3 破綻

 それからは、薔薇色の毎日だった。

 毎日二人並んで登下校をして、始業前放課後問わずに付き合うようになった。依子は長年使ってきた俗世間用の仮面をいとも簡単に投げ捨てた。当初こそ周囲は困惑した素振りを見せたが、元から気にかけられるほどの存在でもなかったのだからすぐに話題から消えた。その距離感の近さから「デキてる」などと噂されもしたが、当人らはどうでもいいとしか思っていない。屋上での殺人は実銃と一般女子中学生の関連の不可解さから未解決として処理され、教師ら学校運営の側では長く尾を引く事態となり、転校希望者も多数いたようだが、それ以外の生徒は気楽なものだった。依子と光は普通の女子中学生と同じようにお喋りを楽しみ、買い食いを楽しみ、カラオケを楽しみ、映画を観に行ったりした。そこに銃の形を見た者など誰もいなかっただろう。

 それでも依然変わらず依子の殺人と売春は横行していたが、既に依子は光との時間さえあれば問題がない、とすら思うようになっていた。かつてあれほど心の中に澱んで存在していた憎悪は見えなくなっていた。生きる糧としての憎しみに頼らずとも息をしている。

 ある時、連中がいなくなっても光がいじめのターゲットになっているのは未だ変わらないらしく、似たような連中が因縁を付けてきた時がある。そのような場合は連中に向かって適当に徒手空拳を見せてやれば怯んで逃げていくのだが、その時もそうして処理をした。何となく勇ましい気分で「どう? こっちも捨てたもんじゃないでしょ」などと言ってみると「さながら王女様を守る騎士ね」と返し、笑いながら簡単に手を握って来るのだ。何度繰り返しても慣れず、例によって赤くなりながら、照れくささを感じつつも悪い気はしなかった。

 だが、隣にいる晴れやかな笑顔の光を見て、時々このままでいいのだろうか、とも考えるようになった。自分は初めから汚れた人間で、その汚れを洗うことが出来なくて、そんな人間がこのまま幸せに耽溺して許されるものなのだろうか? 最大の懸念は組織の手が光に及ぶことだった。それだけは何としても避けなければならない。なんとしても、命に代えても。

 そのようにして、矛盾を抱えながら少しずつではあるが、これまでの人生を取り戻すように生活を送っていた依子にまた仕事の命令が下る。今回は組織の金を横領して逃げた男の始末、というものだった。端的に危なくもなければ難しくもない内容だ。さっさと終わらせて朝を迎えればまた光に逢える。この汚れた魂を洗い流してくれる。ずっと手と同期して、身体の一部となっていた銃の重さも、最早煩わしいとしか思えなかった。



 場所は、どこにでもあるような家屋が連なる住宅街の一角だった。一つ一つの個性に乏しい一軒家を繋ぐように電柱がそそり立ち、そこから不安定に垂れ下がる電線の合間の先を見ると、コンビニのぼやけた明かりや薄汚れたアパートなども確認出来る。

 依子が前にしている、標的の住む家もその一つだ。他と同じように築何年か、少なくとも新しくはないであろう生活の存在を匂わせる佇まいと、門扉の外に並行して続くブロック塀はおおよそ暗殺といった言葉には似つかわしくない、日常的な風景であった。ちらりと見やると、表札には「亀平」とある。初めて知った名だ。というのも、今回の仕事に臨むに当たって依子は一切の事前情報の把握を放棄していたのであった。このような文字通り片手で済ませられる仕事に、詳細な情報を持って当たるのも馬鹿馬鹿しかった。最低限の情報、つまりは標的の隠れ家に行って撃つ。殺す。イレギュラーとして家族等の存在も考慮されたが、諸共始末で構わない。

 何より光だ。彼女の事を考えているだけで幸福感が押し寄せて来る。明日何をするか、何を話すか、それを考えているだけで夜が明ける有様であるから、他の患い事に手を焼いている余裕などない。殺し屋としては余りにも無防備な傲慢だったが、実際依子の身体は問題なく稼働していた。長年培ってきた癖は、浮世離れした頭を切り離しても支障が無いと言えるほどに仕上がっていた。

