起の章 【初めまして、女王さま】

恋愛の0 プロローグ

 × × ×



「お弁当、温めますか?」



 その言葉に、笑って首を横に振る。



「じゃあ、お箸だけ入れときますね」



 そう言って、高校生くらいだろうか。アルバイトの男の子は、袋の中に弁当をしまった。受け取って外へ出ると、僕は家へ向けて歩き出した。



 異世界からの帰還を果たしてから一年。僕は、前の仕事を辞めて、とある田舎町でフリーの雑誌ライターとして細々と生きている。喋れないのだから、営業職は当然ながら廃業だ。



 どうやら、この世界とあの世界では時間の流れるスピードが違ったようだ。三年近く滞在していた筈なのに、ここで過ぎていたのはたったの数日程度。考えてみれば、サロメが僕よりも年上だったのだから、それも当然の話だろう。



 家について、ノートパソコンを起動する。何件かのメールをチェックして、弁当を電子レンジの中へ放り込んだ。毎日がこの繰り返し。あの多忙で息を吐く暇も無かった日々が、今では懐かしい。

 しかし、人は人生の全てを全力で走る事など出来ないのだ。僕は、あまりにも全力を出して走りすぎたせいで、もう燃え尽きてしまった。今では、何もする気が起きず、ただ生きているだけの状況。こんな世捨て人のような姿をサロメが見たら、軽蔑するだろうか。



 何本かの記事を書いてから、ベッドに横たわって電気を消した。目を閉じて、何も考えずに意識を遠ざける。

 そう言えば、レンジの中に弁当が入りっぱなしだった。まぁ、明日食べればいいか。



 ……。



 それは、懐かしい場所だった。白い靄がかかった、上も下も分からない何もない場所。神様と出会った、始まりと終わりの場所。



「久しぶりですね、トモエ」



 突然の言葉に振り向くと、そこにはやはり神様がいた。あの時と、何も変わっていない。



「喋れますよ、今だけは」



 聞いて、一度だけ咳払いをすると、確かに声が出る。しかし、特別感動すると言うほどの事でもなかった。



「単刀直入に言います。トモエが救ったあの世界が、再び危険な状況に陥っています」

「危険って、あなたはサロメが幸せに暮らせると言ったじゃないですか」



 何故だろう。サロメの事を口にしても、不思議なくらいに心が静かだ。



「ええ、幸せですよ。何せ、今度あの世界を滅ぼすのは、彼女に惚れたとある国の王子なのですから」

「……それは、大変ですね」



 話を聞くに、今度は僕が伝えた交渉術のせいで、サロメがあまりにもモテ過ぎてしまっているようだ。元々、カリスマ性はピカイチで優しい性格をしていたのだから、そうなってしまうのは仕方ないのかもしれない。

 しかし、あの人は本当に程度というものを知らないらしい。どうやら、彼女に惚れた王子や貴族たちが、魅力に取り憑かれて、なんとか自分のモノにしようと躍起にってアプローチは苛烈さを増していき、遂には世界を巻き込んで戦争を仕掛けてしまうという事だった。



「プリモネの台頭により、賢者と世界の境界線は曖昧になってしまいました。そして、一番の問題は、サロメに恋をする王子を愛している賢者が現れてしまった、ということです」

「ややこしいですね。それも、僕のせいという訳ですか」

「因果を辿っていけば、そうなります。だから……」



 どういう訳か、神様は一瞬、何かを考えた。



「再び、あの世界へ行ってもらえませんか?」



 メラ、と。刹那的に心が燃えたのを感じた。



「こうして何度も、同じ人間を使いまわしているのですか?」

「当然でしょう。いくら宇宙が広いとはいえ、世界を救える者などそうは居ません。死んでしまう者も、少なくないのですから」

「記憶を消すのは、そういう理由もあったんですね。しかし、どうして命令でなく、お願いを?」

「今回は、何もかもがイレギュラーなんです。あなたには記憶があって、喋る事が出来なくて、それに救ったはずのあなたが崩壊の危機を招いていて、おまけに救うための方法が、恋愛に限られています。だから、こんな事を言うのは宇宙史でも初めてです」

