きみの物語になりたい

尾八原ジュージ

きみの物語になりたい

 養育費払ってるのと聞いたら、ちゃんと払ってるよと松さんは笑った。収入増えた分もちゃんと計算して、算定どおりの金額を毎月払ってるよ。滞ったことは一度もない、と豪語したのはしかし当然のことだと思う。

 松さんは小説家だ。書店に行ったら彼の本が必ず並んでるレベルの小説家。賞も取ったし映画にもなったそうだ。もっとも私は松さんの本を読んだことはないし、映画も見ていない。ただ人並み以上の収入があることと、小説家になる前に別れた奥さんとの間に娘さんが一人いることは知っている。眠りに落ちる前のひととき、彼は私に娘さんとの話をするのがなぜか好きだった。

 離婚したとき娘さんはまだ一歳になるかならないかだったから、松さんのことを覚えておらず、お父さんだと思ってもいないそうだ。では何者かというと「魔法使いのおじさん」だという。三ヵ月に一度、松さんは娘さんに「魔法使いのおじさん」として面会し、「願い事をかなえてあげる」のだ。もちろんお金の力で。遊園地に行ったり、水族館に行ったりして遊び倒すのだという。

「最近はミュージカルを観に行ったよ」と松さんは嬉しそうに話した。「帰り道でたまたま主人公が着てたのと似ているワンピースを見つけて、子供には高かったけど買ってやったんだ」娘さんはとても喜んでいたそうで、よかったね、と私は相槌をうつ。

 松さんはそういう関わり方のままでいいの、と私が尋ねると、「それがいいんだ」と彼は答える。娘さんのことはかわいいけれど、自分の性格では子供に合わせて生活なんてできない。だからこのくらいの関わり方がいい、という。

「人生が物語だとしたら」と松さんは言う。「俺は娘の人生のちょうどいい脇役になりたいんだよ。そんなに登場回数は多くなくていいけど、印象に残るようなタイプの」

 ずいぶん都合のいい話だな、とは思ったけれど、私がどうこうするような話ではないので黙って聞いていた。彼の元・奥さんもその関係を是としているらしく、娘さんの前では彼のことを「魔法使いのおじさん」として扱うのだそうだ。世の中にはそういう関係の人たちもいるんだな、と思いつつ、私はふと疑問を覚える。

 どんどん大きくなって、世間のことを知っていくだろう娘さんは、「魔法使いのおじさん」という存在を、いつまでそのままにしておけるのだろうか。いつかそれが、自分の実の父親だと知るのではないだろうか。

 案の定、私と交際を始めて四度目の秋にその日はやってきた。面会を終えた松さんは真っ青な顔をしていた。ホテルのスイートルームでお酒を飲みながら、「おしまいになっちゃった」と彼は泣いた。

 娘さんがとうとう、松さんの正体を知ったのだという。面会にやってきた娘さんはいつもより固い表情をしていて、松さんはいきなり近くのファミレスに連れていかれた。席につくなり彼女は「おじさんが私のお父さんなんだって、お母さんに聞きました」と告げた。

「どういうつもりで私たちを見ていたんだって言われたよ。私の親は、悲しいときも荒れたときも、喧嘩しても傍にいてくれたお母さんだけだって。都合のいいときだけ楽しい夢を私に見させて、あなたは何のつもりだったんですかって。いつか君に話したはずの言葉を、俺は娘に言えなかった。何も答えられなかったんだよ。もう会いたくないって言われた。感謝もしてるけどたまらない嫌悪感があるんだって。もうどんな顔をして会ったらいいのかわからないって」

 最後の面会はほんの二十分ほどで終わったそうだ。松さんは娘さんの物語から締め出されてしまった。その日酔っぱらった彼は私に「あいちゃん、結婚しよう」と言ったけれど、私は断った。松さんは、私の人生を娘さんの物語の代わりにするつもりなのだとわかっていた。「あいちゃんは子供産めないから、俺たちはきっとうまくやれる」と言われた私は、泥酔の上だとしても最低だね、と返してクッションを投げつけた。その場で松さんに別れを告げ、私はひとりでホテルを出た。

 聞いた話では、それから松さんは新しい小説を書いていないらしい。彼はもう自分の手で物語を紡げなくなってしまったのだろうか。


 実を言えば、私も松さんのことをあれこれ言えるような人間ではない。

 十五歳のとき、当時の彼氏との間にできてしまった赤ちゃんを養子に出した経験がある。その子がその後どうなったのか、私にはもう知るすべがない。

 その後怪我のために妊娠する機能を失ってしまった私の体は、もう自分の血を分けた子供を産むことができない。

 もしも私の子に出会えるとしたら、私もほんのちょっとでいい、その子の物語に関わってみたい、と思うことがある。松さんの無責任な関わり方が羨ましくなってしまう。

 あの子が生きているなら、この三月に中学校を卒業することになる。もちろん会うことはないけれど、ふと気まぐれを起こした私は本屋に入って一万円分の図書カードを買い、お祝い用だと言って綺麗に包装してもらった。バッグの中に薄い包みをしまって、こんなものどうしよう、と思いながら店の中を歩き回った。

 たくさんの本が並んでいる。きっと探せば松さんの書いた本もあるだろう。こんなにもたくさんの物語がこの世にあるのだ。

 トートバッグの中で図書カードの包みが見え隠れする。きみの物語はどんな物語だろう、と思いを馳せながら、ふと泣きそうになった私はマスクの下で唇を強く噛んだ。この気持ちをなんと記したらいいのかわからなかった。

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