすまだ。少なくとも高校の偏差値は普通くらいなので、よほどのことがない限り詰まることはないだろう。

 「これこれ!」

 東野が開たのは中学の教科書。

 「あーこれね」

 「これわかんないんだ」

 教科書には(2x=6の時のxの値を求めよ)と書かれている。

 「これ簡単だよ。両辺を2で割るだけ」

 「なんで割るの?」

 どうやらすることは分かっているらしい。しかし、なぜそうするのかを分からない模様。

 「2に何かをかければ6になります。これだったら答えはすぐ出るよね?」

 「3だよね」

 「でもそれって数が大きくなるにつれて計算しにくくなるよね」

 解説を続ける。もっとわかりやすい例えもあるが、あえて少しややこしく言ってみる。

 「たしかに…」

 「だから、両辺を最大公約数で割って分かりやすくしようって話なんだよ」

 「最大公約数ってなんだっけ?」

 「あー…アレだよ。複数の数値を共通して割れる最大の数値だよ」

 「10と15なら…5ってこと?」

 「そういうことだよ」

 あの説明で分かるとは到底思えなかったのだが、案外頭はいいらしい。

 もしかすると学校に行ってればものすごく頭のいい人になっていたかもしれない。

 「なるほど…じゃあ両辺を割るのは簡単な問題の場合しなくて大丈夫なの?」

 「基本的にはね」

 学校のようにテストをするなら時間短縮のため、そのようなことはしない方がいいのだが理解を優先してる今は関係ない。

 目的は東野が理解することなのだ。それ以外は意識したところで無駄なのだ。

 「なるほど!わかっちゃったよわたし!」

 キャッキャっとはしゃぎながら嬉しそうに騒ぐ。

 正直そこまで難しくもないのだが、喜んでいるので良しとしよう。

 「おめでとう」

 「うん!」

 「もう教えるところはない?」

 不意にも理解すると喜ぶ東野が可愛いと感じた七瀬は、教えてあげたいという欲が出てきていた。

 「うーん…ないや」

 えへへ、と照れ臭そうに笑う。少し残念だが理解出来ないところがないなら大丈夫だ。

 「なら大丈夫だね。じゃあ今日はもうバイバイかな」

 「え?なんでそうなるの?どうせ暇でしょ?」

 「え、暇だけど…」

 「なら駄弁ろうよ!」

 二パッと笑う。やけにハイテンションな様子だ。

 「そっちは大丈夫なの?」

 単純な疑問だ。暇なのだろうが、ずっとここに居るのも居心地は良くないだろう。

 「私は大丈夫だよ。暇だもん」

 「そうじゃなくて家族と出かけたりとかさ、そういうなのはないの?」

 「両親は私の入院費を払うためにずっと働いてるからそういうなのは無理なんだ」

 「そ、そうなんだ…ごめん…」

 確かにそうだ。小学二年生からずっと入院しているなら相当な費用がかかっているはず。

 お金は考えられないほどの金額にになっているはずだ。

 「いいよ。あ!そうだ!」

 「どうしたの?」

 「君ってさ、ウグイスは好き?」

 唐突に、訳のわからないことを聞かれる。

 ウグイスなんて意識して見ないし、鳥に興味もない七瀬にとっては今までどうでもいいことだったのだ。

 「ウグイス?」

 一瞬、唐突の質問に意味の理解出来なかった七瀬は聞き返す。

 「そう。ウグイス。春に鳴く鳥の」

 やけに真剣な顔だ。こんな顔の東野は初めて見る。

 「好きかって言われても…鳥は別に興味がなくて…」

 雰囲気に負けて素直に答える。

 「そっか。そうだよね」

 「何かあったの…?」

 「私ね、ウグイスが嫌いなの」

 「な、なんで?」

 二人の間には緊張が走る。

 いや、東野は緊張なんてしていないのかもしれない。しかし、やけに真剣だ。

 「鳥媒花って知ってる?」

 「なにそれ」

 「普通、花の花粉は虫や風が運ぶんだけど鳥媒花の花は鳥が花粉を運ぶこともあるの」

 「なんかその話テレビかどこかで聴いたことある気がする…」

 生物の不思議を解説しているテレビで、鳥が花粉を運んで来てくれる。という話を聞いたことがある。

 あまり興味があるわけでもないので、詳しくは覚えていないが。

 「そう。普通は鳥媒花は良いイメージとして捉えられるし、決して悪い意味じゃないんだけどね」

 「じゃあなんで嫌いなの?」

 東野は窓を眺める。2階のこの部屋からは目の前に梅の木が見える。

 「花粉を鳥が取ることによってその花の命を吸い取られてる気がしてさ」

