夢の中で見る夢

坂本裕太

夢の中で見る夢



 毎晩、同じ夢を見る。

 私にはとても大切な、かけがえのない恋人がいて、毎日を遊園地の中で過ごすみたいに楽しんでいる。でも、その恋人との別れがいつも突然訪れて、目を覚ます。しかも、別れ方がよくある喧嘩別れとか、そんなのじゃなくて、恋人が死んでしまうのだ。

 だから私は、次に同じ夢を見る時、そうならないように別の行動を取ろうとする。


  ↓


 道路を擦る車のタイヤ、短気そうなクラクションの連打。

 私は梨奈とデートをするために、電車に乗って三十分の繁華街に遊びに来ていた。スーツを着た会社員や派手な服装をした女の人、明らかに学校をサボっている女子高生など、実に様々な人がいる往来の中を、私達は手を繋いで歩く。

 私は久々に梨奈と会えて気分が良かった。

 最近は彼女の仕事が忙しいみたいで、こうして一緒にいられる時間が減ってきている。たまに休日が取れても、今度は私の予定が合わない事もあって、それが今日になってようやく噛み合ってくれたのだ。

 彼女は会社員で、私は飲食店のアルバイトだから、それも仕方のない事だった。

 早く二人で一緒に暮らしたい。

 将来的には、私と梨奈は一戸建ての住まいを手に入れて、夫婦ならぬ婦婦として生活するつもりであった。そのために、二人で一つの共同通帳を作って、そこに少しずつではあるが貯金をしているし、どの場所にどんな家が欲しいのかもしっかり考えている。

 法律上は同性の結婚はできないけど、いつか二人だけの結婚式を挙げたいも思っている。

「あっ、ねえ花織、あそこ寄っても良い?」

 そう梨奈が指差したのは、道路を挟んだ向かい側の道にあるスイーツショップだった。行き交う車と道の上の人混み越しでもはっきりと分かるほど、その店の前には行列ができていた。

「めっちゃ並んでるじゃん」

「そう、先週できたばっかりのお店で、ずっと気になっていたんだよね」

「えー、でも反対側の道だし、並びたくない」

「もう、なんでそんな事言うの? 普段は花織の我儘を聞いてあげているんだから、たまには私のお願いを聞いてくれたっていいでしょ? 一応、私の方が年上のお姉さんなんだからね」

「年上って、一つしか違わない。てか、私、我儘とか言った事ないし」

 私は反対側の道へ渡る横断歩道を見つけると、そこで立ち止まって、赤信号が青に変わるのを待つ。信号を待っている間、梨奈は私の腕に抱きついてきた。

「花織はなんだかんだ私のお願いを聞いてくれるんだよね。そういうところ、ほんと好き」

「うっさい。ああ、もう、腕を持ち上げないでよ! 梨奈の方が身長高いんだから、腕を引っ張られると爪先立ちになるんだって、いつも言ってるじゃん!」

「知ってるよ、だからわざとしてるんだもん」

 赤信号が青に変わる。

 私達は一斉に動き出した人混みに紛れて、横断歩道を渡っていく。

「危ない! 避けろ!」

 そう誰かの叫ぶ声と悲鳴が聞こえた瞬間、私は梨奈の腕に突き飛ばされる。横断歩道の上に倒れ込む僅かな時間の中、たくさんの音が聞こえた。悲鳴、クラクション、鈍い衝突音、ガラスの割れる音、何かが引きずられて金属の削れる音。

 次に私が顔を上げて、後ろを振り返った時、そこには大勢の人が倒れていた。

 微かに手足を動かす人もいれば、まったく微動だにしない人もいて、中にはとても人間の取る姿勢とは思えない姿形になっている人もおり、横断歩道の白線のところどころには黒ずんだ赤い斑点が散らばっている。近くには横転した大型トラックが他の車を巻き込んでおり、青信号となった横断歩道にそのトラックが突っ込んできたであろう事はすぐに把握できた。

 私は自分の傍に梨奈がいない事を知って、急いで彼女の姿を探し始める。

 嫌な予感があった。だって、これは今に始まった事じゃない。こういう事故に遭遇する時はいつも梨奈が犠牲になって、それで……。

 私は地面に倒れ込んだ梨奈を見つける。

 彼女は歩道から数メートル離れた道路の上に横たわっていた。私の勘違いだと思いたかったが、彼女の着ていた服、履いていた靴、何よりその顔は見間違えようもなかった。

 彼女の両目は開いていたものの、私と目が合っても何の反応もしない。

 私は恐る恐る手を伸ばして、彼女の首元に触れる。脈はなかった。

「まただ。どうして、どうして、梨奈が死ななくちゃいけないの?」

 どうして、見たくもない梨奈の死に顔を何度も見なくちゃいけないの?