 無策に門扉を開き、石畳を踏んで侵入する。警戒もそこそこに、拳銃をぶら下げたままで玄関前に立つ。引き戸に手を掛けると、ギィィ、と建付けの悪い音を出しながらあっさりと開いた。馬鹿め、と思う。観念したのかこれでは両手を広げて歓迎しているのと同じだ。どの道、開いていようが閉まっていようが運命は決まっていたのだが。

 拳銃を構えて一部屋づつ探っていくつもりだったが、しかし微々たる部屋数であって、ヤクザの事務所とは訳が違っていた。すぐに発見する。扉を開けると、中年の男と女が薄暗い部屋の中でうずくまっていた。傍らに銃が転がっている。顔を恐怖と絶望に引きつられながら、こちらを見ている。その怯え切った顔は甚だ醜悪なものに映った。これまで生きてきた年月に比例するように層を作っている顔の皺もただれた肉にしか見えない。そんなにガタガタ震えて惨めに最後を待つくらいなら、自死を選んだ方がまだ潔いというものだ。男の方が転がっている銃に手を伸ばした。咄嗟に対応するが、思い直す。

 こいつは撃ってこない。銃口を向けて来るもの特有の殺気走るような感触がまるで感じられないのだった。さながら諦観と服従の構えだった。男は呂律の回らない口ぶりで言う。「さ、最後は……自分で、カタを……カ、カネはそこに……」とタンスの横にある鞄を示した。それを聞いた依子は、今更も今更としか思えなかった。猶予は十分あったはずだ。醜悪極まれりだ。恨むなら私ではない、自分の情けなさを呪うがよい。依子の持つ銃口が上がっていった。男が拝むような懇願する顔を見せる。女もそれに同調しているようだった。

 しかし、「駄目よ」

 判決と同時に引き金を二回引いた。くぐもった音がして二つの人影が倒れる。消音機を付けているために、近隣に気付かれる恐れはなかった。

 死体を見ながらやれやれ、と思った。全く楽勝な中身だった。どうでも良い人殺しだ。自分はこんな丑三つ時に貧乏くさい人家で、しょぼくれた中年男女の血に濡れているような暇はないのだ。一瞥もくれずに冷めきった感情で廊下を歩いて、外に向かう。気付けば木造に特有の、湿った鼻に付く臭いが充満していて意味も無く腹が立った。突き当りの角を曲がると玄関に出る。わずかではあるがぼんやりとした明かりの気配がしている。歩を進める。すると、有り得ないものを見た。

 最初は、連中の娘かと思った。背丈から考えて、それが適当な解答に思えたからだ。しかし、違った。光だった。今さっきも頭の中を占拠していた彼女が、いる。仕事の殺しを行った家の玄関に、いる。分からなかった。とにかく分からなかった。何故光がこの場所この時間に己が眼中に映っているのか理解不能だった。

 相手も驚愕した顔でこちらを見ている。それは紛れもなく、どうしようもなく、自分の救いの像と一致を見せていた。あらゆる思考と想像と恐怖に占拠された頭の中で、ふいに浮かんでくる選択があった。

「目撃者は殺せ」

 そうだ、自分は殺し屋なのだから、邪魔者は殺さなければならないのだった。どんな相手だろうと。光だろうと。それが生まれいづる時からの自分の宿命だったはずだ。愕然としたままに習慣を追尾する身体が頭とは別に動いて、銃口が揺らめいた。焦点を失いつつある視界の中で、真っ黒な銃身の向こうが見えた。それは呼吸をしている。どこかで閃光がバチッ、バチッ、と弾けるのが見える。その光源に群がる蛾が無軌道な軌跡を描いている。

 光。私の救い。汚れを落としてくれる。交わした言葉。抱きしめた身体。重ねた身体。それを殺す。自らが、自らの銃が――!