 「な、なるほど…」

 完全に理解出来たわけじゃない。花粉を飛ばしたり運んでもらったりするのは命を作るためだ。それなのに吸い取られるというのは、あまりにも逆な話だ。

 「この梅の木は、今葉っぱも花もない。いつか私もそうなる気がして」

 「……」

 少し言いたいことが分かった気がした。治ることが難しい難病だからこその心情かもしれない。

 「命を繋げないことが半ば確定してる時点で花粉を取られても、命を吸い取られてるだけだよね」

 「そうだね…」

 初めて人のことを理解出来た気がした。これが理論に基づかない感情なのだろうか。

 「だから私は梅の花粉を運ぶウグイスが嫌いなの」

 「自由に飛び回れる上に命を吸い取るから?」

 「それもあるね。自由に動けない木の命を貰って、しかも自由に生きてるんだから」

 はっきりした感情ではない。だが、直感的に東野の癌を治したいと思った。

 「ある意味君はウグイスかもね」

 言葉を続ける。真剣な顔を辞めて困った顔で笑いかける。

 心が痛んだのが実感できた。嫌われてないのは分かるが、どこか心のこりのある言い方だ。

 「……」

 「そう落ち込まないでよ。別に悪いことじゃないし」

 悪いことではなくてもそんな話を聞かされた後だ。良い気分にはなれない。

 「そう言えば君は鬱って感じがしないよね」

 「え?」

 「鬱だって感じないんだよね」

 気づけば、病院に入る前より気分が軽い気がする。

 「なんでだろう…」






 アレから数週間が経った。この数週間、鬱だったのが嘘みたいに体調が元に戻った。

 そして、体調が戻ると当然医師からは退院してもいいと告げられる。

 精神的な病気だったため1ヶ月という余裕を持った状態での退院となったのだが、

 「いやぁ、君も退院が早いねー」

 ベッドに座り、足をパタパタとさせながら呟く。

 「どっかの誰かさんのせいで早くなったんじゃないかな」

 「あれ?!もしかして私君の心の支えになっちゃった?!照れるなー」

 頬を赤らめながら照れたような仕草を見せる。どうも嘘っぽいのだが、気にしないでおこう。

 「そうだよ。そのせいで退院が早くなった」

 「ま、まぁ退院してもここには来れるから大丈夫でしょ」

 調子狂うな、と言いながら言葉を溢す。

 「そうなんだけどね、楽しい時間が減っちゃうから」

 この数週間、色々なことをした。一緒にトランプをした。一緒にテレビゲームをした。一緒にご飯を食べたりなんてした。

 どれも楽しいことばかりだ。なんとも友達らしい、元々2人ともまともな友達と言うのを持ったことがないので友達らしいなんてわからないのだが。

 「それは悲しいけど…会えないわけじゃないしいいじゃん!」

 「そうだね…」

 テレビをつけっぱなしで話を続ける。話をしている横にテレビの音が入るのは少し違和感だがこれもまた落ち着くのだ。

 「そんな落ち込まないでよー」

 顔を覗き込むように上目遣いで話す。そんないつものように話している2人にある話が耳に入った。

 「続いてのニュースです。天才医師、ルイ・ルーカスが遂に日本に訪れました。日本で講演をしたあとアメリカに帰国するとのことです」

 「天才医師…ルイ・ルーカス…」

 聞いた途端、彼は希望の光に見えた。この人なら東野を治せるのではないか、そんなことを思ってしまう。

 「初めて聞く名前だね」

 「そだね」

 七瀬はテレビやスマホとは断絶していた生活を送っていたため名前を知る手段はない。

 「私、元々テレビやスマホ見ないから最近の情報に疎いんだよね…」

 そういえば東野がスマホを使っているのを見たことがない。スマホを読んでる時間があれば読書や勉強という人なのかもしれない。

 「お互いに最近の情報には疎いんだな…」

 「そだね…」

 2人で苦情を溢す。別に良いことでも嬉しいことでもないのだが、共通点が出来た事だろうか。何故か嬉しくなる。

 「………」

 1人茫然とテレビを眺める。会話はすでに消え去っていた。

 「彼は今日に東京に到着予定です。と話しています」

 そんなことは知らずにテレビは喋り続ける。

 今は3月だ。少し暖かくなって外へ出る機会も増えた。東野は生憎出れないのだが、七瀬だけが外へ出てコンビニへ行き東野の食べたいものを買って病院へ帰る。そんな生活をしていた。