「嫌だ、嫌だよ。私、まだ梨奈と離れたくない、別れたくないよ」

 これが夢なら早く覚めて。

 いや、きっと夢なんだから、私は早く起きなきゃ。

 起きる事ができなかったら、これが夢じゃなくて、現実になっちゃう。


  ←


 けたたましいアラーム音を聞いて、びっくりした私は飛び起きた。

 目覚まし時計のアラームを止めると、時刻は午前八時だった。

 ベッドの上で額の汗を拭いながら、私は携帯の電源を入れて今日の日付を確認する。

 日付は◯月◯日何曜日。スケジュール帳のアプリを開くと、今日の予定には『絶対に忘れない事! 三ヶ月振りに梨奈とデート!』と付箋が貼っていた。デート場所は私と梨奈が学生時代の時からよく遊んでいた、電車で三十分のところにある繁華街だ。

 私は、さっきの出来事が夢であった事に心の底から安心した。梨奈はまだ生きているんだと思うと、自分でも抑え切れない涙と声が込み上げてきて、気持ちが落ち着くまでの間ベッドの中から出られなかった。

 待ち合わせの時間になり、繁華街で梨奈と合流すると、私達は街中を歩き始める。

「あっ、ねえ花織、あそこ寄っても良い?」

 そう梨奈が指差したのは、道路を挟んだ向かい側の道にあるスイーツショップだった。行き交う車と道の上の人混み越しでもはっきりと分かるほど、その店の前には行列ができていた。

「めっちゃ並んでるじゃん」

「そう、先週できたばっかりのお店で、ずっと気になっていたんだよね」

「えー、でも反対側の道だし、並びたくない」

「もう、なんでそんな事言うの? 普段は花織の我儘を聞いてあげているんだから、たまには私のお願いを聞いてくれたっていいでしょ? 一応、私の方が年上のお姉さんなんだからね」

「年上って、一つしか違わない。てか、私、我儘とか言った事ないし」

 私は反対側の道へ渡る横断歩道を見つけたが、そこで止まる事なく通り過ぎていく。

「ちょっと、ねえ、今の信号を渡っておかないの?」

「渡らない。あっちに用事ないし」

「意地悪。花織ってほんと、私のお願いを聞いてくれないよね」

 私だって、本当は梨奈の言う事を何でも聞いてあげたい。

 梨奈は私のために細かな気遣いをしてくれるし、ちょっとした会話の話題をちゃんと覚えててくれるし、サプライズの仕方とかもすごく上手で、私の事を大切にしてくれているのが感じられる。だから、私だって、梨奈のしたい事や欲しい物を理解しようとしているし、それをお返ししたいとも思っている。

 でも、今回はわざとそれをせず、梨奈に意地悪をしなければならなかったのだ。

 こんな事に悩まされるようになったのはいつからなのか、その時期は定かではない。気付いた時には、私はやけに生々しく現実感のある予知夢のようなものを見るようになっていて、それと似たような事が現実で起ころうとすると、梨奈の命を守るために別の行動を取るようになっていたのだ。

 そもそも、それが予知夢なのかも実は分かっていない。

 実際、その夢で起こっていた事件や事故が必ずしも現実世界で発生するというわけではないのだ。今回に関して言えば、夢の中では今私の通り過ぎた信号が赤から青に変わった瞬間、そこへ大型トラックが突っ込んでくるはずだったが、背後からはあの惨劇を伝える悲鳴や大きな音は聞こえてこない。夢で見た結末を避けるために、私が別の行動を取ったからと言って、そこで発生するはずだった出来事が消えてしまうものなのだろうか。

 仮に予知夢でないとするのならば、私が夢だと思っているものは現実世界で確かに起こった出来事であって、それを認めたくない私の心が運命に逆らって、時間を巻き戻しているだけなのだろうか。その可能性を考えた事は今までに何度かあるが、最終的には「そんな事は有り得ない」との結論に至るのだった。

