少女に銃を……

ユーライ

1 堕天

 痛かった。

 腹に鈍いが、それでいて神経を逆撫でしてくる鮮烈な痛みがある。その箇所を無意識に押さえていた手の平を覗くと、ベットリと液体が付いている。匂いで血だと分かる。暗くて周囲は何も見えない。暗闇に慣れて薄い暗黒が広がるだけだ。……ただ、音は聞こえる。パン、パン、と一定間隔でどこからともなく響いてくる。音の間隔と自分の心臓の鼓動のリズムを感じながら、男は軒先で突っ伏していた。

 彼は裏社会に位置する組織の末端で、外敵があれば即座に弾き出される鉄砲玉の役割を自負していた。しかし彼にとって最早そのような事はどうでも良くなりつつあり、確実に迫る死の前では何もかもが茶番に感じていた。

 悔いも未練も考えなかった。組織の拠点を前線で警護し、敵への威嚇の役割は十分果たしたはずである。

(あー……)

 血が流れ続けている。痛みは寒気と混合され、意識が曖昧になってゆく。どうやら敵によって辺りは一掃されたようなので、救けは望めないだろう。

(何なんだ……)

 彼はどうでも良くなりながら考える。自分を撃った「敵」の姿を。

(あれは……女)

 女と呼ぶのもためらわれるほどの年端もいかぬ少女。そいつが一瞬の内に侵入と殺戮を完了させた。眼の端に映った、月夜の明かりを背にして屹立している、どこのものとも知れぬ制服を着用した少女の姿。それは彼に何か神々しい輝きをイメージさせた。顔貌は影が掛かっていたが、恐らくどのような表情も映していなかったに違いない。さながら影法師のような……。

(死神か……)

 突拍子も無い己の思考に自嘲しつつ、彼の意識は銃声の弾ける音をバックにまどろんで消えていった。


  *


 兎偶依子は15歳だ。

 至って普通の市内中心を少し外れた場所にある中学に通う、女子中学生である。しかし、十代というレッテルを貼られた人間達が抱く自意識は「至って普通」が実際ではない。

 彼女の学校での態度は、グループの輪から外れた孤立したそれであった。目立たず、地味。授業態度は真面目とされるが挙手したりする事はなく、成績も中の中が定番の位置。このようなキャラクターだと深窓のお嬢様等ともてはやされる事もあるのかも知れないが、そんな事も無かった。ただクラスの中にいる一人に過ぎない。

 窓際の校庭を見下ろせる位置にある机と椅子に、彼女はいた。頬杖を突くでもなく、ただ視線を固定させて外の景色を見ている。窓枠のフレームから覗く風景は窮屈だった。かと言って他に視界に入れる適当な対象も無かった。教室に有象無象にたむろする人影よりは、どこぞの運動部員が引いた白線の方がマシだった。少し意識を変えると、まるで校庭だけは人が一人もいない、静寂した世界のように見える時がある。そうした瞬間に安堵のようなものを感じながら外を見ている。木立が揺れる気配がした。

「あの……兎偶さん」

 クラスメイトの女子が話しかけてきた。同学年の同い年だというのに「さん」付けなのが、彼女のやや浮いた立ち位置を示している。古式ゆかしい指定の制服を曲げて、拝むようなポーズを作りながら「ノート見せてくんない?」と言った。表面上は謙虚ながら、もうこれで何回目かわからない。依子のクラス内における唯一と言ってもいい存在意義が、この「ノート貸し」だった。

 教室の雑音が戻って来た。それぞれのグループに分かれて級友と騒ぎ立てる声だが、どれも変わり映えがしていない。廊下からも教室移動のためか足音が聞こえてくる。いつもの世界に戻って来たと感じた。授業と授業の間に定点のように打たれた休みの時間。

「ええ、いいわよ。◯○さん」

 依子は笑顔を作りながらノートを渡して見せる。

「ありがと。毎回悪いね」

 これもまたいつもの決まり文句だ。依子はその光景を目にしながら気怠さを常に感じていた。媚びた態度で迫って来る級友の愚鈍な振る舞いも、それに答える自分の仮面の付け方、周囲の空気に到るまでただひたすらに不快だった。この状況を作り出している原因の曖昧さを考えると、見える手と見えない意思によって自分の全てが確定されているような気分になり、心の波が荒れる様を感じている。いちいち何十人もいる連中の名前など覚えるものか。故に脳内で反芻させる事を阻止する。そこに感情は無い。まだ雑音は響いてくる。窓の外は、走り込みをしている生徒が列を作った、普通の校庭だった。ただ色々と面倒だから来てやっている場所というだけなのに、面倒を患うのはご免だ。



