2 共鳴

「で、今日はどうだった?」

「いつもと同じ、よ」

 全く綺麗な夜空だった。

 日中に照り付けていた太陽が沈んで、点々と暗黒の空に星が浮かんでくる。すると見上げる視界に煙が混じる。

 依子はいつも通りに殺しを済ませ御伽を済ませ、大黒のカウンセリング・ルームの窓から顔を出してぼんやりと外を眺めていた。ぬるい夜風に浸りながら、煙草の煙と匂いがあった。酒の匂いも。当然大黒から発せられるものだ。その当人も依子と同じようにして隣接する窓辺に寄りかかっていた。

「だからねぇ――それじゃ報告できないっつってんでしょうが」

「適当にチョロまかせばいいのよそんなもん。オッサンの少女趣味に律儀に付き合う必要無いわ」

「まぁ、こういうしょうもないやり取りこそが目的なんでしょうけども、ね」

 懐からまた一本煙草を取り出して、火を点けながら返す。

 それから二人の会話は続かずに、壁に掛けてある時計のカチ、コチと鳴り続ける音だけが残った。

 大黒は遥か彼方に煌々と輝く月を眺めながら、不意に「ねえ、あんたって何か大切なもの、ある?」と言った。突然の脈絡の無い質問に依子は虚を突かれたが、すぐに呆れた顔を作った。

「何よ、それ。自分の命、なんてこと言わすんじゃないでしょうね」

「そんな事じゃない。更に言えば生きている理由、でもいいわね」

 それを聞いて依子は腹が立った。大切なものも生きている理由もありはしない。決まっているだろう、ただ目の前の現実を処理することで精一杯だ。本当に目の前の女はそんなものがあると期待でもしているのだろうか。更に言えば貴女にだってあるとは思えない。大黒に対して憎悪は無かった。あると言えば自分も含めたどの人間にも等しく抱いている憎悪だったが、彼女に対して向ける気にはなれなかった。

 何ともなく大黒の顔を見つめる。相手も視線に気付く。安心する。暴力は発動しない。

 最中、目元に水が見えた気がした。表情は微笑を作っているが、涙なのだろうか? 分からない。意識する前に勝手に口にしていた。「そんなもん無いしこれから出来る予定も無い」と簡単に言った。

「じゃあもし仮に、仮によ――そういうものが出来たらどうするのかしらね」

 漠然と宙に煙を垂れ流し続ける大黒の表情は、変わらなかった。もう涙は見えなかった。

 依子はぐっ、と窓から身を逸らし、上半身を外に晒して微風を受けながら「無いわ」とだけ、はっきりと返した。


  *


 その日も依子は屋上にいる。

 口にした安物の菓子パンをかじると、いじめっ子が例の如く一人の女子を詰る罵声が聞こえた。鉄柵の隙間の眼下には、電柱を伝わって張り巡らされた電線に敷かれる図形と、道路と道路の間に点在する民家が見える。耳障りな罵声は意識の外に置いた。そうすれば所詮依子にとっては街中に溢れる生活音と何ら変わりが無かった。

 やがてその音が徐々に遠のいていく気配を感じる。授業までやや余裕のある時間だった。今日は早い。

 する事もないので暇になった。授業をサボるといった考えは、表面上優等生で通っているのだから論外だった。しかし、他に適当な昼食を摂るスペースはどこだろうか。連中が見つけた以上は変更するとも考えにくい。だが教室その他も許容しづらい。何より不快なのは、やられている方だった。毎回顔を突き合わせるのもそろそろ耐えられないかも知れない……。

 そんな思案をしていると、声が聴こえた。

「殺してやる」

 自分と同じ、科白だった。存外大きく背後から聴こえた。初めて聴く声。不慣れなのかかすれていた。

 瞬間、何故か分からないが苛立ちが来た。怒りたくなって止まらなかった。そんな言い種があるか。連中がいなくなって暴力が遠のいて、遠巻きに叫んだ科白がそれか。惨めったらしいったらありゃしない。言ってやれ、直接! 奴等の前で!