 いいや、正直それが夢だろうと現実だろうとどうでも良かった。

 私にとって重要なのは、梨奈とずっと一緒にいられる事、ただそれだけだ。私から梨奈を奪おうとする出来事を回避できるのであれば、それに越した事はない。

 私は梨奈の腕をしっかりと抱き留めて、今日一日何も起こらないよう願った。


  ――――――――


 私と梨奈はバス停の前に立ち、帰りのバスが来るのを待っていた。

 この一週間、私はとても幸せな時間を過ごした。

 面倒臭い人間関係や忙しない仕事の日々から離れて、温泉に旅館を満喫し、また運良くも雪景色を拝む事もできて、実に充実した旅行であった。何より、普段は長くても一日ぐらいしか一緒にいられない梨奈と、一週間もずっと一緒にいられて、幸福感を覚えるあまり家に帰りたくないと思うほどだった。

 次はまたいつ梨奈と旅行ができるかな。お互いにこんな長期休暇が取れるなんて滅多にないだろうし、当分はこの旅行の思い出を何度も振り返りながら、梨奈と会えない寂しい気持ちを紛らわせるしかない。

 私は梨奈の顔をちらりと見上げてから、そのポケットにしまい込んでいる彼女の手を見る。

 手を繋ぎたいな。でも、ポケットに入れている手をわざわざ引っ張り出したら、梨奈もびっくりするよね。それに旅行の間、四六時中梨奈にべったりとくっついていたし、あんまり度が過ぎると鬱陶しいって思われるかも。

「ん? どうしたの、花織?」

 梨奈はそう言いながらポケットから手を出して、私の手を握り締める。

「何か言いたそうな顔だね。もしかして、まだ帰りたくないとか?」

 梨奈のこういうところがずるい。

 私が手を繋ぎたいなと思っていたら、梨奈から自然に手を繋いでくれるところ。私がまだ帰りたくないなって思っていたら、梨奈からそれを言葉にして言ってくれるところ。何もかもがずるかった。

 私が頷くと、梨奈は笑ってくれる。

「私もおんなじ。はあ、帰りたくないなあ。でも、明日から仕事もあるし、帰りたくなくても帰らなきゃね。また今度、ここに来ようね?」

 私は梨奈と一緒にいられるのならどこでも良かった。

 ようやくバスが来て、私達は乗り込む。

 座席に腰を落ち着けて、ゆったりとしたバスの速度に揺られていると、長かった旅行での疲れが体中にどっと押し寄せてきて、心地良い眠気が込み上がってきた。私が梨奈の肩に寄り掛かって、梨奈も私の頭に寄り掛かってくる。

 あと少しで深い眠りに落ちそうになっていたその時、私は唐突に浮遊感を覚えて、次の瞬間にはそこから叩き落されるような強い衝撃に襲われた。

 目を開けるとそこは、私の知らない場所であった。

 正確には日常生活の中で見る事のない、バスの中の変わり果てた有様であった。座席が天井から生えており、私のうつ伏せになっている床には無数のガラス片が散乱していて、その他には誰の持ち物かも分からない物が色々と落ちていた。そして、恐らくは元々人間だったであろう胴体や頭も。

 バスがひっくり返ったのか、高架から転落したのか、何にせよ重大な事故に遭遇した事は間違いなかった。それはつまり、もう一つのある事実を私に突き付けている事に他ならない。

 体の自由が利かなかった私は頭だけを動かして、傍に座っていたはずの梨奈を探す。

 いくらか視線を彷徨わせた後、天井を見上げると、そこに見覚えのある腕を見つけた。その手首にはいつも梨奈の身に着けていた腕時計が巻かれている。座席と座席がひしゃげて、その隙間から一本の腕だけが力無く垂れ下がっていて、そこに一筋の血がゆっくりと滴っていた。

「梨奈、梨奈!」

 私は片手を伸ばして、天井から垂れ下がった梨奈の手を握り締めた。

 その手は私の手を握り返さない。

「止めてよ。折角、楽しい旅行だったのに、こんなのってあんまりだよ!」

 どうせ、これは夢だ。

 こんな事が現実であってたまるものか。

 梨奈がこんな風に死ぬなんて、私は絶対に許さない。


  ↓


 けたたましいアラーム音を聞いて、びっくりした私は飛び起きた。

 目覚まし時計のアラームを止めると、時刻は午前八時だった。

 私の隣には布団の中で静かな寝息を立てる梨奈がいる。目覚まし時計のアラームを聞いても起きないなんて、よっぽど疲れて眠り込んでしまっているのだろう。昨日は温泉街を歩き回ったし、夜は私の他愛のないお喋りに付き合ってくれたし、それも仕方のない事だ。