「――はい。これ」

 何回目かのチャイムを聞いた後、ノートは戻って来た。例によって笑顔で受け止めると、依子は教室を後にして家路につく。

 夕陽で空が赤色に染まるのを見ながら、ふと思うのは自分に近い色だということだ。徐々にオレンジの淡い色彩から血を連想させる暴力的な赤一色に変わっていく。それが彼女が世界に抱いているカラーだった。郊外にある学校から更に離れた自宅までの道筋に、既に人影は無い。ただ、赤く無機質な世界の地面を歩きながら、ある場所のことを考える。

 人間のいない土地。彼女は人間が嫌いだった。子供も大人も老人も嫌いだった。だから今見ているような光景が固定された土地に思いを馳せる。地球上にはまだどこかにそういう場所が必ずあるはずだし、そこで人間をやめることも既に決めていた。だが未だ手掛かりは掴めない。少なくとも今歩いて行った先にある場所とは正反対の位置にあった。溜息をつく暇もない程の憂鬱を抱えながら、自宅に向かう。

 これから時間が経つと空は黒く染まり、夜になる。完全に彼女の色になる。



「ア、しかし、なァ、この穴がいくら締まるとは言えよォ」

「仕事が出来ねぇメス犬は駄目なんだよなァ、よ!」

 下腹部に衝撃が来る。

「依子ォ? 散々っぱら言ってるだろうが、撃ち漏らしは駄目だってさぁ」

 腹が混ぜっくり返されている感覚。いつまで経っても慣れやしない。

「まァ、“こっち”は漏らさないけどな、俺は仕事に忠実な人間だからよ」

 体内に液体が放出される。それと同時に男の満足した息が上がる。

「相変わらず下は優秀だよな、名器ってそういうんじゃなかったかよ?」

 場所は――ホテルの一室。

 依子は行為に無表情で答えつつも、眼の前の男の名前は憶えていた。

 鰐鮫剥人。戸籍上は依子の父親、という関係にある。いかにもなヤクザらしい暴力を感じさせる顔つき、何よりギラついた、あらゆるものをかすめ取ろうとする眼が象徴的だった。名前通りに鰐とも鮫とも付かぬ尖った歯を覗かせながら煙草を吸いつつ、ベッドを軋ませながら言う。

「俺がよォ、お前ん中にまだ入れるのを躊躇うくらいちーちゃかった時だ。拾われなかったらお前今どうなってるかわからねぇんだからな」

 捨てられていたのだ。本当に「捨てられていた」。現代に似つかわしくない、そこは河川の端であった。偶然、ほんの偶然、鰐鮫が拾った事が運のツキなのかは誰にもわからないが……彼の属する組織によって戸籍を書き換え養子にされた。

 そして身に付けられたのが殺しの術と御伽だった。言葉の響きから連想される上等のものでは全くなく人間扱いされない、便器同然だった。結果、依子は各組が恐れをなす優秀な殺し屋になったし、娼婦としても一流のものとされた。

 彼女はこの世の理不尽の権化のような扱いを受けて、かつては何度も自死を迫ることがあったが(阻止された)、現在は殆ど何も感じなくなっている。血と精液の匂いに慣れてしまっていた。

 依然として無表情のままの依子を無視して、鰐鮫は上着に身体を通しながら告げる。

「ま、この拾ってやれなかったらも散々っぱら言ってるんだけどな。理由はもちろん分かるだろう?」

 逃れる術はない。今のところはこれが厳然とした、揺るがしようのない現実だった。

「……はい」

「分かってるなら最初からちゃんとしろ。今日日犬の方が賢いってもんだ」

 そう言い残すと鰐鮫はスーツを整えて出て行った。

「……」

 依子は嘆息した。腹は立たなかった。かつては行為の度に吐いていたがそれもない。何故、反抗しないのか。振るわれた暴力の記憶が蘇ると、気力はしぼむように失われていく。痛いのは嫌だ。行うのは良くても受けるのは耐えられない。ガツン、ガツンと頭の中で鈍い音が響いた。感覚が戻ってきて耐えられない寒気に襲われて、不意に細い腕で自らの身体を抱きしめる。……ただ習慣のように心の中で百万回と唱え続けている呪詛がある。