 明日ににルイ・ルーカスが日本で講演をする。それは普段の生活では何も関係のない事だ。しかし今の状況が状況だ。

 「もしかしたら彼なら私を助けられるかも、なんて思ってない?」

 体が一瞬凍った気がした。図星だ。何一つ外れていない。

 「なんでわかったの…?」

 「そういう目してたからね。見たら分かるよそんなの」

 「そ、そうなの…?」

 果たしてそういうものなのだろうか。1人の時間が多かった七瀬にとってそれは難題なのだ。

 「君は元々鬱で目が死んでたからね。分かりやすいんだよね」

 原理はよく分からないが、実際に当てられているのでわかっているんだろう。

 「な、なるほど…でもあの人なら東野を助けられるかもしれないじゃん…」

 テレビには少し髭を生やした金髪のルイ・ルーカスと思われる人物がカメラに向かって手を振っている。

 なんとも優しそうな顔で、これまで数えきれないほどの人を救ってきたんだなと実感させられる。

 「そんなことないよ。私は癌なんだよ?治ることのない病気なんだから」

 ケラケラと笑って悲しそうな笑みを浮かべる。諦めた顔だ。

 「まだ希望はあるかもしれないじゃん…」

 「ないんだってば!」

 瞬間、彼女が声を荒げる。余程に嫌だったのかもしれない。

 「ご、ごめん…」

 申し訳なさでいっぱいになる。瞬間的に謝罪の言葉が出る。

 「こっちこそごめん…」

 少し落ち込んだ顔の東野からは納得がいかないと言うような謝罪が返ってくる。

 現実、もしくは何かから逃げているような仕草だ。

 「はい!この話はやめ!天才医師なんて知らないから!」

 「う、うん…」

 「それより今日は話す話題があるのです!」

 「わ、話題?」

 切り替えが早いのか、それとも早くこの話題を終わらせたかったのか。先ほどの怒鳴りなど忘れるほどに明るいトーンだ。

 「1ヶ月くらい前さウグイスの話をしたよね」

 「したね。君はウグイスが嫌いだって話」

 「…もうすぐ私、花粉を取られる時期かもね」

 「え…?」

 「やっぱりこの話はいいや!次の話!」

 東野はそそくさと話題を切り替える。

 「す、すぐ話変えるね」

 「さっきの話題飽きたから!いいの!」

 「そ、そう」

 困惑しか出てこない。そんなにコロコロ話題を変えられると何か秘密ごとでもしているようにさえ思えてしまう。

 「私最近ね、君が部屋に帰ったあと一人で音楽聴くのにハマってるの!」

 「音楽鑑賞好きだっけ」

 「いや全く好きじゃなかったんだけど、昔使ってた音楽プレイヤーを見つけてから」

 えへへ、と笑う東野。よく見ればテレビなどが置いてある台には音楽プレイヤーが充電されている。

 「なるほど、どんな音楽聴いてるの?」

 「多分君はあんまり興味ないと思うけどクラッシックかな」

 興味がないと言うのは図星だ。

 「君は音楽すらあんまり気がなさそうだよね」

 「そんなことないよ?」

 本当に鬱の時は聴く心の余裕なんてなったのだが昔や今は音楽鑑賞は一つの趣味と言えるほどだ。

 「音楽聴くんだ。意外だね」

 意外なのだろうか。分からないが心が完全に病んでいるときに出会ったのだからそう思うのも仕方ない気がする。

 「意外かな」

 「意外だよ。それになんだか好きなジャンルとか無さそう」

 「あー、確かに好きなジャンルとかは無いね」

 「やっぱり?」

 ニヤニヤと笑う東野の顔は勝ち誇った顔だ。好きなジャンルがある方が格好いいのだろうか。

 「好きだなって思った曲が好きなんだよ。ジャンルに縛られるのはあんまり好きじゃないし」

 「……」

 次は少しムスッとする。顔が忙しい。

 「なんでそう格好良く言いまとめられるかなぁ」

 「え?」

 「めっちゃまとめ方格好いいじゃん!」

 「そうなの…?」

 これが格好良いのだろうか。好きなものが好きなのだ。それだけの話だ。

 「そうだよ!」

 「ま、まぁそんなことはどうでもいいんだけど、クラッシックで例えば誰聴くの?シューベルトとかベートーヴェン辺りしか知らないけど…」

 「あー、なんともオーソドックスな人たちだね」

 「仕方ないよ。学校で習った人たちしか知らないんだし」

 「そりゃそうか」

 仕方ないね、と笑いながらプレイヤーを手に取る。

 「ちょっと待ってね」

 ポチポチとプレイヤーから曲を探している様子だ。

 「あ、これこれ!」

 そう言って東野が見せてきた画面には、

 「バッハ、主よ人の望みの喜びよ。だね!」

 「今読んでたのに?!」

 読んでいたのにあえて答えを言う。なんともタチが悪い気がする。

 「えへへ、一回聞いてみてよ」

 「いいけど…」

 返答をした頃にはもうすでにスピーカーに接続されていたあとだった。何がなんでも聴いてもらう気しかないようだ。

 「いきまーす」

 ポチッとボタンを押す。その瞬間、音楽が流れ出す。

 「綺麗だね…」

 一言で言えば落ち着く音楽だ。強いて言うなら風を感じる様な雰囲気だ。

 「草原に一人立ってる感じしない?」

 「あ、わかる」

 「だよね!ハマった?」

 「まだ全部聞いてないから分かんないかな。じゃあ次僕の話題ね」

 「次の話題?なんか話題あるの?」

 首を傾げて問いかける。毎日会っていて毎日喋っていると話題も尽きるものである。なので少々意外なのだろう。

 「昨日メールでね、僕をいじめてきた人から謝罪の文が来たんだよ」

 「謝罪?」

 「そう、ごめんなってきた。多分1ヶ月も学校に行かなかったからだね」

 「謝ってくれるって…案外良い人たちなんじゃん」

 「まぁ励まそうとしてくれてた人たちだしね」

 「良かったじゃん…あ、っていうかそもそもなんで励ますようなことになったの?」

 「どういうこと?」