 こういう時、私はおはようのキスでもして、梨奈を起こしてみたいという密かな願望を持っていたが、それを実行するにはまだ勇気が足りなかった。その代わりに、布団からはみ出ている彼女の掌を優しく握り締める。

 すると、梨奈は寝ぼけながらも私の手を握り返した。それが堪らなく嬉しかった。

 チェックアウトまでの時間も迫っていたので、私は至って普通に梨奈を起こして、帰り支度を始める。それから旅館を出て、バス停まで歩いていき、帰りのバスが来るのを待った。

 私は梨奈の顔をちらりと見上げてから、そのポケットにしまい込んでいる彼女の手を見る。

 手を繋ぎたいな。でも、ポケットに入れている手をわざわざ引っ張り出したら、梨奈もびっくりするよね。それに旅行の間、四六時中梨奈にべったりとくっついていたし、あんまり度が過ぎると鬱陶しいって思われるかも。

「ん? どうしたの、花織?」

 梨奈はそう言いながらポケットから手を出して、私の手を握り締める。

「何か言いたそうな顔だね。もしかして、まだ帰りたくないとか?」

 梨奈のこういうところがずるい。

 私が手を繋ぎたいなと思っていたら、梨奈から自然に手を繋いでくれるところ。私がまだ帰りたくないなって思っていたら、梨奈からそれを言葉にして言ってくれるところ。何もかもがずるかった。

 私が頷くと、梨奈は笑ってくれる。

「私もおんなじ。はあ、帰りたくないなあ。でも、明日から仕事もあるし、帰りたくなくても帰らなきゃね。また今度、ここに来ようね?」

 私は梨奈と一緒にいられるのならどこでも良かった。

 ようやくバスが来た時、私はふと思い出したように上着のポケットに手を当てる。

「あっ! 私、携帯を旅館に忘れてきたかも」

「ええっ? ちょっと、このバスを逃したら、次は二時間後になるよ? どうするの?」

「ごめん! 今から取りに行ってくるから、ここで待っててくれる?」

「もう、しょうがないなあ」

 私は手荷物を梨奈に預けて、乗車を見送ったバスの発進と共に旅館へと走り出す。

 本当はちゃんと上着のポケットに携帯が入っていた。でも、そうまでしないと、このバスを見送るもっともらしい言い訳にならなかったのだ。梨奈に嘘を吐いて、この寒い外で一人待たせる事になるのは申し訳なく思った。

 私はバス停と旅館の距離を行き来して、そのバス停に戻る道の途中で、自販機で売っていた温かいお汁粉の缶を二本買った。梨奈の待つバス停に戻ってくると、お詫びとしてそのお汁粉を一本渡して、次のバスを待つ事にした。

 バス停の前にある古びた木製のベンチに腰掛けて、私達はお汁粉を啜る。

「本当にごめんね? 私のせいで、折角の楽しかった旅行が台無しだよね」

「こらっ」

 梨奈は優しい手付きで私の頭をこつんと叩く。

「違うでしょ? 確かに花織はドジなところもあって、私も散々手を焼かされてきたけど、今更そんな些細な事で萎えるような関係じゃないでしょ、私達。むしろ、こういうアクシデントも旅行の醍醐味だし。もっと前向きに考えれば、二人で一緒にいられる時間が二時間も伸びたって思った方が、ずっと素敵じゃない?」

 梨奈のこういうところ、ほんとにずるい。

 思い返せば、彼女のこの性格は初めて会った時から変わっていない。

「ねえ、梨奈、私達が初めて出会った時の事って、覚えてる?」

 私が期待を込めてそう聞くと、彼女は「う~ん、どうだったかなあ?」と答える。

「自信を持って、うん! とは言えないかな」

「ええ、そんな……」

 私が目に見えてがっかりしたのを見てか、梨奈は慌てたようであった。

「ああ、待って待って! 覚えていないとは言ってないでしょ? じゃあ、今から私が花織と初めて会った時の事を覚えている範囲で話すから、間違っていたら途中で止めてね」

 そうして、梨奈は話し始める。

「あれはそう、私が高二だった時、学校に遅刻しそうになって道を走っていた。急いでいたから周りもよく見ずに、次の角を右へ曲がろうとしたところで、左から走ってきた誰かとぶつかった。その子は、私と同じ制服を着ていて、タイの色から一年生の子だと分かった。その子も遅刻しそうで急いでいたらしくて、すごく申し訳無さそうな表情で『ごめんなさい』って謝るものだから、私が『いいのよ。私もちゃんと周りを見ていなかったし。それに案外、こういう事から恋が始まったりするかもしれないでしょ』って冗談を言った。そしたら、その子は笑ってくれたのよね。はい、おしまい。止めなかったって事は合っているんでしょ」