 殺してやる。

 唱える度に様々な人間の顔や場面の記憶が浮かんでは消えていった。頭の中で果たせない殺戮を繰り返しながら、憎悪を見失わないように心掛けた。醜い肉やザラついた景色に次々とバツ印が上書きされて、ぐちゃぐちゃに混ぜられた挙句、寂れたゴミ箱にまとめて放り込まれる。

 いつものようにチャイムが鳴り、客が入って来る。巨漢で肥えた醜悪な男だ。そいつは既に股座を膨らませながらニヤニヤと彼女に迫って来る。学生服も脱いだ齢十五の身体で裸を晒して、欲情しきった視線を受けながら、巨体にのしかかれている最中にも漠然と唱え続けている。

 殺してやる。

<<人間のいない土地>> と同じ口癖を誰に向けるでもなく繰り返して、夜が更けてゆく。



「ん、で、調子はどう?」

「……ん?」

「アンタってシゴト以外は抜けてるわよね――ま、それが釣り合いってやつなのかも知んないけどさ」

「抜けてないわよ、別に。ただどうでもいいってだけで」

「はいはい、こっちはこれがお仕事なのよね。ガキンチョの話相手をするっつー託児所みたいな」

 そう言って医者兼、この場においては依子のカウンセラーである大黒真賀は煙草をふかす。

 組織で負傷者が出た際に診るのが彼女の役割だ。免許も色々と持っていて腕は確か、らしい。普通の医者と同じように白衣を着ており、外見からは闇医者にとても見えない。あるいはその若さ故に戯れのコスプレにしか見えないかも知れない。

 外見の割りに老成した雰囲気の女医を前にして依子は呟く。

「……毎回冗談みたいな話だと思うわよ。散々やらせといて心のケア? なんて」

「上の趣味なのよシュミ。最近のヤクザはフクリコウセイも安心です、ってね」

「CMでもやれば? ビラ配るとかさ、私がやるから」

 大黒は依子が安心して話が出来るこの世で唯一の人間だった。拾われて組織に入った頃からの付き合いで、殆ど義母のようなものなのかも知れなかった。しかし、彼女も依子を地獄の運命に駆動させるシステムの一員でしかない。

「今日の客の調子はどうだった?」

「全然駄目。キモいか汚いかデブかガリかのどれかよ。普通の男持って来いっての」

「そんな男はここに来ません」

 だが、二人の間には軟質の空気が流れているように見え、依子は組織の作為とはいえ拠り所としていた。

「で、アンタの調子は」

「結局聞くの?」

「お仕事だっつってんでしょうが。こういうのがカウンセラーなのよ」

「……どうってことないわ。普通よ」

 毎日のように繰り返されるお定まりの質問に面倒臭そうに答えるが、それに大黒はやや目つきを変える。

「十数人殺しまくった後に男のアレしゃぶってもかい?」

 依子はドキリとする。大黒が母親代わりだとしても「優しい母親」には成り得ないだろう。

「……それもどうってことないいつものことでしょ」

「ま、そうよね。安心したわいつもの依子ちゃんで」

 緊張を解すような声音で、大黒は依子の頭を撫でた。わざとらしい所作ではあったが、依子は拒否出来ない。当然ながら本当の両親については何も知らない。最初の記憶は鰐鮫の顔、否、抉るような眼だったのだから暖かさなど微塵もなかった。ただ大黒は違った。幼い頃から安堵の対象としての顔だった。心を許す、という状態を知らない依子にとって、一種のこの世に繋ぎ止める命綱の様な存在。

 ……数十秒そうした後で二人は向き直る。

「でもね、依子」

「え?」大黒はいたって真剣な眼をしていた。

「いつ突然人は壊れるかわかったもんじゃないわ。特にアンタの場合なんていつ割れるとも知れない風船みたいなものかもわからない」忠告めいた科白を口にする。

「……わかってるわ。いつもの小言ね」そう言って依子は立ち上がる。

「もう寝るわ。ったく何時間睡眠で学校行かせる気だっつーのよ全く……」

 欠伸をしながらひらひらと手を振り、部屋から出て行った。

 白い内装と照明が焚かれた“らしい”部屋に大黒一人になる。彼女は一瞬笑っているとも泣いているとも取れない表情をしたが、それは誰にも悟られることなく空間に霧散していった。


