4 逃亡

 眩しい朝の日差しが、ブラインド越しからでも感じとれた。その光を鬱陶しく思いながら、鰐鮫剥人は目の前にいる老人の返答を待っていた。

 ヤクザの事務所というのは、今日日豪華絢爛な佇まいの屋敷などではなく、しみったれたコンクリートを打ち込まれた質素な造りのものがほとんどだ。その室内で鰐鮫を含めた幹部数人と若い衆が、組長である老人とその横に控えている若頭に向かって、定例の報告を行っている。

「そう言えば」と間を置いて、これまで生き馬の目を抜く裏社会で生き残って来た自信と含蓄に見え隠れする暴力の歴史を覗かせながら、老人が口を開いた。

「あの依子とかいうお前が拾った子供だったか、もう何歳になる?」

 鰐鮫は内心ショバ代がいくら入っただの、クスリの売り上げがどうだのといった報告の後に来る科白がそれか、と罵りながら返答した。

「今年で十五です。まだ十五、ですが、既に十分仕上がっていると考えています」

 鰐鮫の存外真面目くさった言葉に、老人は嗤いながら言った。

「そうか、もう十五か。しかし、それほどの上物なら簡単に手放す手もない。大事に扱ってやれよ」

 鰐鮫は表面上「はい。わかっています」などと了解しながら、何が大事に、だ、考えが及んでいない訳もないだろうに、変態爺め、今度送り込んで恩を売っておくか、と悪態を付いていた。自分はこのような地位に甘んじているべき人間ではない、と鰐鮫は自負していた。だからこそ、利用できるものは片っ端から骨までしゃぶるが如く利用し尽くす主義だった。その為の依子だった。兎偶の依子。自ら辞書を手繰って付けた名前だが悪くはない、と思っていた。兎。皮を剥がれて慰み者にされて、最後は捨てられる兎。そろそろ潮時だ。間抜け面のこいつ等を始末して自分が頂点に立つ。依子の腕さえあればそれも難しくはないだろう。さながらよく出来過ぎた実験動物だった。

 突然、予定外のノックが聞こえた。一同がにわかに殺気立つ。

「誰だ」と組員の一人が対応すると、「大黒です」という声が返ってきた。「入れ」許可が出ると、白衣を着た女医が姿を見せた。大黒の存在は組に周知はされているが、いかんせん組長の「趣味」的な産物であるために、微妙な立ち位置にある。

ヤクザの事務所に白衣の女医が堂々と居座っている絵面の奇天烈さを改めて感じながら、鰐鮫は「何の用だ。毎回言ってるが大事な場なんだ、大した用もなくずけずけと入って来るんじゃない」とあしらう。大黒は動じもせずに能面の様な顔で「いえ、こちらも重要な報告だと思いましたので」と言った。

 一瞬、鰐鮫はその面構えにやや違和感を覚えた。大黒の佇まいに、多少の殺気のようなものが垣間見られたように思ったからだ。

 しかし、遅かった。

 大黒が発言した一秒後に異常は既に発生していた。大黒の背後にある影が突如、跳躍を見せたのだ。男共の面前に躍り出たのは、依子だった。両手には二丁のマシンガン。それを何の躊躇もなく発射させた。

 突然の不意打ちに、組長以下全員が対応出来るはずもなく、ましてや懐から銃を取り出して応戦する隙などあろうはずもない。耳をつんざくような銃声と共に、男共はマシンガンの凄まじい銃撃を浴びながら、藁人形のようにのたうち回り、ボロ雑巾と化して次々と倒れていった。室内に工事現場もかくやという騒音と、マズルフラッシュによる発光が溢れかえる。薬莢が軽い響きをたたえて流れ落ちていく。ガラスが飴細工のように割れていく。さながらパーティー会場のような殺戮は銃弾が尽きるまで続けられた。

 それでも弾は尽きたようだった。銃声が途絶えると、そこにあるのは夥しい死体の山と、血の匂いと、せき込むような硝煙と、その他諸々の破損しきった内装、を眺望する依子と傍らに立つ大黒のみとなった。

 依子は割れたガラスから微かに漂ってくる微風を受けながら、鰐鮫の死体の方向へ歩を進めた。そして眼下を見ると、他の連中と見分けが付かない黒のスーツの中から、くすんだ肌色が覗いている。血を吐いていた。紛れもなく依子を生涯操り人形に堕としていた鰐鮫剥人の死体だった。

 実際に眼にしてみると、自分がこれまで目撃してきた死体の無様さと何一つ変わらない物体にしか見えなかった。こんな奴にずっとずっと苦しめられてきたと考えたくもないほどに、ただの死体だった。それを見ながら少しずつ達成感が像を成していくのを感じたが、しかし涙は流れなかった。決して涙を見せる訳にはいかなかった。こんな奴の為に涙はあるのではない。だが意思に反して、依子は虚空を仰いだ。そうしていないと眼の端から零れ落ちそうになる洪水があった。最早十五年分の憎悪があるのではなかった。それより大切なものを見つけたのだから。分かるまい。人を愛したことがなかったこの男には、分かるまい。