「じゃあ殺せば」

 知らず向き直って、見下ろしながら告げていた。

 声をかけられた彼女は、今まで自分に何の感心も見せなかった相手からの、身も蓋も無い言動に驚いたようだった。顔を上げた。こちらに対してはっきりと睨み返してくる。生気が戻ったように見えた。

「……これまで無視してた奴に何がわかるってのよ。それにあんたもへりくだってたじゃないのよ」

 割りに強い口調だった。外面から想定されるよりは攻撃的な面もあるのか、と感心しながら依子は告げる。

「殺せるわよ。鉛玉一発であんな連中一秒もかからずにブッ殺せんのよ」

 これまでの学校における依子のイメージとはかけ離れた科白を、平然と口に出した。理由は依子自身にもよく分からない。

 相手である彼女は絶句した後に少し考えて、二の句を継げようとした。だが、顔を上げた時には依子の姿は既に屋上から消えていた。

「……」



 眼前に映るのは震えている男だった。普段は全身で強さを誇示している人間が、銃口を前にして取る態度がこれだ。額から汗を不潔にしたたらせて、必死に喚いている。

「わ、わかってるぜ……。例の中学生だろ? 金ならあるんだよ」金をちらつかせて命乞いをしていた。

 珍しくもない光景ながら、依子はいい加減にうんざりしてくる。ふと、昼間の屋上でのやりとりを思い出した。

(そう――どんな奴だろうと銃さえあれば殺せる)

 極々当たり前の事実だったが、昼間の屋上にいる少女を脳裏に過ぎらせると違っていた。男を見据えてみる。

「お、考え直してくれる気になったか? 何も全員殺さなくてもいいだろう、なァ」

 男は安堵を簡単に顔に出すが、既に依子は何の興味も無かった。

 ゆっくりと改めて拳銃のグリップを握り直す。銃口を定め直す。初めて拳銃に触れるように、慎重で緩慢な動作だった。撃鉄を上げる。弾はまだ残っている。後は引き金を引くだけでそれを見る男の顔が青ざめていく。

「お、おおおい、いくら欲しいんだ? 金庫番やってたくらいだから多少は――」

 全く聞いていない。

「わ、わかった、わ」

 発砲する前に声に出してみる。



「バン!」

 真昼間の屋上で前屈みになっていた少女は、自らの手で銃の形を作った。銃口は目の前にいる数人の女子に向けられている。

「……は?」

 自分達の都合の良いように弄び、ストレスのはけ口にしている木偶が、突拍子もなく向けた銃口に虚を突かれている。

 女子達はしばらくポカンと口を空けていたが、やがて顔がみるみる赤く染まっていく。血管をピクピクと震わせている。意図していなかった反抗への怒りもそうだが、手段の幼稚さ、というよりもただ挑発としか取れない行為が怒りを買ったようだった。拳が飛ぶ。蹴りが入る。殊更口を動かすのも惜しいと言わんばかりに、生意気な少女に暴行を加えていった。

 しばらくそれは続いた。結局少女はいつものように、いや、いつも以上に為すがままの標的となっていた。

 やがて「ケッ」と吐き捨てるようにして、連中はぞろぞろと去っていく。

「……」

 少女は身体中の痣から発する痛みからなのか、再び横に倒れた体勢のままぼんやりとしている。唇からは血が流れている。しかし構わずに垂れ流し続けていた。

「――やれば出来んじゃないの」

 声をかけられた。少女は頭をやや上げて、陽光から眼を細めつつも見上げる。

 依子だった。肉声による発砲音より前の一部始終から見るでもなく聞くでもなくしていた様子だった。

「そんなハリボテじゃなくてモノホンなら確実にあいつ等の脳天吹っ飛んでたわよ」その言葉を聞いて少女は吐き捨てるように答えた。

「……何も出来てねーわよ」

「毎日やられっぱなしの癖して初めて何とかしようとはしたみたいじゃない?」

「……何ともなんなかったわよ。……っつーか今更ながらあんたの方がタチ悪いんじゃないの?」堂々と訊き返された。しかし依子は構わない。

「私が言って聞くような連中じゃないでしょ。それとも先生呼ぶ?」

「……」

 少女は再び口を閉ざした。

 その様子をしばし依子は観察するようにしていたが、不意に近くまで寄って来て腰を下ろし、少女の横に並んだ。

「……何よ、まだ何か用? 優等生の本性暴かれたりで言いふらしてもいいのよ別に」

 適当に強がってみせるが、言い終わらない内に依子は手を動かした。

 手首も連動させて、構える。ついさっき無用の長物と化していた、手で形作った銃だった。片手の人指し指と親指をVサインのようにしている。子供がよくやるような遊びだった。その形を見せびらかすようにして、依子は「どう?」と訊いた。