「覚えてるじゃん」

 私が不服そうにそう言うと、梨奈は笑いながら「ごめんごめん」と謝った。

 梨奈は意地悪だ。意地悪だけど、私の扱い方が上手なのだ。私の気持ちを察して、やって欲しい事や言って欲しい言葉をくれるし、時には適度なタイミングでわざと私の期待を裏切ってみせてから、実は分かっていたよって応えくれる。

 もし、運命の相手がいるとしたら、私にとっては梨奈がそうなのだ。

 これからもずっと、私は梨奈だけを見続けるし、梨奈だけを想い続ける。

 だから、梨奈もそうであって欲しい。


  ――――――――


 夕方、梨奈の家にいた私は彼女の帰りを待っていた。

 今日は梨奈にお泊り会をしようとお誘いを受けたのだ。突然の事であったので私は驚いたけど、梨奈からそう誘われたのがとても嬉しくて、本当はバイトの日だったところを無理矢理休みにしてもらった。

 私は妙にそわそわして、梨奈が仕事を終えて帰ってくるのを今か今かと待つ。

 少し時間が経って、そろそろかなと思った時、携帯に一件のメールが届いた。内容は『ごめんね、花織。ちょっとだけ残業が入っちゃった。もう少しだけ待っててくれる? どうしても今日中に話したい事もあって』との事。

 私は一秒でも早く梨奈と会いたかったが、そんな我儘を言っても彼女を困らせるだけだと思い留まって、『分かった。梨奈が帰ってくるまで待ってる』との内容を返信した。

 だけど、それから一時間、二時間と経っても一向に帰ってくる気配がなかった。心配になって、メールや電話もしてみたものの、一切の返事がなかった。もしかすると、帰り道の途中で事故に遭ったのかもしれない。そう考え出したら不安になって、私は梨奈の職場まで探しに行ってみる事にした。

 梨奈の家から彼女の職場までの道のりに不審な形跡はなかった。パトカーや救急車が停まっている事もなく、交通事故に巻き込まれている可能性はなさそうに思える。

 彼女の職場であるビルに着くと、私はその建物を見上げた。以前に、梨奈本人から彼女の所属する部署が何階にあるのかを教えてもらった事がある。その階層付近の窓を見てみたが、明かりは点いていなかった。

 私は注意深く辺りを観察しながら、梨奈の家を目指して歩き始める。

 もし、事故に巻き込まれたのではないのなら、誰かに誘拐された可能性はあるだろうか。例えば、私の知らない近道があって、梨奈はその人気のない近道を通っている途中で見知らぬ誰かに誘拐された。考え過ぎかもしれないが、可能性の一つとしては否定できない。

 そうやって、あれこれと考え事して歩いていた時、私は数メートル先の居酒屋から出てきた人影を見て、つと足を止めた。

 それは梨奈であった。ぐったりと頭をもたげて、別の女性一人に支えられてはいたが、彼女は間違いなく梨奈である。

 すぐに駆け寄りたかった。だけど、それを引き留める私がいた。

 どうして、梨奈は居酒屋から出てきたの? 残業だって言っていたのに。それにあの女の人は誰なのかな。同じ会社の人みたいだけど、あんなに酔っ払った姿を他人に許すなんて、私にすらそんな姿を見せた事ないのに。

 梨奈とその女性が歩き始めたので、私はこっそりとその後を付けていく。

 二人は梨奈の家の方角とは微妙にずれた道を歩いていき、段々と雰囲気の変わった通りへと入っていくと、「ホテル」と書かれた看板のある建物の前で立ち止まった。女性が何かを言ったかと思うと、梨奈は頷いたようである。