 そうしてしばらく立ち尽くしていると、大黒が声をかけてきた。

「……終わったようね。しかし、やってくれたじゃない」

「……」

「言っとくけどアンタ、もうどこにも逃げられないわよ」

「……分かってる。分かってるわ」そろそろ依子は視線を元に戻して、自分が起こした事態を噛みしめた。

「それで、私は撃たないの?」大黒は例によって煙草を懐から取り出しながら、平然と問い質す。

「いや、貴女は撃てない。殺さない」

「何故?」

 大黒はなおも問い、依子は返答を下すつもりだったが、すんでのところで口からは出てこなかった。何故殺さないのかと言われれば、それは自分に唯一優しくしてくれた人だったからだ、という答えを用意することは出来た。だが、どうしてもそれ以上の何か確固たる理由があると思われてならず、それを口に出して大黒に伝えるのは憚られるものがあった。考え始めると収拾がつかなくなり、他にも懸念すべき事はいくらでもあるように思われて、依子は考えるのをやめた。

 そのような答えあぐねる依子の様子を見て、大黒は嬉しいような、悲しいような、引き裂かれるような顔をしたが、依子には気付かれなかった。そして「ほら、さっさと行きなさい。ぼんやりしてると追手がいつ来るかわかったもんじゃない」と急かした。依子は頷き、出口に向かって外に出ようとしたところで、振り向いて言った。

「ありがとう。さようなら」

 言いながら、むしろ憎むべき対象である彼女に対して、何故感謝の言葉を述べるのか、と逡巡し、“母”という一語が脳裏をかすめたが、結局依子はそのまま走って行った。

 そうして視界から消えた依子を見送り、残された大黒は、改めて室内の惨憺たる有様を一望した。どう見積もっても分家筋からの言及は避けられそうもなく、事件を引き起こした張本人と見做される可能性も十分あり、よっぽど依子を憎んでも憎みきれない状況にあると言っても良かった。しかし、大黒は霧が晴れたような明るい顔をして、連中の死体を肴にしながら相も変わらず煙草を吸い続けた。


  *


「や、待った?」

「ちょっと遅い。1分半遅刻」

 光は案外時間に厳しい性格のようで、腕時計を指示しながら文句を言った。

 今しがた殺しまくって来たところで、遅れないように急いできたつもりだったのに、何て勝手な科白だ、と依子は可笑しくなって笑った。学校に向かう途中の路傍で、時間は朝、周りを見るとちょうど通学の時間のためだろう、学生服の人影がちらほらと見える。依子と光はどちらからともなく並んで歩き始めた。二人とも学生服なので、一見通学途中の学生と何ら変わらない佇まいに見える。光は隣にいる依子に向かって言う。

「で、ちゃんとやってきた?」

「うん。全員跡形もなく、当然……」

「これから一生逃亡者ね」と光は依子に先んじて告げた。そして腕を頭の後ろで組みながら言ってみせる。

「うん、やっぱりもう後には引けないわね。私はいいのよ、もうあんたに救ってもらったから」

 その科白を聴いて、やっぱり依子にはどう返していいかわからなかった。誤魔化すように「そんなの分かり切ってたわ。問題はこれからどうするかよ」と言ってみる。それに対して光は指折りしながら「金はあるんだから、パーッと遊ぶのもアリよね。高級レストランでお腹一杯食べる! とか豪華クルーズで世界一周! とか」と呑気に言う。

「そんなことしたらあっという間に見つかるわよ、バカ」

「うん、それはそうね」

 漫才をしながら二人で笑いあった。結局アテがないのは事実だったが、それでもちっとも落ち込まないのは何でだろう。そうだ、この年相応に高く、良く通る自分に向かって話しかけられる声だけは、不快な世界の只中でずっと綺麗なままだったのだ。その眩しく、発光するような明るさに導かれて、今だ、渡ってしまえ、気付かれない内に渡り切ってしまえ―――と心の中は叫び続けていた。ただそれだけの事だった。

「ま、要はこういうことね」

「何よ」

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」

「?  どういう意味よ、それ」

「一蓮托生ってことよ、これから先」

 そう言ってニッとこちらに笑いかける光を見て、依子はふと、自由だ、と思った。これまでの束縛されきった人生から逃れた途端、感じたことがなかった自由の代わりに少し不安になったが、隣にいる光を思えばたちまち消え失せるように思った。毎日通い慣れていたはずの通学路が今は新鮮に映えた。ただ不快で不安だった世界の色が変容していた。道沿いに立ち並ぶ木立に風が吹いて、葉が音を立てて揺れた。

 もう人間のいない土地はどうでも良かった。人間のいる土地で、光の隣で、自由を感じられるならば。

 光がほら、と手を差し伸ばしてくる。依子はその手を握り返して、二人は手を繋ぎながらまだ見ぬ向こうへと駆けて行く。全身で風を感じ、細胞が息を吹き返すように力を取り戻していくのを確かめながら、足を踏み出す。新しい土地が待っている、と依子は思った。


  *


 ……例えば、そこはどこにでもあるような人並み溢れる街中だとする。

 四方に立つビルは圧迫するような威圧感を主張し、街頭のモニターは四六時中喚き、横断歩道を繋ぐ信号も忙しなく点滅を続けている。道行く人々は連れと喋っていたり、携帯を耳に当てていたり、意味も無く下を向いていたりする。

 そんな退屈極まる街並みで、少女が二人並んで仲良くお喋りしている。その光景は全く周囲に溶け込んでおり、変わった要素など誰も感じとれはしないだろう。だが、片手にぶら下げたバッグからはちらり、と銃が覗いているのだ。その事実を周りの人間は誰も気にも留めようとしない。

 何となく、声をかけてみる。そうすると二人揃って振り返って、こう言うのだ。

「バン!」

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少女に銃を…… ユーライ @yu-rai

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