「どう、って――」

 どうもこうもない。ただ手の指で模したサインでしかない。ただ、妙に何というか様になっていると少女は思った。常にその形と共にしているかのような馴染み方をしていた。遊びではなく真剣に、大真面目に、その形――つまり銃を「手に」していた。

 少女は手の銃を夢中で眺めた。依子は手首をグリグリと動かして、あらゆる角度から銃の外見をシミュレートさせる。何だか先程こいつが宣っていたモノホンの様に映えて来る。それが少女には不思議だった。指紋や関節を曲げた際に生じる皺までが目視出来る。少女はこれほど熱心に他人の手を観察した事などなかった。

 二人はしばらくそのようにして形容しがたい、コミュニケーションなのかすらよくわからない行為に身を浸していた。

「……ねぇ」

 依子が口を開いた。

「……何」

 少女はぼーっ、と銃を見続けている。

「モノホン見たくない?」

「え?」

 心臓の高鳴りを感じて、思わず身体を持ち上げた。



 本当に見せられるとは思わなかった。

 次の日の屋上に、二人はまた銃を介していた。但し、今度は問答無用、正真正銘の本物だった。時間は昼ではなく、空がやや赤みがかりつつある放課後の夕方だった。そういう待ち合わせをしたのだ。少女は昨日の依子のモノホン発言を聞いてまず信じなかったが、どういう訳か指定の時間に来てしまっていた。どうにか自分に言い訳を考えながら、足を運んでしまっていた。こんなに浮かれた気分になったのはいつ以来だったか思い出せない程だった。

 しかし疑念も突き出された本物の前には(当然見た事も知識も無かったが質感のらしさは十分だった)、吹っ飛ぶ。

「はーっ……」

 依子の手の中にある拳銃を、息を漏らしながらまじまじと見つめている。姿勢を変えて角度を変えて、未知の黒い物体に興味津々、といった感じだ。

 依子はその光景を目にしながらどこか可笑しかった。女子中学生が実物の拳銃などという鉄臭い飾り気のないものに、まるで最新のファッション誌を読む時のような高揚で接している。依子には銃は珍しいものでも何でもないし、この場を用意したのは自分自身なのだが、それでもアンバランスだな、と思った。

「うーん……」

 まだ感嘆の声を上げ続けている。予想以上に食い付きがいい、少女のどこか必死な態度も相まって何か笑いが漏れてしまう。少女は気付いたようで依子に視線を戻し「何か可笑しい?」と言ってきた。少し顔が赤くなっていた。

「いや、何でもないわ……触りたいんでしょ?」

 依子の察したような言葉に、紅潮した顔のままで少女は期待して返した。

「え?」

「別にいいわよ、はい」依子はあっさりと少女に拳銃を渡す。

 誰が見ても少女のものである、未発達のあどけない手の平の上に、重量のある黒々とした物体を乗せた。少女は自らの手に移動した、それの重さと迫力に改めて少し物怖じしながら訊く。

「いいの?」

「いいも悪いもあんたには本物かどうかもわかんないでしょうが。私がいいって言ったらいいのよ」

 聴いて少女は遠慮なく銃を弄り始めた。

「……ん」

 指をグリップにゆっくりと慎重に絡ませていく。油断すると重さに耐えかねて身体が持っていかれる気がした。それでも何とかトリガーに指をかける。そして銃身を持ち上げて、銃口を刻々と沈みゆく夕陽の方向に向けた。