 「励ますってことはその前に何か落ち込むことがあったってことでしょ?何があったのかなって」

 あまり触れられたくない所を触れられたが仕方ないだろう。今更隠しても仕方がない。

 「今思えば些細なことだよ」

 「そうなの?」

 「まぁ当時の僕からしたら人生最大ってほどの出来事だったんだけど」

 「何があったの?」

 「……」

 口にしようとしても押し黙ってしまう。些細なことなんて言っていても心のどこかでは気にしているのかもしれない。

 「…彼女に」

 口籠ってしまうが無理やりに口を動かす。どうにか楽な方へ逃げて物事を隠すのはやめたいのだ。

 「中学3年生の時から付き合ってた彼女に振られたんだよ…」

 「…君彼女いたの?!」

 「そこ?!」

 驚きの答えだ。てっきり慰めなどの言葉が返ってくると思っていたのだが。

 「彼女いたなんて意外だ…」

 ぽかーんと口を開ける。そんなに意外なのだろうか。

 「そんなに?」

 「だっている雰囲気なんてなかったし…」

 「まぁ隠してたからね…」

 「なら仕方ないか…」

 謎の納得をされる。そんなに彼女がいたことは驚くことなのだろうか。

 「原因は色々あるんだけど振られたのがあまりにもショックでさ、高校入ってからは誰とも喋らずに抜け殻みたいな生活を送ってて」

 「そんなにショックだったの?」

 「1年くらい付き合ってたんだよ。もうずっと一緒にいると思ってたし…」

 「必要不可欠な存在だったってことなのね…」

 「そうなんだよ。だから周りとの関わりも切ってたし」

 「ふーん…その彼女さん、君を振るなんて勿体ないことするね」

 「へ?」

 「いやーなんでもなーい」

 とぼけて音楽プレイヤーの電源を切る。丁度流していた音楽が終わったらしい。

 「…私も君と付き合ってみたかったな…」

 「僕はもう誰とも付き合わないよ?」

 「聞こえてるの?!」

 ボソボソと言っていたがハッキリと聞き取れた。東野の声は聞き取りやすいのだ。

 「聞こえてるけど…」

 「もー!バカ!」

 かけ布団を被って布団に潜る。赤面した東野を少し可愛いと思ってしまう。

 「じゃあ僕は行ってこようかな」

 よし、と椅子から立つ。いつもこの時間になるとコンビニ行って2人の食べたい気分のものを買ってくるのだ。

 「お!私は今日アイスが食べたい!」

 さっきまでの恥ずかしがりが嘘のようだ。どれだけアイスが食べたいのだろうか。

 「アイス?なんのアイスがいい?」

 「おまかせっ!」

 外の世界をほぼ知らない東野に取って名前の指名は難しい。故に半分くらいはお任せと言われる。

 「おっけー、じゃあ買ってくる」

 ガラガラガラと扉を開けて廊下へ出る。

 「いってらっしゃい」

 「はーい」

 手を振って扉を閉める。

 「ここの病院って病室の人の名前を苗字しか書かないのなんでなんでなんだろう…」

 ふとした疑問を持ってしまう。別にたいした理由があるわけでは無いのだろうが他の病院にはフルネームで書かれているような気がしたからだ。

 「まぁいいや、行こ…」

 疑問に誰かが答えてくれるわけでもなく、疑問は廊下に虚しく消えていく。

 東野の病室は1階なのでそのまま廊下を進む。

 外出の許可は取ってある。元々鬱で入院したので外出を推奨されているのだ。

 ガラスでできた自動扉を通って外へ出る。

 春になり少し周りが暖かく。周りには桜や梅なども植わっている。綺麗な花を咲かせて堂々としている。

 坂を下って小さな川を渡って東金街道を左に曲がればコンビニだ。

 「ぼーっと歩いてれば思ったよりすぐ着くんだな…」

 スマホを見れば20分も経っているが体感は10分ほどだった。

 音が鳴る扉を通って店内に入る。

 病院のコンビニへ行っても良かったのだが今日は歩きたい気分だったのだ。

 「いらっしゃいませー」

 同い年か少し年上くらいの男の人が入店を歓迎してくる。本人は歓迎しているつもりはないのだろうが。

 そそくさとアイス売り場へ歩く。買うのはいいが買えばすぐに帰らなければならない。

 「溶けてもいいように飲むアイスだな」

 アイスを買うのに歩くというのは間違った判断だと、今更になって気づいた。

 なので解けることを前提でアイスを買う。

 「ありがとうございました」

 適当に会計を済ませてコンビニを出る。

 早めにアイスを2人で食べたいので少し早歩きで来た道を戻る。

 東金街道を縦断し川を渡って桜が見える坂を登って病院へ入る。

 その刹那、叫び声に近いような大きな声が聞こえてくる。

 その目線の先には、

 「東野さん!東野さん!」

 4人くらいの看護師さんに囲まれながら担架に乗った人が運ばれてくる。

 「え…」

 背筋が凍った気がした。顔を見なくても分かる。東野だ。

 手に持っていた袋が滑り落ちる。

 「東野?!」

 看護師の4人ともが七瀬を無視して走り去る。

 「ちょ、ちょっと…!」

 看護師の1人の手を掴み、走っているのを止める。

 「どういうことなんだ?!」

 「見たらわかるでしょ?!さっき部屋で倒れてるのが見つかって運んでるの!」

 相当焦った様子で話終わると腕を振り払い、走り去る。

 「そ、そんな…」

 少なくとも先ほどまでは元気だった。30分ほど前だ。彼女は笑顔でアイスが欲しいと口にしたのだ。

 絶望感に襲われるがここで動かなければ何にもならない。とにかく今は東野の安全を確かめるのが先決だ。

 「行かなきゃ…」

 アイスのことなど忘れて看護師が走って行った方向へ走り出す。

 どうやら彼女は治療室に運ばれたらしい。

 「僕が…遠くのコンビニに行かなかったら…」

 病院内のコンビニで済ませれば助かっていたかもしれない。倒れてからすぐ看護師を呼べたかもしれない。

 東野が入って行った治療室を眺めながら、後悔に襲われる。

