第38話

 先程まで降っていた雨は段々と弱まり、そしてフェードアウトするかのように止んだ。曇り空の隙間から太陽が射し込み、ゆっくりと街を照らしていく。

 クレアレーネより北部にある街、マシアはそこそこの賑わいのある場所だった。多くの人や車が行き交い、少しばかり忙しない時間を過ごしている。

 マシアの住宅街から少し外れた場所にそれはあった。家と家がまばらに並んでいるエリアの中で、ぽつんと佇む教会。その横に広がる墓地。教会よりもずっとずっと広い敷地面積で、いくつもの墓石が並んでいた。

 墓地の奥、左手に進んだところにそれはあった。

 他の墓よりもずっと綺麗に手入れがされている。墓石は磨かれており、朽ちていたり壊れていたりした様子はない。隣の墓石と比較しても、それは一目瞭然。

 ずっとレアンとセドレンが墓を綺麗にしていると言っていたが、本当に綺麗なものだとロッシャは思った。

 慣れない黒スーツを着て、近くの花屋で買った花束を抱え、ロッシャは墓石の前に立つ。

 リーアンジェ・ヴァイエント。結婚してからの彼女のフルネームが墓石に刻まれている。生まれた年と、死没した年も一緒に。

 こうして見ると、あぁ本当に彼女は既にこの世にいないのだなと思い知らされる。

 初めて彼女の墓を訪れた。様々なスケジュールが片付き、ようやく足を運べたのだ。レアンも一緒にと思ったが、あいにく彼は都合がつかず……。


「……リーアンジェ」


 墓石越しだが、ようやく彼女と対面ができた。この土の下で、安らかに眠っているのだろう。

 果たして呼びかけに応じて、こちらを見てくれているか?


「俺の歌、あんたに届いただろうか。……俺はこれからも歌い続ける。どうかあんたも眠りながらでいいから、聞いていてくれよ」


 そう語りかけて、花束を添える。

 ラターリオの家で、アルストロメリア公演の会場で、彼女の幻を見たような気がした。都合のいい幻想だってことは分かっている。それでもロッシャは確かに感じたのだ。彼女の存在を。彼女の気配を。

 それがロッシャの決心と勇気に繋がったのは確かだ。


「本当はあんたが生きている内に会ってみたかった。それだけが心残りだ」


 彼女がどんな声だったのか、どんな雰囲気だったのか、ロッシャには分からない。恐らくこんなイメージだと言う、想像上のリーアンジェしかいない。

 だが、それは致し方がないこと。これからも想像上の彼女がロッシャの中で息づくことだろう。


「あぁ、あとラターリオのことも見守っていてくれよ。あんたがいないと、あいつは駄目になりそうだし」

「ふふ、母親みたいなことを言うんだね、ロッシャ」


 気が付けば別の声が聞こえ、ロッシャは振り返る。一人しかいなかった筈の広い墓地に、もう一人。

 ロッシャよりもたくさんの花束を抱えたラターリオが立っていた。ロッシャ同様に黒いスーツを着て、凛と立っている。


「遅かったな」

「どんな花を買おうか悩んでいてね。どれも綺麗だったからまとめて包んでもらったよ。……彼女に花を手向けるのは2度目なんだけど、何せ最後に行った日から10年経っているからね」


 やはり彼は10年間、リーアンジェの墓に行くことがなかったのか。彼女の墓前で想いを吐露してしまいそうだったから踏みとどまっていたのだろうか。

 ラターリオは腰を落とし、リーアンジェの墓前に花を置く。ロッシャの花束と合わせて、とても華やかな墓となった。

 心なしか、明るさと美しさが漂っている。


「リーアンジェ。長い間、ここに来られなくてごめん。決して君を忘れていたわけじゃないんだ。ただ、どうしても君に会うことを躊躇ってしまった。……君を苦しめるような告白をしてしまうと思ったから」