 少女は息をのんだ。夕陽の球形は人間の血に染まった頭のようだった。汗で身体が冷えるのを自覚する。

「……これなら殺せんのよね」

 緊張している少女を横目に依子は「弾入ってないわよ」としれっと言った。

「……え?」

 咄嗟にトリガーを押してみるがカチ、カチと気の抜けた音しか返ってこない。

 少女は脱力して肩を落とした。あからさまに期待外れ、という様子を見せる。

「なら駄目じゃないの……意味ないわ」

 依子は呆れてもっともらしい意見を口にした。

「あのねぇ、素人のあんたに装填して渡した挙句こっちにブッ放される可能性もあるのよ、くどいけど本物なんだから」

「……でも、これじゃ撃てない」

 少女はすねたようでトリガーを無意味にカチカチとやっている。知識が無いのだから危険性の話をされてもピンとこない。やがてぺたっ、と気が抜けたように腰を下ろした。なおもカチカチとやりながら外見をじろじろ観察している。買ってもらったおもちゃにするような気軽さで、銃を弄っている少女の横に立ちながら依子は「名前は?」と訊いた。

「何よ今更……それよりこれ」

「な・ま・え。名無しの権兵衛じゃあるまいし名前くらいあるでしょう」

 少女は銃を弄ったままにやや間を置いて息を吐いた。

「光よ。どうもこの名前が好きじゃないのよね」

「光? そのまま何々が光った、の?」

「そーよ」

「成程ね、そりゃあんたには似合わない名前だわ」

 ニヤニヤ笑いながら遠慮なく言う依子に「だから好きじゃないのよ」と光も軽く返す。

「じゃああんたの名前はどうなのよ?」

「依子よ」

「よりこ……よりこ、ねぇ……つまんねー名前だわ」

 光も依子と同じように、嫌味がかった評をする。しかし、それは互いを罵倒する意図を含んだやり取りではもうなかった。

「名前に見合った人間に出来てないようね、私達」

「お互い様」

 皮肉に満ちたやり取りではあったが、内心どこかで通じ合っていた。

 光は銃を観察し続け、依子はそれをどうするでもなく放置している時間が流れた。どれくらい経った後だろうか、光が依子に「飽きた」と返却するまで、その時間は夕暮れの屋上に存在し続けた。


  *


 それから依子と光はどちらからともなく約束を交わして、屋上で話をするようになった。無論目障りないじめっ子共がいない、始業前の早朝や人が掃けた放課後といった時間帯に、である。

 その日、依子が屋上のドアを開けると既に光はそこにいた。もう毎日のように顔を突き合わせているので特に話すこともないのに、何故か逢い引きしている。

 早い朝特有の張った空気があった。それほど遠くでもない場所から、小鳥の甲高い鳴き声が聞こえる。日差しを感じながら隅に座っている光の方に近づくと、様子が少し違っているようだった。

 まだ授業開始前だというのに、昼に見る加害の後と同じ類の汚れた方をしていた。

 鮮明な陽光を受けて、くっきりと擦り傷から染みた血や跳ねて残った泥を残す学生服がある。そこには色濃い疲労があった。

 依子に気付いた光は、何でもないように笑って見せた。

「ご苦労なことにわざわざ家まで押しかけてきやがるのよ」

「……あんた、家族とかはあるんだっけ?」

 今までわざと訊いていなかったことを言ってしまっていた。

 光は鉄柵に身体を預けてもたれかかっていたが、依子の眼には硬い鉄の棒から成る柵とおぼろげな柔らかい身体の対比がグロテスクに映った。

「あるとかないじゃなくて何とも思ってないでしょうね。どうでもいいわよ、あんな女」

 強がりなのか弱さを見せていないが、依子にとってそれはとても痛々しく寂しいものに映った。こんな馬鹿があるか、と叫びたくなった。なんでろくでもない屑に好いように扱われなきゃならないんだ? 怖いのかも知れなかった、しかしだからと言ってなんでこのボロボロの少女に痩せ我慢を強いて今にも崩れそうな笑顔を作らせなければならないのか。誰に? 何のために? 全く話にならなくて眼元が熱くなっていった。近くを通る始発の電車の騒音が、余韻を持って身体に響いてくる。