 そうして二人が立ち入ったそれは普通のホテルとは違う、明らかにそういう事をする意味でのホテルだった。

「嘘、嘘よ」

 私は急いで来た道を引き返して、梨奈の家に戻った。

 部屋の中はひどく冷え切っていて、私は寒気を感じて体を震わせる。

 梨奈にああいう関係の相手がいたなんて知らなかった。それに今日は私をお泊り会に誘っておきながら、その裏であんな事をするんなんて信じられない。私を待たせるにしても、残業があるからって嘘を吐いた。

 もしかして、あの女の人とは付き合って長いのかな。私との約束よりも優先するぐらいだからきっと、私よりもずっと大切な人なんだ。そうだ、よくよく考えてみれば、私は梨奈の職場での人付き合いはまったく知らない。私に隠れて、そういう相手を作ろうと思えば、いくらでも作れちゃうんだ。

 そういえば、数時間前の梨奈のメールには『どうしても今日中に話したい事もあって』とあった。あれはその人の事について打ち明けようとしていたのかもしれない。となれば、私との別れ話を切り出す可能性もある。

 いいや、待って、私はまだ梨奈と話をしていない。そうだよ、ちゃんと話してみて、私の納得できる答えが聞けたら、許してあげる事だってできるんだ。

 でも、私の事を放って置いて、別の女の人とあんな場所に入った事は許せない。

 私は梨奈が大好き。でも、梨奈は私の事が一番じゃないのかもしれない。

 それどころか、今までの私に対する言葉や態度、その気持ちが嘘だったとしたら。私は梨奈の何なの? 嫌な夢をたくさん見て、苦しんでいた私の気持ちはどうなるの?

 頭の中で思考が回り続けて、どこに答えを見い出せば良いのか分からなかった。

 そうしている内に、いつの間にか外は明るくなっていた。

 不意に、玄関の方から鍵を回して、扉を開け閉めする音が聞こえてくる。

 梨奈が帰ってきたんだ。梨奈の本当の気持ちを確かめなきゃ。

 私は玄関に向かう――その前に、私は台所で光る物を見たような気がする。

「あれ、まだ家にいたんだ」

 それが私を見た梨奈の最初の言葉であった。

「ああ、昨日の夜? それは、その……、残業が長引いてね、会社で寝泊まりしちゃったの」

 それが私を見た梨奈の最後の言葉であった。

 ふと、携帯の着信音が耳に入ってきて、私は我に返った。

 その着信音は梨奈の携帯のものであった。私にはその電話の相手が誰であるかにある種の確信を持っていて、彼女の鞄から携帯を取り出すと、その画面を見つめた。そこには知らない女の人の名前がある。けれど、私はこの女の人を知っているはずだった。

 私は相手の話を聞いてやろうと思って、黙ったまま電話を取った。

「あっ、先輩? その、昨日の夜の事、ちゃんと謝っておこうと思いまして。いくら先輩の家が分からないからって、あの場所のチョイスはないですよね……。すみません。でも、先輩も悪いんですよ? 相手が上司だからって、飲みに付き合う必要なんてないんですから。今の時代は会社より個人の生活が大事ですし、飲み会だって断ってもよくって、無理に誘われたらセクハラだのパワハラだのアルハラだの、そう言って毅然な態度を取らないと。先輩、恰好良くて美人だけどお酒に弱いんですから、あわよくば酔わせてお持ち帰りを狙っている男共もいるんですよ? そんな事になったら、前に話してくれた彼女さんが悲しむでしょう。私、先輩とその彼女さんの事を応援してるんですからね。ああ、それと、先輩は昨日の夜の事を、彼女さんに正直に報告したがっていましたけど、本当に喋っちゃ駄目ですよ? さっきも言いましたけど、私とは真実何もなかったとはいえ、その場にいなかった彼女さんにはそれが事実か分かりっこないんですから、もし報告しても先輩が損して、彼女さんは不安な気持ちになるだけなんです。いいですか、先輩も女性なんですから、女の嫉妬や不安がどれだけ恐ろしいものかよく知っているはずです。何度も言いますけど、昨日の夜の事は自分から話さない事、それだけです。それにしても、先輩、ずっと黙っていたらちょっと不気味ですね。そんなに気分が悪いんですか? だから、あれほど飲む――」