 しかしそうすれば事態を大事にせずに済んだかもしれない。

 「あぁ、もう…」

 放心状態になる。もう治療室に東野が入ってから何分経ったかも分からない。

 ただただ分かるのは判断を間違えたということだけだ。

 「七瀬さん…」

 部屋から出てきた看護師に話しかけられる。

 「東野さんの意識が戻ったわ。安心して、酸素マスクを付けてるけどね」

 「だ、大丈夫だったんですよね…?!またすぐ元気になりますよね…?!」

 「…それは彼女から聞いたほうがいいわ。私じゃなんとも言えない」

 なんとも引っかかる言い方だ。まるで、東野が意識がありながらも死にかけていると言わんばかりだ。

 「そうですか…」

 納得していると扉の奥から担架に寝転びながら乗っている東野が姿を現した。

 看護師が単価を押す後ろで歩を進める。

 「じゃあ、今度危ないって思ったらこのボタンを押してね。すぐに駆けつけるから」

 「はーい…」

 部屋のベッドに寝そべる東野の声はあまりにも細々しかった。弱々しかった。

 それは東野が衰弱しているのを、癌が進行していることを表しているようだった。

 「大丈夫なの…?」

 思ったことをそのまま口に出す。それが何よりも知りたかった。

 「大丈夫だよ…」

 笑っていても、辛いのが目に見えて分かる。

 時計を見れば既に6時をすぎている。アイスを買いに出かけてから既に3時間が過ぎているということだ。

 「アイス…一緒に食べれなくてごめんね」

 「僕が…病院のコンビニに行ってれば…遠くに行かなかったら…もっとなんとかなったかもしれないのに…」

 思ったことが口から溢れる。東野が言ったことに返事しようとしても口が違うことを言っている。

 「僕のせいで…僕のせいで…」

 頬に何かが伝ったのがわかった。

 「あれ…おかしいな…」

 気づけば、目尻からは涙が溢れていて。

 「さあさあ泣きやんで。私はまだ君に話さないといけないことがあるんだよ」

 この状況下で何を喋るというのだろうか。絶望のさなか、何を聞いても気分は上がりやしない。下がる一方なのだ。

 「何を…話すんだよ」

 相変わらず涙は止まることを知らない。それもそうだ。何せ判断を誤ったせいでこうなったのだから。

 「私はまだ君にウグイスを嫌っていた本当の理由を話してない…」

 弱々しく、しかしどこか力強く。東野は泣いている七瀬を無視して喋り出す。

 「花粉を吸い取られるからじゃ…?」

 「それじゃ私と花粉に互換性がないでしょ」

 少し呆れた笑いで笑う。それはまるで疲れ切った様子だった。

 「互換性…確かにそうだね。前までの説明だと鳥媒花にも花粉にもウグイスにも君との接点はない」

 なんとか泣くのを堪えて話に集中する。なぜかこれだけは聞いていなければならない気がするのだ。

 「そういうこと。君は私の下の名前知ってる?」

 「…知らない」

 「ちなみに私は君の下の名前知ってるけどね」

 「下の名前はなんなの?」

 冗談を言っている心の余裕は正直なかった。何よりも今は聞きたいのだ。

 「梅意だよ。梅に意思の意でめいって読むの」

 「梅の…意思…」

 「東野梅意だよ」

 「梅も確か鳥媒花の花…」

 頭を全力で回転させる。梅も確か鳥媒花の花だ。

そしてその梅の花粉を取るのが、ウグイスだ。

 この先もう生きることができない梅が残りわずかな力で作った花粉を吸い取るのだ。

 「そうだね。納得できたかな」

 「うん…全部繋がったよ…僕は逃げてきたんだ」

 「へ?何言って…」

 梅意が喋り終えるのを遮り話を続ける。

 「僕は逃げてきたんだ。君が死ぬという事実から、君がいつか居なくなると言う怖さから、また1人ぼっちになることから」

 「あはは、そうかもね」

 「でももうちゃんと向き合わないといけない…」

 「私も向き合わないといけないかもね」

 聞いたことのないトーンだ。疲れていて声が弱々しいなどではない。本気の声だ。

 「私も…?」

 理解できなかった七瀬は聞き返す。

 「私だって、生きたいよ…」

 そう零した彼女の頬には既に涙が伝っていて、肩は震えていた。

 「私だって生きたいんだよ…!生きていたい…!普通に暮らしたい…!今までずっと知らないフリしてきた…!でも死ってのが身近に迫ってきて…怖いんだよ…!」

 「……」

 冗談を言う彼女でも、小学2年生の彼女でもなかった。目の前で泣いているのは、17歳の梅意だ。それ以外の何者でもない。彼女なんて言葉じゃ例えられない立派な人間だ。

 「助けてよ…!もう10年間耐えてきた…!怖い…!怖いよ…!」

 「…よく、頑張ったって…思うよ…」

 「…ばか」

 下を向いた梅意の両肩にそっと手を置いて、引き寄せる。

 その判断が良いのかは分からない。しかしそうしてあげたかった。

 「梅意はよく頑張った。頑張ったよ。辛くても耐えて、耐えて。だからもう少し頑張ろ?」

 「何を頑張るのさ…!」

 「生きることをだよ」

 「ウグイスはそんなこと無視して殺しにくる…!」

 そのウグイスは七瀬ではなく癌のことだろう。

 「梅の意思はそんなに弱いの?梅はそんなにすぐ枯れちゃうものなの?」

 「……っ!」

 「もう少し頑張ろうよ。必ず…必ず救ってあげるからさ」

 「う、ん…うん…うん…!」

 それから1時間くらい梅意は泣きじゃくった。気づけば時刻は7時30分。外は真っ暗だ。

 そして体力的にも精神的にも限界がきたのだろう。梅意は静かに眠った。

 「梅意…!」

 そっと見守っている七瀬に聞いたことのない声が後ろから聞こえた。

 「あなたは…」

 後ろを見れば大人の女の人が立っていた。スーツ姿なので看護師ではないだろう。

 「私は梅意の母よ。あなたは七瀬くん?」

 「え、なんで僕を…」