「ならやっぱり、本当に殺そうか」

 光は動揺したようでもなく、真っ直ぐに依子を見ていた。

「殺そうか……」

 陽は眩しかったがそれ以上に頭が熱くなっていた。今までとは違った種類の憎悪だ、と思った。



 計画には詳細な前準備も何も無かった。連中を屋上に呼んで、拳銃で撃って終わり。

 問題はどうやって屋上まで誘導するかだったが、光はあっさりと「金よ」と言ってのけ、毎回カツアゲされている金額以上の額をくれてやる、例の場所、バレないように夜でも良いかと聞いたら簡単に了承したらしい。それを聞いて依子は一層殺意を確信したが、表面上は「なら良かった」としか言わなかった。その程度の相手にヤクザ相手か以上の装備をする必要もまるでなく、不意を突くでもなくただ撃つだけだ。後始末についてもそこら辺の中学校の屋上に転がっている死体が銃による射殺だったとして、生徒を疑う、などという考えに普通の人間が及ぶはずもなく、懸念としては証拠を残さないようにすることしかない。

 そのような段取りを決めた上で成功率が高かったからか、何かウキウキして依子は冗談半分に「死体を祝してパーティーでもしようか」と言ってみた。とても正気とは思えない提案だったが、それを聞いた光は「お菓子かジュースでも持って行く」と本気の顔をしていた。障害でしかない縛りからの解放なのだから、パーティーというのもあながち間違いでもないと二人で笑いあった。



 銃で殺すのは、光自身でなければならない。

 そう思った依子は、光に拳銃の扱い方について色々と教えることになった。とはいえリロードなどはしなくてもよいから、構える時は腰を据えろ、音に気を付けろ程度だった。「ゲーセンのやつと変わんないわね」と言った光の横顔を見ながらなかなかサマになっている、と依子は思った。

 そして、今まさに本番前の光の様子も何ら落ち着いたものだった。

 時間は、深夜。辺りは静まり返っており、空からの月光が唯一の光源になっている。依子は光が構える横で見守っている。指定の時間までいよいよだった。

 しかし、と思う。光の生まれて初めての殺人を目前にしながらの冷静さには、目を見張るものがあった。自分はこんなに落ち着いてはいられなかった。幼いながらもその行為の意味は十分に理解出来たし、それを通過してしまえば何か決定的な一線を越えてしまう予感への恐怖で、全身を震わせていた。小さい手に余る重い物体を操ると、眼の前にいた男が倒れて血を噴き出した。急所が外れたのか腹の底から絞り出すような呻き声を上げていた。その光景はしばらく脳裏から離れることは無かった。どこまでも赤い血と男の地獄から聴こえて来るような低い声を数えきれないほど夢に見た。今はもう何とも思わないが、未だに鮮明に覚えているのだから、体験の強烈さは否定しようがない。いや、標的が明確な対象だからなのかも知れない。憎悪を渾身の武器にすれば恐怖すら後景に退くのだろうか。

 そう考えて自分に出来ないことをやれている光を羨ましく思った。もはや麻痺して使い物にならない自らの憎悪を呪いながら。

 足音が聞こえた。こんな時間に屋上へ続く階段を上がって来るのは連中しかいない。雁首揃えて棺桶に直行だ。

 次第に近づいて来て、ドアが錆び付いた耳障りな音を立てて開いた。

 現れた連中は揃いも揃ってダルそうな表情をしていた。時間が時間だというのに昼と全く変わらない下劣な臭いだった。そして目の前にモノホンの拳銃を構えた、木偶だったはずの少女を視認する。当然のように警戒も何もなく、以前の続きかと言わんばかりに唾を吐いた。

「あのさぁ、こっちは忙しいんだからままごとに付き合う暇はないんだよ、さっさとカネ出しな」

「割りに良く出来たオモチャなんじゃないの、そんなもん痛くも痒くもないってんだよ」

 その厚顔無恥を極めたような面構えに、依子はただ不快になったが、最早我慢する必要は無いのだった。

 悪態を垂れ流しながら近づいて来た。光は一歩退くようにした。撃つために腰を落としたのだ。そして言った。

「死ね」

 躊躇なく引き金を引いた。銃弾は視認する間もなく先頭の女の額に命中する。

 パァン、と弾けながら響くような音を聞いたかと思うと、もう女は脳天に頭を穿たれて絶命している。

 沈黙が落ちた。重い銃声の余韻を残しつつも冗談のような軽さがあった。数秒経ったか、一人が悲鳴を上げてドアに駆け寄った。他も動かない足のようで殺到してそれに続く。光は逃すはずもなく、一人一人に向かって銃口を向けた。バン、バン、バンと続く度に地面に倒れていく。ぐしゃ、と肉がコンクリートに落下する音がした。