  *


 依子は今日も、普通の女子中学生らしく学校に通っている。

 不相応に大ボリュームな、昼を告げるチャイムが鳴った。この学校は弁当を持ち寄り好きな所で食べても良いようになっており、購買部もある。依子は財布を手に取って購買部に行き、何か適当なパンを買った。ここで食べる食事は別に軽量のものでも構わない。ヒットマン業に必要な運動量に対する栄養価は、組織が用意する。食事を手に取り依子は屋上へと向かった。彼女の定位置である。

 屋上は中途半端な広さだった。眼に付くのは、端を一周するように備え付けられた鉄柵である。当然のように連想される、飛び降り防止の為の措置なのは明白だ。しかしその隔たりによって、開放的なイメージを持たせる屋上にすら、学校特有の抑圧が見え隠れしているとも言えた。

 それでも彼女は教室よりは屋上が好きだった。ある程度の高さがあるため周囲を一望できるのだが、その高さから見下ろす生死の境界が揺らぐ感覚が気に入っていた。

 他より厳重な印象を与える重いドアを開ける。すると何やら声が聞こえてきた。舌打ちをする。静かな方が良いのにこれでは屋上に来た意味が無い。

 声の正体は、有り体に言えばいじめであった。ちらと見るに名前も知らない女子が、他の女子数名に虫を食えだの靴を咥えろなどと言われている。

「ホラ、ホラ、ホラ! 食いなよ」

「アンタさァ、その見た目の癖にセーセキが優秀ならウチらに盾突いていい理由になると思ってるワケ?」

 やられている彼女は何も言わない。無抵抗の身体に蹴りが入ると、わずかに呻き声を上げた。

 横を平然と通り過ぎる依子は無関心だ。彼女が日々目の当たりにしている地獄と比べれば、児戯に等しい。やられている方もなんとかしたらどうだ、とは思う。見ていて気分の良いものではないし、何か腹が立ってくるのだ。

 安っぽい罵詈雑言を聞きながら、自分に向けられた声が呼び出される。

「何の利用価値もないならテメェは死ぬしかないんだよ、元々生きてるんだか死んでるんだかわからねぇんだから上等だろ、それともこっちの方がいいか?」

 身体に走る痛み。吹き出る血。表れる痣。熱さは煙草の火。

「目障りなんだよ、どうせ生きててもしょうがないんだから死になよ!」殴打の音が聴こえる。自分の身体で鳴らしたものと同じ音。

 むせかえるような不快感に顔を歪めながら、人知れず依子は「死ね」と口から飛び出させていた。威圧する暴力と罵声に任せて、恥知らずな臭気を撒き散らし、それに気づきもせずのうのうと生きている連中こそ、死ね。

「アンタ」いじめっ子共が依子に話しかけてきた。

「……はい」

「ここでやってる事バラすとアンタも同罪だからね。覚えておきなさいよ」

「んなとこで食ってんじゃねーっつうの」ドン、と依子の尻を忌々しげに蹴飛ばしながら、捨て台詞を残してぞろぞろと去っていく。

 その後ろ姿は予告なく繰り出す暴力を常に纏わせている、見覚えのある姿勢だった。見ながら憎悪が立ち上って来た。あんな連中も要らない、と思った。また頭の中での標的が増えた。そんな連中にやはり媚びた態度を取っている自分に気付いて嫌気がする。用も済んだのでさっさと立ち去らなければならない。

 歩き出して、視界の隅にいじめの対象たる女子を捉える。

 身体を堅いコンクリートに横たえていた。顔は虚ろで擦り傷が垣間見える。制服は靴跡で縦横無尽に汚されていた。乱れた髪の間から覗く眼。どこかで見たことがある眼。思い出したくもない眼。嫌悪と殺意を向けられた眼。直視し難い惨めさと哀れさだった。耐えきれず依子は屋上のドアに手を掛ける。