 気付けば、私の手から携帯が滑り落ちていた。

 全ては私の早とちりであった。

 見れば、梨奈は真っ赤に染まった床の上で仰向けになっている。微かな望みを込めて、弱々しくけれどはっきりとした声で「梨奈?」と呼びかけてみたが、やはり反応はない。

 梨奈の傍に歩み寄ろうとした時、私の足の爪先に何かが当たった。

 それはラッピングされた小さな箱であった。たぶん、彼女の鞄かポケットから飛び出て、辺りに散らばった私物の一つなのだろう。

 その箱を開けてみたところ、中からさらに小さな白い箱と一通の手紙が出てきた。

 手紙にはこう書いてある。『突然家に呼び出してごめんね。どうしても今日、花織に渡したいものがあったの。私達が高校生の時、今日と同じ日に、私と花織は出会った。だから、その記念日にお揃いの指輪を渡したかったの。結婚はできなくても、結婚指輪を付ける事はできるでしょ? ちょっと気が早いかもしれないけど、大好きな花織のために。追伸。花織の「愛している」って言葉、また聞きたいな』と。

 小さな白い箱を開けると、中には二つの指輪が入っていた。

 私は梨奈の体に覆いかぶさって、ひたすら謝り続けた。そして、これもいつもの夢なのかもしれないと思って、もしそうなら早く目が覚めてくれるよう願った。

 一分、十分、一時間、三時間、五時間と待ったが、私は目が覚めない。

 どうして夢から醒めないのかと考えて、ある事に思い当たった。

 そうか、刺激が足りないんだ。よくある方法で、今の自分が夢の世界にいるのか現実の世界にいるのかを確かめるために、自分の頬を抓る事がある。それをすればきっと、私もこの悪夢から目が覚めるに違いない。

 でも、こんな衝撃的な悪夢を前にして、頬を抓るのは少し刺激が弱過ぎる気もする。もっと強くて、これなら確実に目が覚めるであろう別の手段はないものか。

 そう考える内に、私の目は梨奈の傍らに落ちた赤い包丁へと吸い寄せられた。

 そして、その包丁を手に取って、私の左胸に思いっ切り突き立てる。

「あ、ああっ、痛い……。そっか、これは、夢じゃ、ないんだ……」

 ぼんやりと薄れゆく意識の中、私の左胸にじんわりと鋭い痛みが広がっていくと同時に、その胸の奥で梨奈の血と私の血が混ざって溶け合っていくような、そんな不思議な感覚に陥ったのであった。


  ↓


 けたたましいアラーム音を聞いて、びっくりした私は飛び起きた。

 目覚まし時計のアラームを止めると、時刻は午前八時だった。

「はあ? なんで八時にアラームが鳴るの?」

 私は慌てて学校の制服に着替えながら、勉強机の上に置いてあった教科書やノートを鞄に詰め込んで、お母さんに文句を言うためリビングに顔を出した。

「ねえ、お母さん! なんで起こしてくれなかったの?」

「お母さんは起こしました。そしたら、あんたは『大丈夫だから』って言って、お母さんを追い出したんだから。自業自得でしょうが」

 朝ご飯を食べる時間も惜しかったので、私はそのまま家を飛び出した。

 脇目も振らずに全速力で道を走っていた次の瞬間、右手の道から突然現れた誰かにぶつかってしまう。私は転んだもののすぐさま起き上がって、ぶつかった相手に怪我をさせていないか確認する。

「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

 見ると、その相手は私と同じ制服を着ていた。唯一違うのはタイの色で、彼女は私より一つ上の先輩のようであった。

「ええ、大丈夫よ。あなたは?」

「私もなんとか。それよりも、本当にごめんなさい。不注意だった私のせいです」

「いいのよ。私もちゃんと周りを見ていなかったし。それに……」

 彼女はにっこりと笑う。

「案外、こういう事から恋が始まったりするかもしれないでしょ」

 私はその彼女の笑顔につい見惚れてしまった。

「梨奈?」

「えっ、なんで私の名前を知っているの?」

 はっとした私は、自分でもなんでその名前が口を突いて出たのか分からなかった。

「分からない。でも、なんとなくそんな気がしたの」

「そっか、じゃあ、あなたは花織だったりしてね?」

 今度は私が目を瞬かせる番だった。

「それ、私の名前……」

「ん、そうなの? 適当に言ったつもりだったんだけど」

 お互いに無言で見つめ合った後、彼女が不意に口を開く。

「もしかしたら、私達はずっと前に、どこかで会っていたのかもしれないね」

「うん、そうなのかも」

 もし、運命の出会いが本当に存在するのだとしたら、きっとこの時の事を言うのだろう。

 

                                    了

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夢の中で見る夢 坂本裕太 @SakamotoYuta

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