 「梅意からメールで何回か聞いたことがあってね。詳しくは知らないけど名前だけ知ってるわ」

 「そうですか…」

 「梅意の容態は…今とても悪いわ。お医者さんによると持って4日らしい。もう喋ることも無理かもしれないわね」

 「そ、そんな…」

 助けるなんて言っておいてなんてザマなのだろう。これじゃ何をしても無駄だ。

 「でもあなたが梅意の力になってたのはメールからひしひしと伝わってるわ。私からもお礼をさせて頂戴。ありがとう…」

 「いえ…僕は彼女に救われたんです。彼女には周りを笑顔にできる力がある。死なせるわけにはいかないんです」

 「そうかもね…でももう無理よ」

 「まだ僕は諦めていません」

 そう言葉を放って立ち上がる。

 「何をするの…?」

 「少しの間留守にさせていただきます。梅意の側に居られなくて残念だけど…」

 「どこへ行くの…?」

 「東京です」

 「何をしに…」

 理解が追いついていない梅意の母が質問攻めをしてくる。仕方ないだろう。何せ、今七瀬には馬鹿馬鹿しい考えが頭をよぎっているのだから。

 「とりあえず、早めに行きますね。行動するなら早めが良いので。行ってきます…」

 「……」

 梅意の母からの返事はない。いや、もしかすると聞こえていないだけなのかもしれないが。

 夜8時、暗くなった病院を飛び出した。坂道を下り左に曲がる。行き先は本千葉駅だ。

 「東京に、いかなきゃ…」

 それだけを頭に全力で走り抜く。もうお金など気にしていられない。梅意だ。梅意が何よりも大切なのだ。

 千葉大医学部を横切り、千葉城も横切る。全力で走り続けて15分。本千葉駅にたどり着く。

 「池袋行きの電車は…ありますか…」

 息が切れて視界が歪む。しかしこんなところで倒れられない。梅意の辛さはこんな程度ではないのだ。

 「今そこの2番線に止まってますよ。もうすぐ出発しますけど」

 「ありがとうございます」

 急いでICカードを通してホームへ降りる。もう階段をゆっくり降っている暇なんてない。飛び降りる勢いで降る。

 「確か…明日なんだよな」

 電車に乗り込んだ七瀬は急いでスマホに電源を入れる。

 明日、公演があるなら到着するのは今日のはずだ。

 急いでSNSである人に連絡をする。

 「僕は七瀬空です。お話ししたいことがあります。お願いします。一刻を争うことで大切な人の命がかかっているんです。泊まっているホテルだけでも教えてくれませんか」

 正直届くとは考えにくい。しかし、もうこれしか手段がないのだ。

 すると、案外すんなり返信が返ってくる。

 そこからは一瞬だった。いや、一瞬に感じただけだ。疲れがどっと出たのか、立ちながら眠ってしまい気づけば池袋駅だ。

 スマホを見ると一見のメールが届いている。

 「メトロポリタン」

 とだけ綴られた語句が並んでいる。

 「メトロポリタン…?」

 インターネットを駆使してメトロポリタンと調べる。

 「ば、ばけもんみたいなホテルだ…」

 池袋駅に降りて改札を通る。ホテルに興味津々になりそうだが、今は梅意が何より一番だ。

 駅の外へ出た瞬間本来の目的を唐突に思い出したかのように走り出す。

 スマホにメトロポリタンへの行き方を表示させ、走る。

 「早く…早く…」

 コンビニを通過して信号を通過して、メトロポリタンの正面だ。

 どうやら、有名な医者が泊まっているので警備が厳重らしい。黒い服を着た人たちが入り口に2人立っている。警備員じゃない。完全に違う仕事の人たちだ。

 しかし今そんなことは関係ない。

 「と、通してください!」

 「おいお前!」

 速攻で呼び止められて取り押さえられる。両腕を後ろに回さる。瞬間的に肩や腕に激痛が走る。

 「い、痛い痛い…!」

 「だまれ!なんでここに入ろうとした!」

 「ルーカスさんに会うために決まってるだろ!」

 確か、名前はルイ・ルーカス。天才の医師だ。もしかすれば、梅意を治せるかもしれない。

 「バカか!会えるわけないだろ!」

 両腕を締め付ける力が強くなる。もう地面を這いつくばることしかできない。

 「そ、それでも…!会わなきゃいけないんだ…!」

 正直、このままルーカスさんに会えたとして連れて病院に行くことは不可能に近い。

 なにせルーカスさんには明日大事な公演があるのだ。

 「だまれ!そもそもなんでこのホテルにルーカスさんがいるって知ってるだよ!」

 「…俺が教えたんだ」

 目の前の扉から1人、金髪の男の人が姿を表す。高身長で金髪。確実にルーカスさんだ。

 「ル、ルーカスさん…!」

 「お前ら、そいつを離してやれ」

 「は、はい」

 渋々と言った形で腕が解放される。いまだに肩が痛いが解放されただけマシだろう。

 「命に関わる問題ってなんなんだ」

 しっかり読んでいてくれていたらしい。

 「千葉の病院に癌で4日後に死ぬって言われてる人がいるんだ!その人を助けたい!だから救える可能性がある貴方のいるホテルに来たんだ!」

 必死に訴える。もしかすれば怒っているような言い方になってしまっているかもしれない。でも、ルーカスさんに伝わるならいいよだ。

 「真っ直ぐな眼差しだな。いいだろう、千葉に行ってやる。でも明日の公演が終わってからだ」

 体の力が抜けるのを感じた。これは治るということでいいのだろうか。

 「あ、ありがとうございます…!」

 「だが俺にも直せない病はある。お前が付きっきりで俺の助手になって夜中中手術しても治るって確証はない」

 「…可能性が出来ただけでも嬉しいです。ありがとうございます」

 「じゃあちょっと来い」

 「な、なんで僕が部屋に…?」

 気づけばルーカスさんが泊まっていると思われる部屋に案内されていた。ここに泊まれと言うことなのだろうか。

 「泊まるあてなんてないだろ。ここにいろ」