 身体がおかしい方向に跳ねた。全身が虚脱しながら一刻も早くこの場から立ち去るように警告した。

 世界が崩壊した。


  *


 最初の記憶は、なんだったか。有耶無耶に入り組んだ記憶の網を辿っていった、一番端にあるもの。

 そうだ、眼だったと思い出す。幼い自分を拾い上げた鰐鮫の顔の中で蠢く目玉だった。微かだが確実に覚えているのは、寒さだった。雪が今にも降ってきそうな寒空の下で、河川から水がパシャパシャと飛沫を立てているのを聞いていた。ほんの少し身体に巻かれた毛布の中で寒さに震えながら、あの時の感情は救いを求めていたのだ、と今は思う。見捨てられた灰色の世界の中で、自分を救ってくれる誰かを待ち望んでいたのだった。ただ声も出なかったのでひたすらに待ち続けるしかなかった。

 そうしている間に自分を見つけてくれる眼と出会った。しかしそれは下衆な好奇と嗜虐と策略のみの、人間的な暖かさのあるものではなかった。そうだ、自分は最初の起源から、記憶の端緒からどうしようもなく汚れて救い難い、取り返しのつかない存在だったのだ、と。

 身体が成長していき、記憶が鮮明になるにつれて出現するのは、血と精液の生臭い匂いに彩られた腐臭漂う地獄だった。何の前触れもなく連れて行かれた先には男がいた。自分の記憶にある男は誰も彼も皆、醜悪を絵に描いたような顔ばかりだった。そいつは開口一番「脱げ」と言った。横に立つ別の男が発する圧に負けて裸になるしかなかった。まだ未発達の身体に向けられる脂ぎったその視線。心底気持ちが悪くなり、立っているだけで叫びそうになったが、それを見て男共は毎回「これを」だの「買った」だのと言うのだ。そうした先に待っているベッドの上で体験させられた行為は、ただただ痛く苦しいものでしかなかった。それでも徐々に快感を覚えている自分に反吐が出た。

 殺人を重ねた後の足場が揺らぐような不安と恐怖の中で行ったそれは、自分の意思に反して慰めになっているのを自覚していく。仮初の体温とはいえ、一時的な安心を男共との性交に求めていると気付いた時にはもう抜け出せないのだと観念していた。

 その人生の意義を投げ捨てた果てに獲得したのが憎悪だ。依存しながらそれでも「殺してやる」と頭の中で呟き続けなければ支えきれない心がまだあったのだ。性交と殺人の逃れられない快楽に搦め取られながら、反して有り得もしない、実現不可能な憎悪を繰り返し続ける日々に、終わりはあったのか。その岐路で現れたのが光だったのかも知れなかったが、結局自分はまた失ってしまったのだ。今度は自分の手で取り返しようもない救いを血で汚してしまった。

 ふざけてやがる、と思った。ふざけてやがる。何が憎悪だ、殺意だ。最愛の人を血で染めながら悲劇のヒロイン気取りか。いじめっ子共を撃つなら自分がやれば良かったのだ。絶対に光に行わせるべきではなかった。そして向ける銃口は、鰐鮫に向けられていなければならなかった。

 亀平などという名前は知らなかった。自分が知る少女はそんな名前ではない。光は光だ。それもこれも全て己の不手際によるものだ。あの時。唇を重ねたあの時。あれは好意ではなく、自らの身体に染み込まれている行為が反射的に呼び出されただけではなかったか。失意の前に身体の快楽で補わせる、という思考。それはまるで連中の腐りきった脳みそから出て来るものと全く同一の色をしていた。

 結局、そうだ。全て偽物だったのだ。愛情もその表現も汚濁に塗れた起源だった。無論、そのような人間があの光の隣にいることなど許されるはずもない。まして両親を殺してしまったのだ。あの場にいたのはそういう事だったのだろう。自分の親は殺せずに、愛する人の親は殺せるのだ。躊躇なく、容赦もなく、どこまでも非人間的に。