 そして残ったのは、醜悪な人間だったものと硝煙の鼻に付く匂いだけだった。

 光は、はーっ、と長い長い息を吐いた。

 依子は日常的に接する事態ながら、心の中で快哉を上げていた。予想以上だ。こんなに簡単に終わるはずなのに、これまでのくだらない経緯は何だったのかと思う。死体から眼を逸らして、光に顔を向ける。何も言うつもりは無かった。何を言おうと意味が無かったからだ。

 光は、肩で吸っては吐いてを繰り返している。そこにはさながら野生動物のような荒々しさがあった。問題は一切無いように見えた。しかし違っていた。呼吸の中に乱れが混じったかと思うと、次第に身体が震えているのが分かった。銃撃による反動に震えているのではない。それは依子自身がかつて経験した恐れから来る崩壊と同質のものだった。

 依子はそれを見て迷った。何をすればいいのかさっぱり分からなかった。元より掛ける言葉など見つからなかったのだ。それでも「光……」と何とか呼びかける。はーっ、はーっ、はーっ、と肺から絞り出すような呼吸音が鳴り続けている。

 すると折り重なる死体の方から、灰色のコンクリートを伝って伸びて来るものがあった。波紋が広がるように浸蝕してくる赤い液体。血だった。ゆっくりとこちらに向かって来る影。

 光はそれを茫然と見つめていたかと思うと、たまらず身体を振り払って出口へ駆けた。死体を乗り越えて下へ続く階段へ飛び降りていく。

 瞬時に依子は後悔した。駄目だった。自分は異常な人間なのだ。普通の中学生の少女が人を殺して平静でいられるほうがどうかしている。煮えたぎる憎悪を自分に向けながら、光の後を追うしかなかった。

 階段を下りると、各教室が連なる廊下になっている。しかし真っ暗でロクに教室名を掲げたプレートも見えないような状態だった。慣れない無音の校内から聴こえて来る足音の方向を捉えて、とにかく走った。そうだ、自分が悪い。こんなことは光にやらせるべきじゃなかったのだ。走りながら眩暈に襲われてフラつかせる身体を何とか保ちながら馬鹿が、馬鹿がと自らを罵る。人影が見えた。あっちだ。

 夢中で向かうとそこは昼間に通う教室だった。3-A教室。その中からすすり泣く声が聴こえる。開けっ放しのドアから中に入ると、そこには泣きじゃくっている少女が一人いた。

 何故なのだろうか、と思った。自分はこんな姿を見たくないから殺人を提案したのではなかったか。これでは連中と何一つ変わらないじゃないか。いや、そんなはずはない。何故。違う。頭がどうにかなりそうだった。

 何も考えられなくなった頭より先に、身体が動いていた。邪魔な机共を蹴散らしながら歩いて、眼の前まで進むと、座り込む少女と同じように腰を落として、その顔を見つめた。光は顔をぐしゃぐしゃにして、涙を流し続けながら嗚咽を漏らしていた。さっきまで拳銃を握っていたとは思えないほどに、普通のどこにでもいる女の子だった。でも顔は泣き過ぎて不細工になっているし、髪はボサボサ、体はボロボロで服は汚れていた。

 不意に月の光が差した。その光を受けた少女の顔が照らされる。肌の凹凸がくっきりと浮かび上がった。黒の中に少し茶色が入った色の眼が、助けてと叫ぶように自分を見ていた。その眼を見返して、自分はこの少女に何をしてやれるのか、わからないままになおも依子は数秒間見つめ続けた。依子はその眼を見てふと、人間のいない土地に近いという感じがした。無意識にそう思っていた。

「綺麗……」

 無意識に、意味不明な事を喋っている。

 呆然とする光の頬に手を這わせて、包み込むようにする。自分を覆っていた理性が意識されなくなった。

 光に戸惑う余裕を与える間もなく、依子はその唇に自分の唇を重ねていた。その甘さは形容のしようがなかった。いつも醜悪な男共と交わすものとは全く違った躍動があった。脳天が痺れるように騒いでいた。そのまま体重を預けて押し倒し、重なるように横になると、身体に溜まっていた泥が綺麗に流れ落ちていく気がした。眼を閉じると、不快のガスが充満した現実のあらゆるもの共が失せて、どこかへ飛んで行った。