 「で、でも彼女には時間が…」

 この時間にでも病院に帰って手術が出来るかも知れない。少しでも可能性があるならそうしたい。

 「焦るな。今から向かって手術しても間に合いっこない」

 その通りかもしれない。もう10時近くだ。間に合うとは考えにくい。

 「そ、そうですね…」

 「明日お前も講演を見にこい」

 「僕ですか?」

 「あぁ無料で見せてやる」

 「は、はぁ…」

 正直意図が読めないが、焦るよりはマシだろう。それなら少し見てもいい気がした。

 「じゃあもう今日は寝ろ。疲れただろ。そこのベッドで寝てろ」

 「わかりました…」

 少々言い方がキツイが親切なのだろう。どこか安心させられるのだ。






 「起きろ、講演が始まるぞ」

 「は、はい…?」

 時計を見ればまだ朝の6時だ。公園は確か9時から12時のはず。

 「早すぎませんか…?」

 「アホか、もういかないと間に合わないぞ」

 先にスーツに着替えて部屋を出ようとする。

 服の替えなど持ってこずに東京に来たため着替える服などない。

 「まぁ大丈夫か…」

 1日だけならなんとかなるだろう。

 そうこうしているうちに9時だ。講演が始まる。椅子には座らずに一番後ろの席で立って見る。

 「どうも、ここで講演させてもらいます。ルイ・ルーカスです」

 改めて喋っているとあまりにも日本語がペラペラだ。もう周りの日本人と発音が変わらない。

 「では始めましょう」

 そう残して話を続け出す。そんな話を左から右へ流しながら梅意のことを考え始める。

 大丈夫だろうか、体調は悪化していないだろうか。なによりそれが心配だ。

 「病気と戦うには、五つの精神が必要って知っていますか?」

 そうルーカスさんが続ける。正直全てにおいて左から右だが、話しているのだけは聞こえる。

 しかし、何を話していたのかなどは全く記憶にない。

 講演が終わってすぐ、ルーカスさんのもとへ駆け寄る。

 「こ、講演お疲れ様でした。今から行きますか?」

 「お前は講演聞いてなかったようだけどな、今から車を出す。ついてこい」

 「す、すみません…」

 「大事な人の命がかかってたら当たり前だ。気にすんな」

 「は、はい…」

 申し訳ない気持ちになるが、今はどうしても梅意のことで頭がいっぱいなのだ。

 「じゃあ行くぞ」

 男の人が既に座っている車に2人で乗り込む。ルーカスさんは前、七瀬で1人だ。

 「高速を使って行け」

 「はい」

 そこから1時間ほど、車で走り続けた。

 高速なので30分ほど早く本千葉駅に着く。もう病院はすくそこだ。

 「病院着いたぞ、早く来い」

 暖かなった道を走り抜け病院に入る。

 「あ、七瀬さん!」

 看護師さんがこちらへ向かって走ってくる。かなり慌てている様子だ。

 「こ、これ!東野さんから預かってて…」

 「これは…」

 可愛らしい封筒に包まれたものを渡される。何かは分からないが、中に紙が入っていて後ろには梅意より、と書かれている。

 「そんなことはどうでもいい、この病院の責任者を呼んでくれ」

 「え、なんで…?」

 看護師が不思議そうにこちらを見つめる。

 「これを見たら分かるだろ。一刻を争うんだ」

 そういってルーカスさんは名刺のようなものを看護師に見せる。

 「え、わ、分かりました!急ぎます!」

 そう言って奥に走り去る。数分もたたないうちに責任者らしき人が出てくる。

 「ど、どういった条件で…」

 困惑しながらも尋ねてくる。

 「東野梅意に集中治療をする。だから1つ集中治療室を開けて欲しい」

 「わ、わかりました…ですが治る見込みなんてないと思いますが…それに今は生憎人を貸すことができなくて…」

 「あぁ、俺とこいつで十分だ。十分助けられる」

 そう言ってルーカスさんは七瀬保の方を見る。

 「え?」

 「出来るよな?」

 「は、はい…?」

 疑問が頭の全てを牛耳る。一体何をさせようと言うのだろうか。

 手術を手伝えとでも言うのだろうか。

 「手術の助手をしろ。いいな?」

 「僕には出来ませんよ…」

 「いいからやれ、まぁそう言うことだ。だから部屋を開けてくれるだけでいい」

 「分かりました」

 そう言って集中治療室に案内される。案内されたと同時に後ろから担架に乗った梅意が見えてきた。

 「寝てる…?」

 「疲れて眠ってるんです」

 「そ、そうなんですか…」

 そのあとまた忙しそうに看護師さんはドアを閉めて別の場所へ走り出す。

 「よし、じゃあ始めるぞ。お前は俺がとって欲しいものを取ってくれればいい」

 手術服を着て、より一層真面目な雰囲気を纏う。これが最強の心医なのか、と感心させられる。

 「わ、分かりました」

 「始めるぞ」

 「はい!」

 手を消毒してマスクを付けて同じく手術服を纏う。

 「まずは腫瘍を取り除くぞ、メスを取ってくれ」

 「はい」

 ルーカスさんが麻酔を梅意に打ち込む。

 メス、と描かれた引き出しからメスを取り出す。

 「消毒したか?」

 「あ、」

 気づいたようにメスを消毒する。緊張感が足りてないのか、はたまた緊張しすぎて気が散っていたのか。

 「これは…あまりにも酷いな…」

 「え…治らないんですか…?!」

 絶望感に駆られ始める。こんな一言で絶対するのはダメだが、今はそれくらい切迫詰まった心境なのだ。

 「いや、治して見せるさ」

 そういって梅意の体にメスを入れ始める。見ていられないくらい心が締め付けられる。

 救うと約束したのに、いざとなると救えるか分からないのだ。最強の心医が治療してくれている。しかしいくらルーカスさんといえど限界はある。治せないものだってある。なおさら癌が身体中に転移しているのだ。一日中治療し続けても治る確証なんてない。