 当然返事はない。ただ静かに風が吹くだけ。


「でも、君の日記を読んで、僕は改めて過去と向き合うことにした」


 長い指が、そっと墓石を撫でる。慈しむように、ゆっくりゆっくり。まるで彼女の髪に触れたかのように。

 ロッシャは何も言わないまま、その仕草を見ていた。


「ずっと言えなかったけど、ちゃんと伝えるよ。リーアンジェ。僕は君を愛している。今までも、そしてこれからも……」


 ラターリオの中でリーアンジェはいつまでも生き続けるのだろう。数々の思い出を、数々の後悔を抱えて。そして彼はずっとリーアンジェに恋をする。最初で最後の恋を。

 それが彼の選んだ道なのだ。


「……ラターリオ」


 ロッシャはようやく口を開き、持っていた鞄からあるものを取り出す。

 白い表紙の、本。


「それ……」

「悪い。実は日記をレアンから預かっていたんだ。レアンが家で処分したら、親父さんに見つかると思ってな。俺が処分するって言っておきながら、俺は今まで処分できずにいた」


 ずっとロッシャの家の中で眠っていたリーアンジェの日記。処分しようと思いつつも躊躇ってしまい、何もできないでいた。結局今日、この場に持ってきたのだ。

 この日記は本来誰の手に渡るべきなのか、ようやく分かったから。


「これはあんたが持つべきだ、ラターリオ。リーアンジェの懺悔かもしれないが、それでも唯一、彼女と繋がっている物だろう?」

「……」

「まぁ、それをどうするかは、あんたに任せるけど」


 ラターリオはロッシャから日記を受け取る。驚いた表情を見せているが、戸惑い、困惑している様子は見られない。

 そして両手でしっかりと持ち、墓石と向き合った。


「ごめんね、リーアンジェ。君の日記、僕がいただくことにするよ。勿論、君の想いをさらけ出すつもりはない。僕とロッシャ、そしてレアンだけの秘密だ」


 果たして彼女が何を思うのか分からない。だが遺品をどうするかは、残された者で決める他ないのだ。

 ラターリオはずっと持っていることを選んだ。彼女の心の内が書かれている、その日記を。


「大丈夫。僕が死んだらロッシャがちゃんと処分するから」

「は、俺?」

「当たり前だよ。他に誰がいるんだい? 君のほうが僕より後に死ぬだろ? 22歳も離れてるんだから」


 確かにそうだけどと思いつつ、ロッシャは苦笑した。結局ロッシャの手元に戻ってくるのではないか。まぁ、その時が来たら責任を持って処分をしよう。

 それまでは、ラターリオの手の中でずっと保管されていくことだろう。

 静かな風がまた一つ。雨上がりの後の風は、微かな雨の匂いを運んでくる。そして仄かに冷たい。

 空を見上げると、青空が広がり始めていた。これからはずっと晴れ間が続くことだろう。そして明日もいい天気になる。


「……さて」


 ラターリオは息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。大きく背伸びをして、こちらを振り返る。

 それはずっとずっと、輝かしい顔をしていた。


「まだまだ僕達にはやることがある。まずはギターを覚えよう、ロッシャ」

「ギター?」

「君の足のことを考慮すると、座ったままギターを演奏するスタイルがいいと思うんだ。アディルもそう言っていてね。だけど君にはギタースキルが足りない。これから僕がしっかり教えていくよ」


 それはつまり、ラターリオのレッスンは終わらないということか。

 あぁまた一つ、音楽への知識が培われていくのだなと、ロッシャは実感した。そして楽しみで体中が満たされていく。


「そうだな、またよろしく頼むよ。ラターリオ」

「君の舞台人としての道はこれからだよ。新しい世界が君を待っていよう。どんどん前へ進んでいく様を、僕に見せてくれ」

「……あぁ、勿論だ」


 ロッシャは意を決して頷く。そう、全ては終わったわけではない。これからが始まりだ。

 ダンスとしての道は閉ざされたけれど、新しく歌の道が開かれた。後はその道を順序よく、時には寄り道をしながら進んでいくだけ。

 ラターリオとともに。

 心の中で生きるリーアンジェも一緒に。

 アルストロメリア公演のその向こうへ、ロッシャは確実に足を踏み出したのだ。


「さぁ、戻ろうか。クレアレーネに」

「そうだな。俺達が生きる街に」


 2人は最後に墓前で祈りを捧げ、墓地の出口へと歩いていく。雨の匂いが漂う街は、とても神秘的で美しかった。

 静かに風が吹く。手向けられた花が揺れる。

 未来へと歩み出した2人を見つめ、そっと微笑む幻が、そこにあった。

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愛しきリーアンジェに捧ぐ 志稀 @nolla_131

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