 数時間後に依子は、ヴァンの後部で銃器を弄っていた。目的地は敵対組織が所有する空きビルだ。

 ビルと言っても二階建ての小規模なもので、おおよそアジトなどと形容されるような大層さはない。依子は事前に内部図、構成員数を頭に叩き込んでいる。事前準備を怠ったミスなど到底看過され得るものではないからだ。ヴァンの運転手は組織の一員だ。殺し屋輸送において諸々融通が利くように最適化されているらしい。らしい、というのは依子にとってそんな事は些細な問題だからだ。何か支障があった時は、最悪運転手諸共殺れとさえ言われている。

「……ねぇ、あんた。有名人の女子中学生だろ」

「……」

「俺も殺されるんならあんたみたいな華のある相手がいいもんだぜ、全く」

 バカかこいつ、と依子は思った。車内の会話は組織へ筒抜けなのである。わざわざ本番前の殺し屋に無駄話など、排除対象以外の何者でもない。

 ピ、と電子音がした。運転手が自前のラジオを点けたらしい。

<<――県の石井さんよりリクエストです、懐かしいですね~! これ知ってる若い人どれくらいいるんでしょうかね?>>

 重苦しい雰囲気に似つかわしくない、弛緩したトークが車内に流れる。依子はややあ然としたが、文句を言うのも面倒臭いのでそのまま黙々と銃器を弄る。安心するのだ。鉄の重さと冷たさに身体を持っていかれるような感覚――。

<<ああ水色の雨 私の肩を抱いてつつんで降り続くの ああくずれてしまえ あとかたもなく流されてゆく……>>

 ヴァンは、スピードは上がりもしなければ下がりもせず、着実に目的地へと向かって行く。



 ヤクザだろうとなんだろうと、家の鍵は締めておくのが常だ。目的地に到着した依子が最初に行ったのは、鍵部分の融解である。

 一般的には出回らない特殊な薬品と機材で行う。深夜なので周りに人の気配はまるでない。慣れたもので数秒あれば簡単にドアは開錠されてしまった。

 すう、と依子は深呼吸する。身体のスイッチを切り替える。緩んだ筋肉の代わりに神経をどこまでも張り巡らせて、頭の中を空にする一種の空白状態。暴力を作動させる前に無意識的に行う、慣れた準備だった。

 チャイムを押す。ピンポーン、と高い音が鳴り、数秒後に「……誰だ?」と低い声が受付口にノイズ混じりで響く。

 依子はそのカメラ部分にあるものを掲げた。そして一気にスイッチを押して噴き出す。

 ガス缶だ。相手の動揺した気配が伝わるが最早関係ない。相手としては侵入者を発見した時点で向かわなければならないし、正体不明のガスと来れば尚更である。そして依子にはガスの正体が催眠性のものである事はわかっているし、どうすれば吸い込まずに肉体を維持出来るかも熟知している。ただ迎撃して進むだけ。相手は罠にかかった虫のようなものだ。

 ドアを開け、ビル内に侵入すると「――ラァ!」と黒い影がやってきた。対して依子は冷静に照準を合わせ、引き金を引く。

 既に倒れている者だろうと、中途半端に武装してくる者だろうと、確実に殺していく。煙と銃弾と血に塗れて、いとも簡単に死んでいった。気付けば上階のメインフロアまでそれは続いている。

 依子が奥まった位置にあるドアを開けると頭であろう、眼鏡の男が立っていた。申し訳程度に札束を掴んでいたそいつは顔を引きつらせている。

「おい、か――」

 それ以上先は無かった。適当に撃たれて倒れた。

「……」

 肩が上下している。やはり興奮はしていた。しかし一般人ならいざ知らず背後に広がる死体の山を積み上げた依子には、スポーツ程度の感慨以上は持ち合わせることが出来なかった。倒れた衝撃でひしゃげた眼鏡を掛けたまま死んでいる男の頭を爪先で小突きながら、意味の無い予行練習だとつくづく思った。

 こんな連中相手では話にならない。本当に殺してやりたい奴は沢山いた。命令ではなく自発的に血を見る必要があった。ストレス発散の藁人形には丁度良いのかも知れない。

 床に散乱している金を踏みつけながら、窓際へ進む。ブラインドからわずかに外が見えたが、月明かりも星明かりも、光源など何一つ無い。

 暗闇を見ながら距離を感じた。標的を見据えながら、脱出出来ない足元から、あの場所まで辿り着くにはどうすればいいのか見当が付かなかった。階下から見計らった組織の連中が、後始末の為に騒がしい音を立てながらやって来る。

 そう言えば、今何時だったか。大黒と何を話そう……。

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