 どれくらい、そうしていたのだろう。

 光は抵抗しないままで、眼を細めて身体を委ねていた。かつて騒音を撒き散らしていた教室とは、まるで別の世界だった。クラスメイトの耳障りなはしゃぐ声も、教師の聞いた途端に頭から抜けていく声も、せわしなく時間の進行を告げるチャイムも、この世界には最初から存在していなかったようだ。月光が二人を照らし続けている。どうせ誰も見ていないのだから、何をしようと構わなかった。

 依子は唇を離して、もう一度光の顔を見つめる。もう涙は止まっていた。代わりにとろんとした甘えるような眼をしていた。頬が紅潮して発熱していた。止める者も必要もない心地に全身で打たれながら、依子は遠慮なく指先でソックスから撫でるようになぞって、スカートの中に手を入れた。指をやや伸ばすと、先に湿った感触が伝わりながら僅かに嬌声がした。今まで一度も感じた事の無い昂揚に、身を投げ出しながら愛おしくてたまらなくなった。

 また唇を重ねる。光の咥内に舌を広げて押し進めると、呼応するように舌を伸ばして来た。唾液を交換する更に濃厚なキスの味だった。秘部に届かせている指を動かす度に、湿った液体の感触が伝わってくる。互いの人肌の燃えるような熱さとうねりに、どこまでも落ちていった。絶頂までの時間も置かずに誰もいない、二人しかいない世界で少女は求めあった。


  *


 ここはどこなのか、時はいつなのか、分からなかった。

 夢の中にいたのだから、余計な感覚など全部醜い現実に置き忘れてきたに違いなかった。それでも発情しきった肉体は、徐々に夢から覚め始めているはずだった。

 二人は、教室の壁に寄り添ってもたれていた。夢から覚めても溶けるような浮遊感は持続し続け、現実に持ち込まれている夢の残滓だけでも十分過ぎるほどだった。白昼夢のような静寂のなかで呆けたようにしている二人だったが、依子の肩に頭を乗せている光が先に口を開いた。

「……ヘンタイ」

 それを聴いた依子は、身も蓋もない響きを反芻させながら、ああ、確かにそうなのかも知れない、と思った。内心とは裏腹に、相応しい軽さで返す。

「そう?痛くはなかったでしょ?」

 間の抜けた返答に光は呆れて、頬を膨らせながら言う。

「そういう問題じゃない。全くデリカシーってやつに欠けてるわよ。か弱い乙女の純潔を奪った罪は重いわ」

 いつもの調子に戻った軽口を聴きながらそうか、初めてだったのか、と依子は思った。また得体の知れない熱さが昇って来た。歓喜の余韻の持続に、危うく再び酔いそうになる。

 気付けば視界が少しずつではあるが明るくなってきていた。夜明けが近づいているらしい。それを察した光は身体を離して、力を入れ直すように勢いよく立ち上がった。上履きのキュッ、という音がした。

「さて、そろそろ帰らなくっちゃあね――こんなのバレたら一発退学モノよ」

 同調して依子も腰を上げて地面に立った。いつぶりか、という重力の重さを感じてぞっとする。酩酊を拭うように頭を振って持ち直すと、冷たい風を感じた。振り返ると、光がドアを開けて教室に隣接するベランダに出ていた。無論そこにも落下防止の鉄柵は設置されていて、光は手すりに身を預けて、風を浴びていた。

 その吹っ切れたような姿を見て、間違っていなかったのか、と思ったが、しかし、本当にそうか? とも思う。殺人に加担させたのは間違いなく自分なのだ。悪いのは私だ。だとすれば謝るしかない。でも今更何て言えば良いんだろう?