「……結婚しろ、と言うことですか?」



 脱力しきっていた手に、力が込められた。



「そうです。それも、最も平和的で、且つ誰も傷付かない方法を選んで、です。そして、結ばれれば死ぬまで二度と元の世界には帰れません。ですから、あなたには選択の権利があると、神界は判断したのです。……どうでしょうか」



 そうか。サロメは、記憶を失っても僕との約束を守ってくれていたんだ。本当に、呪いそのものじゃないか。



「僕は、喋れるようになるんですか?」

「なりません。あなたがあの世界に滞在し続ける時間を考えれば、現地の者が異世界の存在を知ることは、あまりにも影響が大きいです」

「まったく、本当に酷い話だ」



 関係はまた初めからで、今度はいくつものアプローチを受けるほどにモテている自分の妻を、魔法も使わず、口も利かずに口説いて来い、というのか。本当に、イカれているとしか思えない話だ。



 ……でも、どうしてだろうか。僕は、それをちっとも無理だとは思わなかった。それどころか、この恋の試練に心が燃えて、無気力だった魂に力が湧いてくる。



 だから。



「自分の妻と幸せに暮らせ、と言われて。断る夫が一体どこにいますか?」

「……分かりました。ありがとうございます」



 瞬間、再び意識が遠くなる。心地の悪い、落ちていくような感覚に身を任せて目を瞑ると、次の瞬間には。



 ……。



 あの日と同じように、僕は城門の前へと転移していた。

 意識は、ハッキリとしていて、しかし、あれだけ居続けたいと思ったこの世界に来ても、僕は帰ってきたのだと思えなかった。何故なら、門の前には、ゼノビアさんはおらず、代わりに、男の番兵がそこを守っていたからだ。



「どうした?ひょっとして、あんた商人か?」



 彼は、僕が最初からここにいたかのように話をした。しかし、返そうにもやはり声は出せなくて、だから首を縦に降ることで答えとした。



「口が利けないのか。それでは、学んでも活かせないとは思うが……。名前は?」



 言われ、僕は彼の手のひらを借りて、そこへ文字を書いた。



「待っていろ。今、取り次いでやるからな」



 しかし、商人ならそんなに簡単に国王と出会えるとは。僕の知らぬ間に、この世界では一体何が起こったのだろう。

 そんなことを考えて、彼女を待つこと二十分。ぼぅっと空を見上げていると、突然声が聞こえてきた。



「お待ち下さい、女王様!」



 聞いて、僕は城の中を向く。すると、そこにはメーテルさん、だったか。彼女に追われながら、不安気な表情を浮かべて、一通の手紙を握りしめた、少し大人になったサロメの姿があった。

 相変わらず、綺麗だ。



「……そ、其方が、ママギトモエか?」



 ここに着くなり、彼女は息を切らしながら僕にそう尋ねた。一体、神様の言っていた交渉術の話とは何だったのだろう。僕とは初対面のはずなのに、あの頃と何も変わっていないじゃないか。



 口の形を変え、声が出ない事を伝え、そしてあの日のように僕は笑いかけた。僕、まだ笑えたんだ。



「聞きたいことがある。この手紙の、必ず助けに行くとはどういう意味だ?」



 ……見上げる顔を見ていると、幸せな気持ちになってくる。ずっと忘れていた温かい何かが、胸の中に込み上げてくる。



「この、モアナのひまわりを見つけたとは、どういう意味だ?いつの間にかあったクロックコレクションのカップの事を、どうして知っているのだ?アグロヴァルやスミレとは、どういう関係なのだ?そして、何故私をクレオラインと呼ばないのだ?」



 そうか、たった今、僕はに恋をしたんだ。

 助けられたのは、やっぱり僕だった。この世界で唯一の道標に、再びなってくれたあなたを、僕はまた好きになってしまったんだ。



 そう思うと、もう何も我慢することが出来なくなってしまった。だから、僕は彼女の体を強く抱きしめたのだ。



「な……っ」



 女王様は大きく息を吸い込んだが、この手を振り払わなかった。その代わりに、まるで温度を確かめるように、再会を噛みしめるように、僕の腕を掴んで、しかし得体の知れない僕の輪郭を、確かめるための言葉を口にした。



「其方は、一体何者なんだ?」



 問に、笑顔の一つで答える。



 ……僕は、真々木巴。異世界からやってきた、あなたに恋をする者です。

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無能恋愛 夏目くちびる @kuchiviru

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