 そのようにして人生を概観してみると、矛盾の一語の果ての、当然の帰結としてある破綻だとしか思えなかった。何もかも破綻した。終わりだ。もう生きている価値も意味も見いだせない。何故なら自分でそれを奪ってしまったのだから。改めて、自分が認識していた世界の手触りは、このような代物だったのだとはっきり思い出した。何故忘れていたのか、憎悪で誤魔化していたからか、それとも光のおかげだったのか、既に何もかも分からなかったが、思い出したのならば以前の自分に戻ればいいだけだった。

 自然と、未だ把持されている拳銃を操作し、弾を込めて自らの頭に押し当てていた。最初から汚れ、溺れ、破綻しきった救えない魂に引導を渡す時だった。

 ……ふと、どこからか音が聴こえた。聞き覚えのあるそれは足音だ。こちらに向かってくる。

 気付いて周囲に意識を向けると、そこは原初の場所だった。河川があり、渡す橋がかかっている。その先には凡庸な家屋が立ち並んでいる。地面には短く生い茂った草が敷かれており、土手に腰を下ろしていたのだと初めて気が付いた。出鱈目に走り続けた結果、茫然自失に辿り着いた場所がここだったらしい。

 足音の方に眼を向けると、やはり知っているその音は光以外の何者でも無かった。傾斜を作った土手の間の境界にある道を、こちらに向かって歩いてくる。表情は暗くて見えない。しかしシルエットの手の部分には、どうやら拳銃が握られていた。

 どうすれば良いのか。今すぐ死んで詫びるべきか。逃げるべきか。だが、既に死のイメージは少し離れてしまっていた。もう一度言葉を交わしたいとでも願っていたのか知れないが、身体は固まってその来訪を待っていた。銃を下ろしていた。

「探したわよ……随分滅入ってるようじゃない」

 いつもと変わらない口調で光は声をかけてきた。そしてゆっくりと近づいて、土手に座っている依子の傍らに腰掛ける。

「銃、持ってきといたわよ。置いておいてもしょうがないし、あんたに渡しとく」

 何でもないような素振りで銃を突き出してくる光に向かって、依子は言うしかなかった。

「……なんで、来たのよ。私、あんたの親、二人とも殺したのよ」

「前にも言ったでしょ。あんなの親でもなんでもないって」

「それでも……! そんな奴、もう嫌いになって当然でしょう!?」

「嫌いにならないわよ別に。それにもう私も人殺しだし」

「……それも! それだって! 私があんたに指図したのよ!? そういう頭のおかしい狂った女なのよ!」

「……でも、あの後慰めてくれたじゃない」

「違う! あれは慰めてなんかいない! セックスすればぜんぶ忘れるっていう、最低のその場しのぎよ! 愛してなんかいなかったのよ……!」

 依子が声を荒げて言い切ると、光は言い返してこなくなった。そして空を見上げながらこう言った。「カッコ良かったのよ」

「屋上で最初に見かけた時、どこにでもいるいけ好かない奴にしか見えなかった。で、何を思ったか言ったじゃない、殺せば、って」

「……」

「ああ、なるほど、殺してやればいいのか、それが出来たらカッコ良いだろうなぁって。それで真似してみた。全然上手くいかなかったけどね」

「……だから、それも!」

「私、もうあんたがいないと生きていけない」

 いきなり言われた。必死に抗弁している不細工な顔を見据えている。

 その眼を見て、見透かされている、と思った。未だその眼に自分が収まっていることにしがみつきながら、どこまでも見透かされている、と思った。全身に、心の奥まで理解されていると感じた。そうするとどこからともなく勇気が湧き上がってくる気がした。

 そうして見つめ合ったまま光は言う。「この銃、いらないなら貰って行くわよ。そろそろ一丁くらい持ってないとね」やはりその手にはまだ重すぎる銃を掴んで立ち上がる。そして依子に背を向けた。

「あたしとあんた、兎と亀よ。あんたがそのままじっとしているなら、あたしだけでも先に行く」そう言い残して、元来た道を去って行った。振り向きもせずに進んでいく。

 依子は茫然とその背を見続けるしかなかった。

 どこまでも遠くなっていく。見えなくなっていく。追いつけなくなっていく。会えなくなっていく。その予感に抗うように、追いすがるように叫んでいた。

「置いていかないで」「連れていって」

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