 頭にしがみついてくる黒い感覚に、現実の醜悪さが色を取り戻したように見えて、それから逃れるためにベランダに一歩出てから、その場しのぎの「ごめん」を口にした。光は風に吹かれながら、少し長い髪を上に上げて、依子に向いた。黙る。依子は返答が怖くて俯いてしまったが、その必要は無かった。

「そんなことより競争しない?」

「え?」

 競争? 何の事だ? 構わず光は続ける。

「ほら、あっちの端の方まで、競争」と言って、壁を隔てて教室の連なりと平行して続くベランダの端を指差した。

 一応、理解出来た。ベランダの横幅は人二人分程度の隙間はあるし、他の組のベランダとベランダの間には仕切りらしいものは無く、シームレスに繋がっている。でも、何故競争なのかが分からなかった。しょうがないので考えあぐねていると、もう光は既にスタートを切っていた。

 まだ十分に冷たい風を切って、全速力で駆けていく。その遠ざかる背中を見ながら反応に迷った。でも負けるのは嫌なので追いかけよう。依子は出遅れてスタートした。だが光は既に端に届きそうなようだった。勝ち負けも何も、反則は無効でしょう――などと問い詰める気になっていると、異変が起こった。端のやや低くなっている壁に辿り着いたかと思うと、光がいきなりよじ登り始めた。足を上げれば十分届く高さだった。

 依子が眼を白黒させていると、光の姿が壁の縁に立った途端に消滅した。余りの脈絡の無さだった。心臓の鼓動が急激に早くなる。まさか、落ちたのか――?

 ふざけて何をやってるんだ、という怒りと遥か眼下に落下した光の姿を想像して、足が取れるほどに駆動するのが分かった。僅かな距離ながら息を切らせて端に付いた。瞬時に壁に貼り付いて身体を曲げ、下を覗こうとした。

 すると、ひょこっ、と光の顔が不意打ちで現れる。

「いえーい、私の勝ちー」

 反則の勝利をもぎ取った勝ち誇った笑顔でにへら、と馬鹿みたいに笑ってピースサインを見せている。驚く前に光の肩を掴んで存在を確認した。疑念より先に来た安心で、胸が一杯になってそれ以上は考えられなかった。その依子の必死な顔を見て、光は言ってのける。

「何よ、トリックとも呼べないような仕掛けのつもりなんだけど」そして指を下に向けた。

 縁から身を乗り出すと、階段があった。何の階段かと言えば、非常階段だった。ベランダに付設されている、非常階段。それが壁に遮られて見えなくなっていただけ。飛び降りたのでも浮いたのでもない。力が抜けた。確かにトリック以下の仕掛けだ。なんて馬鹿馬鹿しい――いや、そんな事はどうでもいい。光がこらえきれず吹き出した。

「いや、ちょっとした遊びじゃない。それとも、そんなに――心配した?」

 案の定だった。勝手に心配して百面相をやった間抜けが全部筒抜けになっている。カーッ、と熱くなった。顔が赤い。耳まで赤い。自分の考えなしもそうだが、それ以上に――こいつに現在進行形で見られているのがたまらなく恥ずかしかった。

 たまらず顔をそむけると、まだ視界の端にニヤけた顔が映って腹立たしいことこの上ない。もう分かったから。そうして攻防戦を繰り広げていると、光は「よっ」と身軽そうに縁を跨いで、ベランダを乗り越えて来た。まだ楽しそうに見つめてくる。何だ、そんなに面白いか、確かに間抜けだけどそこまで馬鹿にしなくてもいいだろう、だっていきなりあんな事をされて――などと言い訳がグルグル頭を回っていた。赤い顔で言い訳をあれでもない、これでもないと考えている――すると、いきなり抱きしめられた。

 暖かかった。それには問答無用で心を溶かす力があり、ここまで無為の抱擁を体験したことはなかった、と心の底から感じた。しまった、油断したといった負け惜しみはあっという間に消えた。ゆっくりと、自らも腕を回す。心地よい体温と伝わってくる心臓の鼓動に胸がはちきれそうだった。未だ冷えている青白い黎明の空気の中で、確かにここにある安らぎの感触に眠るように眼を閉じた。耳元で、囁く声がした。

「私、あんたのことが好き……」

 何故か自然と涙が出て来た。溢れて溢れて止まらなかった。十五年の憎悪に塗れた人生を許され、肯定されたような気がして生きていて良かった、と生まれて初めて思った。そうして静かに泣きながら、囁き返す。

「私も、好き……」

 ああ、時間よ止まれ、頼むからこの一瞬をいつまでも続けさせて――と祈りながら、少女二人はそのまましばらくそうして、朝日が昇って来た。人生の幸福を感じながら、どこからともなく、血の匂いが漂ってきていた。

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