 「心強いですね…」

 「昔、医師になり始めた頃に1人救えなかった人がいるんだ。それもかなり初歩的なミスで。だから俺は…」

 少し手を緩めて話し出す。

 「だから俺は…心強いなんて言ってもらえる資格はない」

 「でも最強の心医じゃないですかあなたは。絶対頼りない医師なんかじゃないですから!」

 「そう…だな。続けよう」

 「はい!」

 そう言ってからは必要最低限の会話しかせずに数時間を過ごした。あらゆす器具を取ってくれと頼まれてルーカスさんに手渡しする。

 そろそろ疲れてきたな、と感じることに意識は先ほどもらった封筒に目が行った。

 「ちょっと…」

 「は?おい」

 壁にもたれかかりずり落ちる。そのままルーカスさんの話を聞かずに封筒を開け始める。

 「遺書」

 そう書かれていていたものを読んだ瞬間、体が凍りつくのを感じた。

 「君は最後の最後でいなくなっちゃったね。もうすぐ死ぬって言うのにさー。だから口頭で言いたかったことをこうして手紙に書くね」

 そう前置きが書かれていて、その先は読むことを身体が遅れている。

 しかし、止まることはできない。

 「私ね、実はものすごく怖かった。初めの小学生の頃は死ぬってことを身近に感じなくてさ、死ぬってなんだろう?って考えてた。でも中学生になって死を目前にしたときに、怖いって思っちゃった。死ぬってなんだろう?って別の意味で思ったよね。私はずっと病院に入院してるのに、あとからきた人はみんな退院していく。でも君だけは違った。退院してからも病院に来てくれる。正直ものすごく嬉しかった。何回も嬉しくて泣いた。でもそれと同時に私が死んだら君はどうなるんだろう、関わらないほうがいいのかなってもっと泣いた。そんなことを思いながらも日は経っていって…結局倒れちゃって余命が4日って言われて…でも言いだせないよね。言い出したら君は心配して何するか分からなかったし。でもその日の夜にお母さんに聞いたんだよね?言わないでって言うの忘れてたよ!あはは!でもあんまり後悔はしてないかな、私からは言えなかったけど伝わったし!…でも、私から言いたかったな…まぁそんなことを気にしても仕方ないよね」

淡々と文字が綴られている。テンションが高い梅意は、書きながら泣いていたんだなと分かるほどに紙に水の跡が付いていた。

 「そういえばね、ウグイスの話をしたのは君が初めてなんだ。私の名前は梅意だからどうしても興味が湧いたんだろうね。調べて後悔したけど。鳥媒花の梅はウグイスに花粉を取られる。普通は梅にとって良いことなんだけどね、花粉って言うのは色んな意味でその花の命を繋ぐ生命線みたいなものだから命がもうすぐ無くなる私からしたら命を吸い取られていくようなものだよね。回りくどいかもしれないけど思い出すたびに泣きそうになっちゃうんだよね。君をウグイスって言っちゃった時はごめんね。でもあの時、私に文句言うんじゃなくて君が落ち込むって…やっぱり君は優しいんだなって思ったよ。2人で外に行くなんてことは出来なかった…のは少し残念だよね。君が病人に来てからもうすぐ3ヶ月だけど、ものすごく楽しかったよ。私ね、もし癌が無かったら君に告白してたかな!君のことが好きだったんだよ!気づいたかな?!名前で呼ばなかったのも照れ臭かったからなんだよ。もう私が言いたかったのはこんなところかな。思い出も振り返れたし君にも告白も出来たし。もう思い返すことは何もないよ。こんな形でごめんだけど、さようなら。元気でね!」

 ハイテンションで書かれた手紙は涙で濡れた跡がある。

 「何が元気でね!だよ…元気じゃないのは丸わかりなんだよ…」

 悲しみがひしひしと伝わってくる。それ同時に頬に何かが伝っていくのが感じられた。

 「あ、あはは…」

 かすれた笑いが出る。もう耐えられる気がしない。

 「泣いちゃうよこんなの…」

 頭を埋め込んで、一度濡れたであろう遺書に涙がこぼれ落ちる。

 「おいお前」

 頭にハンカチを投げられる。

 「え…」

 「泣いてる暇があったら手伝え、もうすぐ終わるぞ」

 「…あ…梅意…」

 今遺書を書いた本人がここで眠っている。死ぬはずだった梅意がここに生きるために眠っている。生きれるかもしれないのだ。なら、出来る最善策は手術を手伝うことだ。

 「最後まで…やります…手伝います…」

 「なら、そこにあるタオルを取ってくれ」

 「はい」

 零れ落ちる涙を貰ったハンカチで拭いながら指示されたことをこなしつづける。

 そんなことをしながらはや20分。ようやく手術が終わった。

 「今は眠ってるが容体が安定したら根を覚ますはずだ」

 酸素マスクを付けた彼女は先ほどとは違い安心しきったように眠っている。もう大丈夫な様子だ。






 そのまま夕方、夜に突入する。ずっと気を張っていた緊張が解けたのか、猛烈に眠気が襲う。

 眠っている梅意の横の椅子で、梅意の手を握りながらうとうとと繰り返す。

 「そ、ら…?」

 「…っ?!」

 襲っていた眠気はその瞬間で消え去る。確かに声が聞こえた。掠れていて消えかけていて、しかし梅意の声だ。

 「梅意?!梅意?!」

 「なんだかものすごく…体が軽いよ…」

 あはは、と軽い笑いをした。その笑顔は悲しいものでも、辛そうなものでもなく心の底からの笑顔だった。

 「君が眠ってる間にルイ・ルーカスさんと一緒に君の癌を取り除いた。だからもう死なないよ」

 「……っ?!」

 驚いた彼女の顔からはいつしか涙が溢れていて。

 「約束通り、救ってみせたよ」

 「反則だよ。そんな笑顔…」

 「笑顔?」

 「初めて見た…そんな笑うと君の笑顔…」

 そうだろうか、今までも普通に笑っていたのだが。

 「あり…がとう…助けて…くれて…」

 嗚咽が混じった梅意からは途切れ途切れになった感謝が伝えられた。

 「泣かないで?!」

 「泣いちゃうよそんなの…死ぬって思ってた病気が治って…しかも治してくれたのが君だなんて…」

 「ルーカスさんがほぼ全部してくれてたんだけどね…」

 「でも君が…空がルーカスさんを呼ばなかったら今頃私は虫の息だからね…。」

 「それはそうかもだけど…」

 酸素マクスを付けながら、動きにくそうに梅意は窓の梅の木を眺める。

 夜なのに、物凄く綺麗に見える梅の木はずっと2人を守り続けてくれていた。

 「私…分かったよ。やっぱり君はウグイスだった」

 「え?」

 「でも、あなたは生きる力って言う花粉を持ってきてくれた」

 「…な?やっぱりウグイスって良いだろ?」

 にぱっと笑って見せる。

 「うん…!大好き…!」

 「俺も…大好き…!」






 ウグイスが鳴く時、彼女は。

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ウグイスが鳴く時 七瀬空 @IdeoDESU

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